赤羽の映画館、東京オリンピック、ボーリング・ブーム、札幌味噌ラーメン、一体型ステレオ、ソノシート、東武100円シアター、3時の名画座、ゴーゴーダンス

私家版「記憶の残像」②~高度成長期

ぼくが初めて“映画館”で映画を見たのは、昭和33年、小学2年生の時だった。場所は地元の赤羽東映で、作品は東映動画の劇場用長編の第1弾「白蛇伝」(58年製作。白蛇が人間の姿となり、人間を愛する話。後から知って驚いたのだが、森繁久弥と宮城まり子のふたりだけで、出演キャラ全員の声をやっていた)。
この頃は、カラー作品を“総天然色”、アニメーションを“動画”と呼んでいた。学校の授業の一環として、見せられたのだが、今でもこの総天然色動画の色鮮やかな映像は忘れていない。特に、夜の背景の明るく抜けるようなブルーがとてもきれいだった。

当時、赤羽の駅周辺には、西口に東映、大映、東口に洋画専門館があった。東宝は、駅から大分離れた岩渕という街にあった(大映の小屋は、日活になったり、合併してダイニチになったりしていた。松竹は記憶になし)。
中でも、東映は栄華を誇るごとく、他の小屋とは一線を画していた。入り口に入るまで、花道があった。つまり、鳥居のない神社のような風情で、石畳を歩いていくのだ。両脇の塀には、上映中、次週公開作品の看板、さらには時代劇スターの似顔絵がずらっと並んでいた。今のように写真技術が発達していない時代だから、全て“絵”だった。

そして、お正月や夏休みには、片岡千恵蔵、東千代之助、大川橋蔵、大友柳太朗など東映専属の主役級の俳優たちが勢揃いする、いわゆる“オールスター映画”と呼ばれるものが上映された。清水の次郎長や忠臣蔵などが定番で、その時には、桜の造花が花輪がわりにずらっと並木のように石畳の脇に立てられた。

洋画専門館は、「赤羽オリンピア劇場」といい、東口の元西友があった所で、 現在は1階が本屋になっているビルに位置していた。ここは2本立上映をしていたが、その組み合わせは、とてもいい加減なものだった。小学5年の頃だろうか、母に「ピーターパン」を見に行くと言って出かけたが、実は併映する「ソ ドムとゴモラ」(62年製作。ロバート・アルドリッチ監督による旧約聖書を題材にしたスペクタクル作品。「男と女」のアヌーク・エーメ、「黄金の七人」シリーズのロッサナ・ ポデスタの妖艶な女優陣が出演)が見たかったのだ。ヒロインの胸が大きく開いた衣装のポスターが目に焼き付いていて、どんな映画かも知らず、ただただきれいな西洋の女性のふくよかな胸を見に行くためだった。

その頃、映画の情報は、街の至る所に貼ってある“絵”のポスターで知るのみだった。とりわけ、女性の裸に近いものが描かれている作品が、ぼくの見たい候補作だった。
いつの頃かは忘れたが、「春のめざめ」「暗闇でどっきり」「何かいいことないか子猫チャン」「女狐」などを覚えている。

試写会も小学4年の頃、初めて経験した。父の応募したハガキが1枚当たったのだ。父はぼくに見るようすすめてくれた。場所は、有楽町の元そごうデパートの読売ホール。 映画は「素晴らしい風船旅行」(60年製作。「白い馬」や「赤い風船」のアルベール・ラモリス監督作品。老人と孫との気球による冒険で、美しい大自然を写した空撮が見事)。
午後6時くらいからの試写のため、父に連れられて会場までいった。父から母が作ってくれたサンドイッチを渡されると、 別れをいって受付を通った。父は映画が終わったら、また迎えにくると言った。
席に座ってサンドイッチを食べていると、父が紙袋を持って、ぼくの隣の席に座った。息子にお弁当を渡すと言って入ったのだそうだ。父はそのお弁当を食べながら、そのまま、ぼくと一緒に映画を見ていた。

中学1年の秋のある月曜日、ぼくら友達4人は、学校をさぼり、朝一番(この頃、10時半上映開始だった)で吉永小百合主演の日活映画「愛と死をみつめて」を見に行った。始まってすぐの頃だった。後ろの席に座っていたおじさんが、ぼくの背中をぽんぽんと叩き、「君ら、中学生だろ?」と声をかけてきた。ぼくは後ろを振り向き、おじさんを見た。顔はよく見えないが、トレンチコートにハンチング帽。瞬間、“七人の刑事だ”と思った。「はい」と小さく答えた。
ロビーに4人は連れ出され、2名2名に離された。おじさんは2人いた。学校はどうしたのか、と聞かれたので、ぼくは「昨日、運動会があって、今日はお休みなんです」と答えた。両親は知っているのか、と聞かれたので、「お父さんに愛とは何かを見てこいと言われました」と答えた。もちろん、でまかせだが、両親や学校に知られて、きっと怒られるな、とビクビク萎縮していた。
すると、ぼ くとは別の2人を質問していたおじさんが、もういい、中に入っていい、と解放 してくれたのである。ぼくたちは、中に入り、そのまま映画の続きを見た。見終わって、外に出たぼくらは泣きじゃくった後で眼は真っ赤、鼻はじゅるじゅる。
涙声で、「どうして許してくれたの?」とのぼくの問いに、内藤くんが、「お父さんがF警察署の署長をしていると言ったからさ」と自慢げな笑い顔で鼻をすすりながら言った。あとで、わかったのだが、内藤くんのお父さんは、名前を言っただけで、だれでも警察官や刑事なら知っている力のある人物だった。
ぼくらは、「吉永小百合ちゃんは相変わらずかわいいね、最高」「浜田光夫はいい男じゃないよね」などと映画の感想を言い合いながら帰り道を歩いていった。

ぼくには、赤羽で映画を見たあと、決まって買い食いするものがあった。それは、1個130円もするセキネの肉まんだった。セキネは大衆レストランで、浅草が有名だが、赤羽にもあり、肉まん、あんまん、シュウマイを店頭でも販売していた。
当時、東京で肉まんといえば、冬、パン屋やお菓子屋の軒先に、保温器に入れてある井村屋の肉まん(1個20円か30円)を指した。これだけだった。しかも寒い冬だけしか売っていない。多少ワラのような、絶対消化しないものも混じっていたが、これが肉まんの全てとして、ぼくは大変おいしく味わっていた。
ところが、日曜日によく赤羽に買い物に行く母が、夕飯のおかず代わりに、セキネの肉まん(現在は1個210円)を買ってきた。とてつもない味の違いだった。200倍も300倍もおいしいと思った。東京でのうまい肉まんの元祖だった。
それから、時代の進歩とともに、東京にも肉まんの名物店がどんどんと出現するようになる。ぼくの肉まんの旅が始まるのだった。

昭和39年10月、東京オリンピックが始まった。この年、東京オリンピックのために、東海道新幹線や首都高、羽田・浜松町間のモノレール、ホテル・ニューオータニ、日本武道館などが相次いで開通、開業、完成となった。
こうした ニュースが連日テレビから流れ、社会や経済が勢いよく発展していく様子が、子 供にもよくわかった。
晩酌をしながら、ほろ酔い気分でニュースを見ていた自民党嫌い巨人ファンの父は、珍しく、当時『所得倍増』を掲げていた池田勇人首相に向かって、「あんたはえらい」とつぶやいていた。

東京オリンピックには、いろいろと思い出があるが、若干13歳のぼくにとって、生涯忘れられないことがあった。
テレビに、信じられない光景が映し出されていたのだ。
それは、今はもうなくなった女子陸上近代五種の競技だった。近代五種というのは、砲丸投げやハードルなど、投げる、走る、飛ぶ、を総合的に競い合う、今で言う陸上のアイアンマンの競技だった。ソ連からタマラ・プレス、イリヤ・プ レスの姉妹が参加していた。新聞で見ると、小柄で丸々ながら、引き締まった体型で、姉のタマラ・プレスは優勝候補の筆頭に挙げられていた。
テレビに初登場したこいつらのアップを見て、ぼくはたまげた。ヒゲが生えていた、腋毛がボーボーだった。男か、こいつらは。童貞のぼくにとって、“女”は未知であり憧れだ。 憧れの対象ではない女が存在することの驚き。世界は広いことを知った。これは、これから大人へと成長していくぼくにとって、奥深い教訓となった。

ちょうどその頃、世間では、第一次ボーリング・ブームが始まっていた。
我が町赤羽にも、西口に赤羽国際ボール、東口には赤羽三恵ボールともう一軒、消防署裏の赤羽中央公園のそばにあったのだが、名前は忘れてしまった。ぼくはここへよく行った。赤羽というひとつの町に3軒もあったのだから、ブームの大きさがわかるだろう。子供から老人まで、みんなこの新しいスポーツに燃えていた。
当時、早朝ボーリングがあり、朝6時から、1ゲーム250円のところを180円位でできた。ぼくは、毎日、この早朝ボーリングをやってから学校へ通った。これだけ熱中していると、欲しくなるのが、マイ・ボールとマイ・シューズだ。結局、 手にすることがなかったが、とりわけ、シューズは魅力的だった。
その頃、学校の運動靴といえば、月星シューズが全シェアを占めていて、生地は白の綿製、ラインのゴムは水色、靴底は1センチ厚の固いスポンジでできていた、とても軽い運動靴だった。この靴をみんながみんな履いていたのだ。だから、ボーリング・シューズの皮製で、縦に真中から左右白と赤の色違いのツート ン・カラーは派手で珍しく、しかも縫い目まである。ぼくは、これを履いて町を歩きたい、という衝動にかられた。

もうひとつ、大きなブームが東京を騒がせていた。
札幌みそラーメンの襲来だ。現在は年もとり、味の好みも変遷したせいか、 種類が多いせいか、それほどこだわりはなくなっているが、初めて札幌みそラーメンを食べた時の衝撃はすごかった。東京に生まれたことを恨み、札幌の町を羨んだ。実は、ブームになったのは、それなりの理由があった。東京にデビューする前から、テレビのワイドショー番組で、札幌には独自のおいしいラーメンがあると、盛んに放送していたのだ。
ある店の現地実況では、店主が「うちのラーメ ンはスープが命だから、一滴でも残したら、次から(店に)入れないよ」とものすごい高飛車なことをのたまわっていた。こんなことをワイドショーで毎日放送していたから、東京の人々はこの代物を早く食べたいと飢えていた。ぼくもそのひとり だった。
そこへ、出店ラッシュが開始された。赤羽でも、狸小路とか石狩とか同 じチェーン店も含め、20~30軒があっという間にできた。

この頃、テレビでポップス系をやっていたのは、「ザ・ヒットパレード」と 「しゃぼん玉ホリデー」くらいだったので、洋楽を聴くためラジオを聞く機会も多かった。
聞いていたのが、一世を風靡した高級家具“一体型ステレオ”だ。
これも昔のテレビと同様に床の間に置かれることが多かった。我が家でも、床の間に置かれていた。幅2メートル、奥行き50センチ、高さ50センチの箱に、4本足を付けたもので、箱は3等分され、左右はスピーカー、真中は上部にふたがあり、レコードプレーヤーになっていた。もちろん、AMラジオ兼用だ。
いつも聞いていたのは、文化放送木曜夜放送の「ユア・ヒット・パレード」。 洋画のサントラが、いつもベストテンに入っていた。『世界残酷物語』の主題歌 「モア」(映画の題名は『ヤコペッティの世界残酷物語』にいつしかなってしまった。劇中ではインストルメントだが、アンディ・ウイリアムスの歌う「モア」が世界的に大ヒットした。A・Wは、日本で何回もの公演をしたが、吉原に寄るのが楽しみでと語っていた)や『アラモ』、『史上最大の作戦』のテーマ曲、『荒野の用心棒』 の口笛サウンドなどがトップにあがっていた。
この一体型ステレオで、ペレス・プラード楽団のレコードをかけ、父と母が、狭い8畳間でジルバやルンバの社交ダンスを踊っていたのを、ぼくは羨ましく眺めていた。父はよくひとりで、ハリー・ベラフォンテのLPを聞いていた。小林旭の「北帰行」をアメリカのテナーサックス奏者がアレンジしたジャズもあった。

当時、ソノシートというものがあった。レコードを安価にしたもので、大きさはシングル盤と同じ、色付きの透き通ったビニールでできた薄っぺらなものだ。よく付録とか通販(ヤマハのエア・メール通販で購入していた。フランキー・ア ヴァロンとかファビアンものがお気に入りだった。彼らはポール・アンカととも に映画『史上最大の作戦』に出演している。ツイストものが多かった) で利用されていた。
父は酒をよく飲むせいか、酒造メーカーの懸賞に当たり、景品はソノシートのセットだった。小島武雄ナレーションによる『酔っ払い収容所におけるトラの声収録』、『いびきの考察』、『おなら変幻自在』の3枚だ。
トラとは、酔っ払いのことで、昔、深夜帰れなくなった酔っ払いを収容する拘置所みたいなものがあったらしく、その中での笑い上戸、泣き上戸、怒り上戸、 説教上戸などを収録したもので、人間の喜怒哀楽が垣間見えて、非常に楽しいものだった。
『おなら変幻自在』は傑作だった。高音、低音、長時間、連続、瞬間、と大枠の説明のあと、さらに細かくマシンガン・タイプ、歩きっぺの基本、かわいっぺ とは、肛門によくない爆発型、痔のおなら、若者と年寄りの違いなど多岐にわたって、それはもう学術的だった。よくこんなものを収録したなと感心するのと 真面目に収録する人たちとその状況を想像すると、楽しさこの上なかった。
父はこれを聞き、腹を抱え大笑いし、涙を流しながら、おならをしていた。

ぼくが初めてひとりで電車に乗ったのは、小学2年の時だった。
当時のぼくには、どうしても欲しいものがあった。それは読売ジャイアンツのプラスチック製打席用ヘルメットだ。みんな普通の布製の帽子は当たり前に持っていたが、プラスチックのヘルメットはまだ だれも手が出せないでいた。父に誕生日プレゼントにとねだった。父は買ってやるが、自分で買ってきなさい、と言った。多分面倒くさかったのかもしれない。 でも、ぼくは困った。
このヘルメットは赤羽のオモチャ屋にはまだ置いていないのだ。あるのは、池袋の西武デパート。ここしかない。電車に乗らなくては行けない。
意を決して、お金を貰い、ひとりで西武デパートを目指した。
赤羽駅で、赤羽・池袋間の切符を買う。子供は大人の半額5円であった。池袋の駅を降りると、地下から丸物(まるぶつ)デパートに入る。この丸物デパートは、現在のパルコにあたるデパートだが、汚なく人もまばらで、しばらくした後、西武に押されて、撤退した。
当時、池袋には、東口に西武、丸物、三越。西口は東横の4つのデパートがあったが、西武の人気がダントツだった。品揃えが豊富だったのだろう。現に、ジャイアンツのヘルメットも西武にしかなかった。それに一番新しくできたせいできれいだった。ホームから見える東横の文字や壁ははげてくずれかかっていたし、丸物もそれに近いものがあった。
この西武と丸物も、現在の西武とパルコ同様、各階とも連絡通路でつながっていた。ぼくは、エスカレーターで6階に上がり、連絡通路を渡って、西武のオモチャ売り場へと向かった。

昭和40年か41年、ぼくが中学3年の頃、東横デパートも撤退し、新しく東武デパートができた(なんで東口に西武があり、西口に東横だとか東武なんだ!)。
この東武デパートの7階に、“東武100円シアター”という1本立て100円の映画館 ができた。
ここで、本邦初公開“性交場面”なる映画が上映された。スウェーデン映画 『太陽のかけら』(原題Kungsleden。この映画のサントラも非常にすばらしかったのだが、サントラ盤(輸入盤も)もビデオ化もされていない)であった。まだ、ファックとかセックスという言葉は使われていなかったが、当然18歳未満お断り(?)だった。
学校が終わるとすぐ、14歳のぼくは、私服に着替えて、友達の内室(うちむろ)くんと100円シアターに向かった。人がまばらな電車の中で、ふたりは高鳴る胸を抑えて、無言のまま、緊張して座っていた。
すると、離れたところから「ほり~こし~!!」という大きな掛け声が聞こえた。心臓が止まった。学校の先生が監視していたのか、先輩に見つかったのか、 映画が見れなくなるかもしれない、とにかくやばい状況だ、と考えた時間は、瞬間0.1秒。
ぼくはその声に瞬時に反応し、さっと立ちあがり、直立したまま「はいっ」と返事した。そして、その声の方を向くと、車掌がこちらへ向かってくるではないか。車掌はぼくの前で「どちらまで?」と問う。車掌が言ったのは、 「乗り~越し~(の方~)」だった。
まだ、その頃は、都内でも電車内に乗り越した乗客の切符を精算に回る車掌がいたのだ。

無事、100円シアターに入場したぼくたちは、席に着いた。7割程度の客がいた。そして、映画が始まった。
主人公の若い男は恋人と二人で、スウェーデンの山岳地帯を何日もトレッキン グしている。女は奔放な性格で、山で暮らしている遊牧民ラップ人の男性の前でも、平気で素っ裸で日光浴をしている。
ある日、主人公は恋人がラップ人の男と 親しげにしているのを遠くから目撃する。さらに、ひとりのスウェーデン人の若い登山者と出会う。その男とも恋人は親しげに振舞う。
嫉妬した主人公は、ある夜、嫌がる恋人に性交渉をしかける。
ここが、本邦初公開の性交場面だ。
二人が絡む構図の中に、無理矢理テーブルとか花瓶とかが、ど真ん中に入り、とても“性交するところを俺は見たぞ”とは言える代物ではなかった。もっともっと具体的なやり方を学習したかったのだが、 残念無念。
ところが、意外にもぼくはすっかりこの映画そのものにのめりこんでいた。
女は殺された(?)。渓流の中に死んでいる女。自殺か、はたまた男が殺したのか、ラップ人に殺されたのか、登山者に殺されたのか、不明である。
10年後、主人公は恋人の忘れられぬ面影を追って、同じ山道を歩く。
数々の思い出が甦る。やがて、主人公は恋人を殺した(彼がそう思っている)登山者が死ぬのを見る(主人公の幻想かもしれない…)。そして、男はこれまでの自分の過去に見切りをつけて、山を降りていくのだった。
ここまで、話を整理して書いたのだが、映画はこんな単純なものではなかった。現在と10年前の過去と、男の幻想と思い出と現実とがゴチャゴチャになった、何が何だかわからない構成だった。
だが、ぼくは、この映画に魅了された。それは、いろいろな事を考える面白さだった。フラッシュ・バックなどの映像技法にもびっくりした。
そして、この後、その表現方法がどのように使われているのか、自分なりに分析する面白さも知った。カメラワークや編集、そして映像テクニック。
ぼくは高校に入り、8ミ リ映画を撮ることになるが、そのきっかけとなった映画、それが、この『太陽のかけら』なのである。

映画が終わり、場内が明るくなった。超満員になっていた。たまげた。なんと、あちらこちらに、中学の同級生、先輩、後輩、知っている顔ぶれ2、30名く らいが4、5人のグループになって、散らばっていた。女生徒たちのグループもいた。みんなみんな、性交を見にきていたのだった。

そして、翌年、ぼくは、将来の映画制作に確信をもつ映画に出会った。
夏休みのある日、ぼくは池袋東口のピンク映画3本立てを見に行った。その映画が始まったとたん、いつものピンクとは、全く異質の雰囲気を感じた。
大学受験を目指す若者たちの葛藤する姿、当然そこには性もある。が、社会の中に存在する自分と個をこれほどまでに見つめた映画を見たことがなかった。こんな凄い日本映画があるのだ、と驚いた。

映画の題名は、「日本春歌考」(67年創造社・松竹。大学受験のため田舎から出てきた受験生の悶々とした日々を描く。朝鮮問題にも深く触れている。出演、荒木一郎、伊丹十三、吉田日出子。監督は大島渚という人だった。この頃の伊丹十三は、ぼくにとって人生の師匠であった。「女たちよ!」 「ヨーロッパ退屈日記」など、彼の本はすべてぼくの血となり肉となっていった。知性とアイロニーと独自の探求心、そして心のゆとりの大切さを教えてくれた。伊丹の先生は作家の山口瞳、山口の師匠はドイツ文学者高橋義孝。ぼくは彼 らの書物を読破していくことで、様様なことを学んだ。

タイトルだけで、ピンクにされてしまう実情には笑ってしまうが、ともかく出会えたことに感謝した。映像も素晴らしかった。荒木一郎らが、上智大学のグラウンドを雪降る中、真っ黒な学ランで、時折ひらひらと真っ赤な裏地をひるがえ しながら、歩いていく望遠のシーンは、ぼくにとって、忘れられない名場面のひとつとなった。

それから2年後、ぼくは、大島渚の映画に出演することになる。

 

中学3年の頃、放課後のクラブ活動(軟式テニス部)をサボり、授業が終わると、一目散に家に帰った。テレビを見るためだ。それは、フジテレビ『3時の名画座』だった。昔の地味な映画ばかりやっていて、フランス映画が多かった。

中でも、フランソワーズ・アルヌールという女優の映画がぼくのお目当てで、 いつも胸の大きく開いた衣装を着ていた、この肉感的な女優に憧れていた。出演していた映画も『肉体の怒り』『寝台の秘密』『女猫』など、童貞中学生には毒のようなタイトルばかりだった。  もっとも、彼女は、ジャン・ギャバンとの共演の名作『ヘッド・ライト』や 『フレンチ・カンカン』、アラン・ドロンとの『学生たちの道』などで、日本人好みの小柄なセクシー派女優としてすでに有名ではあった。

この『3時の名画座』で、『墓にツバをかけろ』(仏、60年、 監督:ミシェル・ガスト。弟が白人少女を犯したという理由で、リンチに合い殺される。その復讐のため、それほど黒人とはわからない色男の兄が、白人女をたぶらかしつつ、リンチの首謀者を探っていく)という映画を見た。アメ リカを舞台に黒人が白人娘を次々に誘惑し、犯しまくる、凄いフランス映画だった。この白人対黒人という人種問題のテーマは、当時のアメリカでは作れないので、フランスで作られたということらしい。

ぼくの記憶では、この人種問題に深く触れた初めてのアメリカ映画は、ノーマ ン・ジェイソンの『夜の大捜査線』(米、67年。 監督:ノーマン・ジェイソン、主演:シドニー・ポワチエ、ロッド・スタイガー。アメリカ南部の町で起こった殺人事件を巡り、偶然居合せた黒人エリート刑事 と町の白人保安官との確執と友情を描いた犯罪推理映画の傑作。レイ・チャール ズの主題歌もすばらしい)になるのだろうか。

この『墓にツバをかけろ』の中で、全裸の女性が、沼で泳いでいて、それを山の上から、主人公が見ているシーンがあったが、これがぼくの初めて見た、陰毛らしきものが見えるスッポンポン・シーンだった。 (これを書き終えた後、偶然この作品のDVDを手に入れたので、早速見てみた。そうしたら、沼ではなく川であり、何と全裸ではなくビキニのパンティをはいていた。女は星柄のパンティを付けていたのだ! 何といういい加減な記憶。 記憶は、人のパンツまでも脱がせてしまうのか!!)

陰毛といえば、思い出すのが、『土曜イレブン』というTV番組だ。昔、日本テレビの平日深夜帯で大橋巨泉司会の『11PM』(イレブン・ピーエム)という有名な番組があったが、高校の頃には、土曜にも関西制作の『11PM』があり、これを『土曜イレブン』と称し、曾我廼家明蝶あたりが司会をしていた。

『土曜イレブン』も‘生’番組を謳い文句にしていたが、ある落語家がスタジオ内に設置された五右衛門風呂に入り、その回りに全裸のモデルが2名、お尻を向けていた。落語家のしゃべりが終わり、しばらく間があった。突然、右側の女が終わったと思い、こちらに振り向いてしまった。約1秒、その女のたわしのような陰毛が全国へ流れてしまったのだ。

ぼくは、ピンク映画などで、裸になる女優さんはみんな‘貼りバタ’(貼るバタ フライの略。陰毛や性器を隠すため、ガーゼとガムテープであてがったもので、女性だけでなく、男性も同様だった。これは隠すだけでなく、大きくなって、絡みに支障をきたす演技をさせないためでもあった)をしているものだと知っていたから、驚きだった。よくここまで、開放されたものだと感心もした。将来はテレビ局に勤めようかとも思った。

巨泉といえば思い出すのが、ぼくが中学の頃、土曜の午後4時からフジテレビで音楽情報番組『ビート・ポップス』の司会をしていたのが、巨泉。全米キャッシュボックスのランキングとか、アメリカの最新音楽情報を紹介する、その頃では先端を行く異色の若者番組だった。

当時、巷ではゴーゴーダンスが流行っていた。司会の巨泉のバックには、四角いジャングルジムのような箱台が無造作に並べられ、そこにミニスカートのゴー ゴーガールズの面々が踊っていた。

その中心が、小山るみ&初代ゴールデン・ハーフの5人だった。小山るみは、スタイル抜群で会話も山田まりやのように明るく快活、短期間だがアイドルとして一世を風靡した女の子で、のちに加藤茶と噂になり、芸能界を去っていった。

この番組の中で、ゴーゴーダンスの振りとステップを教えるコーナーがあった。パラパラなどと同様に、曲によって決まった振りとステップがあり、最新の ヒット・ナンバーを使っていたため、ゴーゴー喫茶で自慢のステップを披露しよ うと意気込むダンス好きなやつらは、これを見て熱心に練習をしていた。

ここで、腰にスカーフを巻き、ぴったりしたタイツ姿で、振りとステップを教えていたのが、今はダンディーでちょっと変な中年紳士でうけている藤村俊二であった。

ゴーゴー喫茶は、赤羽にも4、5軒はあった。1ドリンク付で男性800円。ダンサーと称している女の子と知り合いになり、500円で入れてもらった。ぼくは、このみんなで揃って踊ることが大嫌いで、ひとり片隅でツイストみたいなものを 自分勝手に踊っていた。

有楽町や上野、池袋、新宿などの大きな街の店には、生バンド演奏も多く、がそのほとんどはフィリピン・バンドだった。

ゴーゴー喫茶のメッカは赤坂の“MUGEN”で、ここは入場料1500円と超高級だった。現在のクラブの元祖みたいな造りで、ドレス・アップした女の子や外国人が多く、来日したミュージシャンは必ずここに顔を出す名所スポットだった。

午後5時開場で入った。始めの内、お客の日本人はシャイであるためか、みんな席に座ったり、立ったりして、かかっているミュージックにリズムをとったり しつつ、ドリンクを飲んでいるだけ。一向にフロアで踊ろうとしない。1時間く らい、小康状態が続く。すると、頃を見計らって、岡田真澄のようなロマンスグレイのおじさんが、ある時は白人の男女がフロアに登場し、踊り始める。実はこの最初に踊る人たちは “さくら”なのだ。

すると、とたんにみんながみんなフロアに出ていき、一斉に踊り始めるのだ。ここでもやはり黒人たちのダンスはずば抜けていた。いつの時代でも変わらぬことなのだが、どの黒人も皆々すばらしいリズム感で、躍動していた。

彼らのダンスを2階から見下しながら、いつも彼らに憧れていた。ついでにぼくは、妄想をした。踊りのヘタな黒人の姿を。これが実に滑稽な想像になり、いつか本当にリズム感のない黒人のダンスを見てみたいものだと思うようになった。

ダンスといえば、高校時代に、東京12チャンネルで、深夜『ナイト・スポット』という番組があった。両親が寝静まった頃、真っ暗な部屋(家族で食事をする部屋で、テレビはまだ一家に一台の時代であった)で、そっとテレビを付けた。当然、イヤホンを付けてだ。10分間だけのこの番組は、日劇ミュージック・ホールのヌード・ダンサーたちが踊る番組だった。ベテラン殿岡はつ江、アンジェラ浅丘、新人ベルベルなど、 実に官能的なストリップ・ティーズを披露していた。

基本的には、乳首は見せない振付けになっていたが、プロである彼女たちは興に乗ってか、時々サービスをしてくれた。乳首が見えるたびに、ぼくは 「うぉー」という声をもらしていた(らしい)。

ある時、ぼくの大好きな豊満な肉体のベルベルが特別サービスをしてくれ、 「うぉー」「うぉー」「うぉー」と連発したため、不信に思った父が起きてきて、襖を開け、「うるさい、何してる、早く寝ろ」と怒られてしまった。

続く

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