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2009年3月

私家版「記憶の残像」⑩~フリーランス

ぼくが手掛けた仕事の中で、一番印象に残ったというか、想い出に残っているのは、「ナショナル・ランプーンズ・アニマルハウス」の一冊和訳本であった。

映画「アニマル・ハウス」のノベライズで、漫画やイラスト、映画の写真をちらした雑誌形式のものであった。体裁は英字の左開きから日本語用の縦組みの右開きにし、束を出すための用紙などを決めていった。オール4色は価格的にまずいということになり、4色と1色を折りにより、散らすやり方をとった。

作業の途中で映画の試写を見た。大傑作であった。興奮した。大分前、同様な筋であった「アメリカン・グラフィティ」に感動していたぼくは、有無を言わさず、こちらに軍配を上げた。ジョン・ベルーシを筆頭にいい加減なやつらの集合体である彼らの生き方に同感した。ぼくにとってとても身近に感じられた。

中学校の頃、友達に優等生であったが、(先生への)ちくり屋がいた。当時のぼくは彼を心の底から許せなかった。そんなことを思い出させてくれた映画であった。

映画の公開に合わせたスケジュールで進行していたが、問題が起こった。当初は「アニマルハウス」だったが、「アニマル」と「ハウス」の間に「・」(中黒)を入れるか入れないか、会社での検討が始まったという。“んな、ばかな”と ぼくは思った。他の刷り物もあることだし、入るわけがないと勝手に考えていた。が、いつまでたっても決まらないでいた。時間がなくなり、見切り発車で中黒なしで印刷を開始してしまった。公開直前、正式タイトルは「アニマル・ハウス」となった。こんなつまらないトラブルのせいではないだろうが、動物映画と間違われたのか映画は見事な大コケであった。当然、本もコケた。昭和55年、ぼくが29歳の時であった。

この頃、ぼくは日本テレビで、あるドキュメンタリー番組を見た。富山に住む筋ジストロフィーにかかった少女の話だった。どんどんと病魔が進行していく様を描いていた。番組はこれから死を迎える彼女の明るい笑顔で終了した。彼女の生き様に胸を打たれたぼくは、翌日日本テレビに電話をして、彼女の住所を聞きだし、手紙を書いた。あなたに会いたい、と。あなたの生きて来たこれまでを本にしたい、と。しかし、返事はなかなか来なかった。身体の具合が悪いのか、いろいろ事情があるのだろうと、ぼくは待つ事にした。

数ヶ月経って、1枚のはがきがぼくの元に届いた。彼女からだった。しっかりとした文字で書かれていた内容は、うれしい話だけれど、とても戸惑っている、とあった。年に何回かの手紙のやりとりをしていたが、彼女の自伝を作る話は自然消滅していった。なぜそうなったのか、都合のいい事に全く思い出せないでいる。実現化したかった。今となってはとても後悔をしている出来事であった。

“ノヴァ”にいたぼくたちは、会社組織ではないため、それぞれ勝手に仕事をこなしていた。新しい仕事が入ったら、手が開いている人間たちで分担するという状況も多かった。そして、ぼくらの仕事は飲み屋でもらえることが多かった。やはり、新宿が中心であったが、当時はまだ青山や六本木にも気楽に通える安い飲み屋もあり、夜中からでも映画会社の宣伝マンや大小出版社の編集者連中が集まり、バカ話に明け暮れていた。そんなバカ話に、「ちょっとそれ、おもしろいから書いてよ」とか「企画書にしてよ」とか、結構仕事に結びつくことが多かった。ぼくらの話を立ち聞きしていた見知らぬ関係者からも、その話もっと聞かせてくれ、と割り込まれるケースも多多あった。そう、夜中の飲み屋がぼくたちの営業場所でもあったのだ。その中心にいたのは、話術の天才であり、リーダー的存在の清水俊雄であった。

最愛のジョン・ベルーシが死んだ時も、新宿の行きつけの飲み屋“酔胡”に映画関係者や評論家を集めて、追悼パーティを開き、大騒ぎしたのも清水くんの発案であった。

また彼は、東スポ、サンケイスポーツ、報知新聞等の記者や大陸書房ら出版編集者を集めて、GS中心のバンド“シルバーシート・バンド”を結成し、六本木あたりの店を貸し切り、精力的に演奏会を開いたりもしていた。この時、特別ボーカ リストとして、中村雅俊も参加していた。

 

営業といえば、ぼくたちフリーランスにとって、年賀状や暑中見舞いのような季節の挨拶も大切であった。というのも、自分の存在を忘れられていることがほとんどなので、「あっ、そういえばこういうやつ、いたなぁ」と思い出してもらえるからだ。こういう時に、呼び出されて頼まれる仕事は、デカいことが多かった。

“ノヴァ”のメンバーだったFが、東京ニュース通信社に就職した。ぼくは彼から 「週刊TVガイド」の仕事をもらった。それは、音楽番組紹介のタイアップもので、月1回白黒グラビアの1頁であった。番組のチョイスと原稿、それとデザインであった。毎月取材している中、TVガイドのNHK番の担当者から電話が入った。 ぼくは民放にはよく足を運んでいたが、NHKにはあまり行かなかった。彼は、「顔を出したほうがいいよ。ぼくが紹介するから」と言ってくれた。NHKに出向いた。若い彼は何人かの音楽番組担当者やプロデューサーを紹介してくれた。ぼくは帰り際、礼を言い、名刺交換をした。名刺には、朝井泉と書かれていた。後の泉麻人である。彼とはその後、新雑誌で一緒に仕事をすることになる。

しばらくすると、「週刊TVガイド」の編集スタッフ数名が同時に辞めていくという事件が起こった。内部では大騒動になっていた。彼らはのちに対抗誌となる 「週刊ザテレビジョン」(角川書店)の創刊メンバーとなっていた。

 

ぼくはこの頃、軽い悩みを抱いていた。好きな音楽の記事を書くのは楽しいけれど、ぼくなんかより、もっと詳しい音楽ライターは山ほどいる。映画だってそうだ。だから、いつか仕事はなくなるだ ろう、と。ぼくはフリーランスで生き抜いていくために、需要があるけれど書き手がいないジャンルを模索していた。

そんな時、TVガイドの臨時増刊「ビデオコレクション」の編集スタッフに加わることになった。そこでの担当は、ビデオのハード(機械)だった。この中には、映画の撮影経験を活かせるビデオカメラも入っていた。当時、世間ではビデオが普及し始めていた。まだアダルトビデオが主体であったものの、8mm(カメラ)に代わり、ビデオカメラも高価ではあったが、出回り始めていた。撮影テクニック自体は、8mmであろうが、16mmであろうが、それほど変わることはない。あとはビデオの特性を把握すれば、なんとか仕事に結び付けられるだろうと考えた。ぼくはビデオ・デッキやカメラを始めとする“ハード”について勉強することにした。

清水俊雄の結婚 を機に、“ノヴァ”は解体した。ぼくは、神保町にオフィスを構えていた編集プロダクションに間借りし、徹夜仕事に専念していた。朝の7時から10時まで、近くにあったサウナがぼくの寝場所になっていた。Fが東京ニュース通信社を辞め、新宿御苑の向かいに編集プロダクション有限会社“ジャックポット”を設立した。ぼくはFに誘われ、家賃の一部を払い、フ リーランスとして席をおいた。この時、FM東京の深夜ラジオ番組「気まぐれ飛行船」で片岡義男のお相手をしていた女性パーソナリティーも同様に在籍することになった。

TVガイドの臨時増刊として出した「ビデオコレクション」が好評で、ビデオ情報誌の一番手となる月刊化が決まった。ビデオのソフト・カタログ部を翔ブラザースが、ソフトの特集記事部をジャックポットが、ぼくはハード関連を、それぞれ担当することになった。この雑誌に泉麻人もデスクとして加わることになった。

「月刊ビデオコレクション」には、ビデオカメラの特集頁があり、ぼくはコーディネイト兼ライター担当になり、企画編集として当時マガジンハウスの雑誌 「ダ・カーポ」のライターをやっていた高橋という人物が参加することになった。コアラをおじさん顔にしたような風体の禿げたこの男は、ぼくよりもかなり若かった。が、彼の企画は的はずれのものもあったが、とても奇抜で面白かった。しかも、彼との仕事は遊びながらやったような気分にさせてくれた。

創刊号では、「山本益博、築地を撮る」と題して、早朝の築地場内をビデオカメラを回して、その蘊蓄を語ってもらうものだった。林真理子とラブ・ホテルを覗いたり、蛯子能収と白塗りの大駱駝艦の若者たち と下町路地を徘徊したり、藤原新也と田原総一郎に東京風景とジャーナリズムについて語ってもらったり、気球に乗ったり、カーレースを見たり、毎月のロケが楽しみでならなかった。

この時、一緒に仕事をしたカメラマンの佐藤ヒデキと3人でよく酒を飲んだ。まだ、築地場外の丁度朝日新聞社の向かいに、テント(飲み屋)が出されていた頃だ。徹夜作業を終える朝方、ここで酒を飲んで帰るのが、日課になっていた。

疲れ果てた高橋くんと2人で店に入ると、3人の男のテーブルの上に飲んだビール瓶5,60本がずらりと並べられていた。高橋くんは「ひぇー、すげぇ」とつぶやきながら、隣りの席に座った。3人は高橋くんの背中の位置になり、彼は見ることができないでいたが、ぼくの席からは3人がよく見てとれた。3人の様子がおかしい。2人は怒りに満ちた顔付きだ。相対する1人はニヤニヤと薄笑いを浮かべていた。沈黙が続いていた。回りの客たちも彼らの様子が気になっているらしく、会話をするものがいなかった。突然、2人組の1人が立ち上がり、ビール瓶を掴み、ニヤニヤ男の頭を思いっきり殴った。ゴンという鈍い音がし、瓶が跳ね返った。ドラマのようにビール瓶は割れなかった。すかさず、再度更に思いっき りビール瓶で殴った。これも割れなかったが、ニヤニヤ男は左右に身体をゆすり始めた。目が白くなっていた。頭からドクドクと血が流れ出てきた。2人組は逃げた。店主が警察に通報。その間、店主がここにいろ、と言うにも関わらず、ニヤニヤ男はあいつらを捕まえると、方便を使い、テントから逃げ出してしまった。パトカーのサイレンが近づいてきた。警察官が来た。店主による事情説明によると、2人組とニヤニヤ男は他人同士で、意気投合し飲み始めたが、大量にビールを飲んだところで、どちらが払うかでもめた。ニヤニヤ男が金はないと言った。そこで、先の状態になっていった次第。

テントの隙間から見える空はもう白くなっていた。高橋くんにもう帰ろうか、と問うた。高橋くんは、「そうしましょうか。それにしても騒がしいですね。一体何があったんですかね。」と答えた。ぼくは疲れていたので、今日のところは説明を省くことにした。

昭和58年秋。新宿御苑から南風に乗って、ジャックポットの新オフィスに銀杏の木の香りが大量に漂ってきた。21歳になったばかりの電話番の女の子が、御苑を向き、大きく深呼吸しながら、「うーむ、男の匂い」とつぶやいていた。

仕事が順調になりだした頃、ぼくは初めて海外へ行った。きっかけは母だった。母の体調が悪く、今の内にでも親孝行しておこうと考え、母方の親戚とハワイに出かけて行った。日程や行動は母と親戚に一切を任せておいた。出発当日の夕方、母と箱崎ジャンクションで待ち合わせた。そこからバスで成田に向かい、親戚と待ち合わせる予定であった。箱崎で母と合ったとたん、アナ ウンスが流れた。「大満足の堀越様、大満足の堀越様、第○カウンターまでお越 しください」。ぼくは母にきつい口調で訊ねた。「何だよ、大満足って。まだ満足なんか、してないじゃないかよ」。母は笑って、「ツアーの名前なの」と平然と言ってのけた。大満足ツアー、ああ、なんというネーミング、お先真っ暗な気分になった。

憧れのハワイに到着した。完璧なくらいの晴天であった。レイとキスで出迎えてくれた女の子とアロハがお揃いであったのに気をよくしたぼくは、一緒に写真を撮ってもらった。まるで、新婚旅行みたいだな、とひとりでほくそえんでいた。

初の海外旅行では、日本人ならではのはずかしい失敗を経験した。○夜中、廊下にあるアイス・ボックスにアイス・キューブをとりに出かけ、部屋の中からロックがかかってしまい、寝ている母を起こすことができず、パンツ一 枚でフロントに行くはめになってしまった。○チップをあげる時、手の平いっぱいになった小銭をかかげ、どれでも取っていいよ、と言った時、女メイドに「それはあなたの気持ちなのだから、あなたが決めて払いなさい」と諭されてしまった。○外からホテルにいる母に連絡をとろうと、電話の交換台と話をしたが、へたな英語が通じず、「アー・ユー・クレイジー?」と電話を切られてしまった。○アラモアナ・ショッピングセンターで、Sサイズのブリーフを購入したが、日本にはない子供用サイズのSだったため、パンツは片足すら通らなかった。

3日目、ハワイ島に渡った。ハワイ島には母方の親戚の女性が大きな牧場主に嫁いでおり、母と親戚はそこを訪ねた。ぼくは、他の日本人観光客たちとオプ ショナル・ツアーでのハワイ島巡りを楽しむことにした。

マウイ島に戻った夜、映画を見に行くことにした。普通の映画だったら、英語がわからず見ても無駄かもしれないと思ったが、公開中の映画は「E.T.」だった。夜10時を過ぎた映画館の入口周辺には、”ウォリァーズ”のような不良グルー プがたむろしており、ラジカセをガンガンと鳴らしていた。映画館の中は、親子で一杯だった。こんな夜遅くまで、アメリカン・ファミリーはよく遊ぶものだと思った。が、12時を回ると、上映途中にも関わらず、この親子たちが帰り始めた。館内はガラガラになってしまった。

見終わった帰りの大通りで、キャデラックのオープンに乗った高級娼婦に「ヘイ、ボーイ!」と声をかけられたが、目を合わせずホテルへと急いだ。

母は食事療法が必要な病気にかかっていた。あまり食べてはいけなかった。ところが、朝のバイキングでは大皿山盛りに食べていた。バイキングで多くの食べ物を取り過ぎ、結局残すという日本人特有の嫌な面を見ていたぼくは、母に、食べ終わってからまた取ればいいじゃないか、と諭した。母は、「平気よ」と言って、ペロッと平らげていた。小食であると聞いていたぼくは目を疑った。こうして、気分転換が効を奏してか、母にとって大変元気な旅行となり、その後、日本に帰ってからも旅行に目覚め、現在もなお家族や友人たちと旅行を楽しんでいる。

次に、写真雑誌に入った高橋くんと彼の同僚とバリ島に遊びに行った。珍道中であった。夜中にバリ・デンパサール空港に着いたぼくたちは、ホテルの用意したおんぼろマイクロバスに乗り、クタ・ビーチにあるホテルに入るや、再びデンパサールの町に繰り出すことにした。その途中、バスは来る時と違う暗闇へと左折した。ぼくは、どうして真っ直ぐ行かないのか、運転手に大声を上げた。そして、高橋くんらに「こいつら強盗かもしれないから、気をつけろ」 と叫んだ。かなり興奮状態だったので、高橋くんが「堀越さん、落ち着いてくださいよ」と後ろから声をかけてきた。運転手がぼくに話すのだが、よく分からないでいた。やがて、暗闇の中から明るいデンパサールの市場が大きくなってきた。後で分かったのだが、暗闇方向に左折したのは、一方通行のせいであった。

マジックマッシュルームをオムレツにしてもらい、ロッジ風のホテルの部屋に戻った。ビールを飲みながら、みんなで食べた。ものの数分で「来た、来た、来た」とぼくは興奮した。天井の木の目が虫のようにうじゃうじゃと這い出してき た。「こりゃ、すごいわ」とばかりに、ぼくは籐の長椅子をもって外に出た。満天の星たちが、まるでUFOのように変則的に飛び交い、近付いてきては様子をうかがってはまた遠ざかっていく。その繰り返しが果てしなく続いた。何千というカエルの鳴き声がぼくに話し掛けてきた。カエルは「気をつけろ、人が来るぞ」という警戒の言葉もくれた。ぼくが我に帰ると、そばを通り過ぎるホテルの客や警備員がいて、ぼくは軽く会釈をした(これは人が近寄ってくる と、カエルの鳴き声が止むのでそう聞こえたのか)。はるか遠くの木の葉一枚一 枚が月の光に反射して、はっきりとその形がわかった。木々を揺らす風の音が、「海に行ってはいけない」と忠告する。ぼくはその一秒が的確に一秒と身体で感じられるこの至福の時を、明け方まで楽しんでいた。

翌日、早朝からパタンバイにダイビングに出かけた彼らをよそに、ぼくはひとりレギャンの町を散策することにした。画廊に入り、絵を眺めた後、説明をしてくれた店の若者に、バイクでサヌールまで連れていってくれないか、と交渉した。「○ドルで行く」という。彼の運転するバイクの後ろに乗り、広大な塩田地帯といくつかの町を横切った。途中、収穫の終わったばかりの田畑の中に、わら葺の大きなドーム状の家があり、道路の脇にバイクを止めた彼がぼくに、「行って、見てこい」という。そこまで100メートルくらいはあった。回りには、だれひとりとしていない。ぼくはその家の入口から、そっと入ろうとした。外の日差しが強烈だったためか、真っ暗な中が全く見えてこない。外の土は乾いていたのに、この中は非常にぬかるんでいた。そして、人の気配を感じた。目が慣れてきた。大きな亀の腹が見え、そ れを持っている人間も見えてきた。ひとりではない。大勢の人間が皆同じように、大きな海亀を抱え、ぼくのほうにじわりじわりと寄ってくる。恐くなったぼくは、何なんだ、と思いながら、後ずさりをする。彼らはぼくに海亀を見せているのだ、はわかる。だから何なんだ、と自問する。辺りがよく見えてきた。上半身裸の彼らの姿がおかしい。みんな目や鼻や口などのどれかが欠けている。彼らは今度、手を出した。わかってきた。「金をくれ」だ。「海亀を見せてやるから 金をくれ」だ。ぼくは予想だにしなかったこの状況に対応できず、一目散にその場から逃げ去った。慌てて逃げてくるぼくの姿を見ながら、バイクの若者は腹を抱えて笑っていた。ここは、秘密に海亀を養殖(? 獲ってきているのか)している、とて もヤバイ所らしかった。

サヌールに着いたぼくは若者に礼を言い、ホテルのビーチから海岸線に沿って歩いた。所々ビーチを仕切る柵があったが、別に楽に通れるので気にもしなかったが、ぼくの歩いているこのビーチは、実はフランス人たちのプライベート・ ビーチなのだと途中で気付いた。フランス人の別荘の庭を抜け、通りに出たぼくは飲み物を買おうと、小さな店に入った。そこでは、おばさん3人が話しをしていた。ぼくはビールを頼んだ。ぼくを珍しがってか、話し掛けてくる。ちょっと話している間に、子供たちや若 者たちが10人くらい集まってきた。車座になり、日本人とバリの人たちとの質疑応答が始まった。「何しにきたのか。サーフィンか、フィッシンか」。ぼくは 「ウォーキン」と答えた。みんな口々に「ウォーキン」「ウォーキン」と繰り返 しながらの大爆笑となった。10代の若者が、「この近所にバリ大学があり、日本 人の女の子がふたりいる。そのうちの伊達さんという女の子が剣道の達人で、バリでも有名なのだが、大好きなので紹介してくれないか」と言う。今度はぼくが大笑いした。

ぼくは、バリ島の感想を話した。「日本ではバリ島はサーフィンなど海がとても有名だ。ぼくはバリの海や美術を見にきたのだけれど、山の中にある美術館に行った時、バリの山の素晴らしさに驚いた。バリは山がとても美しい。今度来る時は、是非キンタマーニに行きたい」と。そうすると、おばさんのひとりがこう言った。「バリには神様がふたりいる。海の神様は悪い神様。山の神様はいい神様。あなたは、いい神様からお呼びがかかっているのだ。またバリにいらっしゃい」と。

その夜、高橋くんらと海鮮レストランで夕食。飲めや食えやの大騒ぎをしているのは、ぼくらを含め、日本人の観光客だけ。回りのオーストラリア人たちは 2~3ヶ月の休暇で来ているので、普通通りの質素な夕食である。金はあるけど時間のないぼくたち日本人。一体日本人って何なんだろう、と漠然と考えながら、マジックマッシュルームを求めて、レギャンの街中に消えていくぼくであった。

続く

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私家版「記憶の残像」⑨~中村橋時代

路上アクセサリーを廃業しよう決意したぼくは、仕事を続けながら自分に向いた職業はなんなのかを模索していた。求人情報誌を眺めながら、世の中にはいろいろな職業があるものだと感心していた。その中に「フィニッシュ・ワーク」 という聞いたこともない職があり、気になったので電話をした。「フィニッ シュ・ワークって、何ですか」と聞いた。すると「そんなことも知らないで応募するな」と怒られてしまった。

この頃、ゴースト・ライターとして、漫画の原作を書いていた後藤和夫に相談した。ぼくも映画のシナリオをよく書いていたので、それを活かせる職業はないか、相談をしたのだ。後藤は“牛次郎事務所”というところで働いていた。牛次郎は、最近では“日刊ゲンダイ”の漫画「やる気まんまん」の原作者として知られているが、当時は超売れっ子であった。ぼくが読んでいた漫画は、「料理 の鉄人」対決の原型となった『包丁人味平』やあの手この手でやってくるパチプロたちとの闘いを描いた『釘師サブやん』などがあり、後藤は“週刊漫画ゴラク” の『パチンカー人別帳』の原作のゴーストをやっていた。

相談をしてから、数ヶ月経ったある日、後藤から連絡があった。牛次郎がシナリオ・ライターたちの事務所を開設するということでそこに入らないか、ということだった。「頼む」とお願いをした。

面接をするために、南青山にあった事務所を訪ねた。 応対したのは、名目上の代表であった佐藤さんという、色が黒く、体のガッシリした二枚目顔の男だった。ぼくは即採用となった。が、行き先が違っていた。ぼくはてっきりシナリオを書くものだと思っていたが、配属になったのは、同じ牛次郎が経営し、佐藤さんが社長の“ダックスハウス”という編集プロダクションだった。そこで編集をやれ、ということだった。給料は10万円。昭和53年、27歳の時であった。

編集の“へ”の字も知らないぼくにとって、毎日が驚きの連続であった。空いた時間に、編集の基礎は多少話してはくれるものの、みんな忙しいので、“編集ハンドブック”という本を渡され、後は自分で考えてやれ、ということだった。電話で交渉することなど、やったことがないため、きちんと答えられずとても恥ずかしかった。だから、回りに聞かれないよう、机の下に潜って電話をした。みんなは、それをやさしく無視してくれた。

最初の仕事らしい仕事は「猫」の単行本だった。猫好きな有名人に原稿を書いてもらったり、インタビューをして書き起こすものだった。佐良直美、皆川おさむ(「黒猫のタンゴ」)と順調に依頼を受けてくれたが、やなせたかしなど文筆家からは、ギャラが安いといとも簡単に断られた。

猫好きで有名な森茉莉を訪ねた。彼女は一匹の猫と同居していた。大好物はお寿司で、サビを抜いてもらうという。ぼくは、猫がお寿司を食べる時代になったのだ、と多少びっくりした。突然、彼女は、「素敵な方だけど、とても変な人なのよ」と美輪明宏の話をし始めた。美輪明宏は、普通の車もタクシーのように止めてしまうのだそうだ。中々止まってくれないと、道路にまで出て、両手を広げて、無理矢理止めて、どこどこまで行って頂戴と頼むという。「強引な人だけ ど、憎めないのよ」とやさしい笑みを浮かべ、語っていた。

ぼくにとって、胸踊る機会が訪れた。映画「伊豆の踊り子」を撮影中のアイドル林寛子が、砧の撮影所で化粧直しの30分、インタビューに応じてくれることになったのだ。

ぼくは早速「猫が大好きということですが…」と言いかけた時、「猫? 私が好きなのは犬よ」。頭が真っ白になった。話が違うじゃん、と思うより、どうこの場を取り繕ったらいいのか、皆目わからなくなった。数分間、冷や汗をかき続けた。ぼくは何が何だかわからないまま、あらかじめ聞く内容を書いておいたメモを読み始めた。犬でも猫でも聞く内容は同じだからと思って。そして化粧直しは15分くらいで終わってしまった。話もろくに聞けなかった。サインをもらうことすら忘れてしまった状態で、アポをとったマネージャーに、今聞いた話を猫に置き換えていいか、と訊ねた。返ってきた返事は「ダーメ」。お前が猫好きと言ったんだろう がぁ、このやろう。いかに芸能界というところがいい加減だと知った瞬間だった。  事務所に戻り、佐藤さんにこの報告をした。みんなは大笑いしていた。

事務所には、奥の部屋に社長の佐藤さん、牛次郎事務所の後藤和夫、手前の広い部屋に編集プロダクション“ダックスハウス”の社員がいた。後藤の奥さんの妙子、妙子の姉さんの和美ちゃん、そして、デザイナーの東幸見(現在は東幸央)、そしてぼくがいた。東幸見は「美術手帖」で新人賞をとるなどしていた寡黙な人物で、ぼくには「オレもホリちゃんと同じで、営業でここに入ったのになぁ…」と話した。現在カバー・デザイン、ブック・デザインでは著名で個展も開き、また自ら撮影した写真で、「空の本」(パルコ出版)や「北緯44度、その駅の名は北浜」(柏出版)等の本を出している。

事務所では、ふろふき大根やおでんなど、女性陣が料理を作ってくれた。「会社で料理すると、その会社は潰れる」と言われていた時代であったが、ぼくにとってはとても重宝なものであった。というのも、徹夜の連続であったからだ。 仕事が山ほどあった“いい時代”だったが、平日はほとんど事務所に泊っていた。机の下には寝袋があり、別の小さな部屋には二段ベッドが用意されていた。

そして、新天地を求めて、同棲していた女と別れることにした。直接女と話すと(包丁で)刺されることはわかっていたので、女が夜の仕事に出かけるのを待った。後藤と東くんに手伝ってもらい、慌てながら自分のものをトラックに積み、夜逃げを決行した。環状7号線を北上するトラックの積み荷から、家具を包んでいた毛布が1枚2枚と舞い上がり、すっと暗闇に消えていった。

新天地は練馬区の向山だった。あたりは大根畑がまだちらほら見られる所で、東京では珍しいプロパンガスの風呂付き6畳、4畳半のふた間、家賃は36.000円だった。西武池袋線中村橋駅から歩いて20分とやや遠かったが、当時4万円を超えないと風呂がなかった時代なので格安といえた。2階立て6世帯の1階角部屋で、東南向きで日当たりもよかった。ただ、引越してからわかったことなのだが、隣の住人が暴走族の頭だった。

ある日曜日、ぼくは昼間スーパーで買い出しをし、缶ビールを飲みながら本格的ミートソースを作っていた。空きっ腹の状態で、5~6時間煮込んでいたので、酔いはかなり回っていた。隣から、女の叫ぶ声が聞こえた。壁がドスンドスンと響いた。また喧嘩かな、と思った。だが、ものすごい喧嘩だ。また女の罵声が聞こえる。なんか変だ。暴走族の頭である男の声が全くない。ぼくは、ドアを開け、恐る恐る隣の様子を見に行こうとした。隣の玄関のドアは開いていた。

テーブルや椅子、食器棚が倒され、一面に割れたガラスが散在し、至るところにゲロらしきものが吐き出されていた。その中で女がひとり荒れ狂っていた。女はぼくに気付き、大声を出しながら、突進してきた。泣きじゃくっていた真っ赤なその眼は完全に飛んでいた。ぼくは、「隣の者です、隣の堀越です」と言いながら、彼女を捕まえ、落ち着かせようとした。彼女はお構いなしに、ぼくを叩き、腕や顔を長い爪で引っ掻いていた。ぼくは彼女の両腕ごと抱きしめ、ベッド まで運び暴れる体を押さえつけた。

しばらくすると落ち着いてきた。その飛んでいる眼で、じっとぼくを見つめ、ぼくが何者であるか確認しようとしているようだった。そのうち、「熱い、熱い」と言って、体を揺すり始めた。ぼくに危害を加える素振りではなかったので、手を離した。上着を脱ぎ始めた。まだ「熱い、熱い」と口走っている。そしてよろよろしながら、便所に入っていった。ぼくはベッドに腰掛けて彼女が出てくるのを待っていた。中から、また大声が始まり、便所のドアをドンドンと叩き始めた。ぼくはドアを開けようとしたが、中から鍵がかかっていたので、 開けられなかった。「鍵を開けて」と指示したが、狂った行為は続いた。ぼくは ドアのノブを思いっきり、ガシャガシャを左右にねじり、無理矢理こじ開けようとした。

開いた。女は上半身裸で、下半身もジーパンとパンティが足首まで下げられた状態になっていた。ぼくはまた彼女の上半身を抱きしめ、ベッドまで運んだ。この数メートルの移動中、彼女は自らのジーパンとパンティを脱いでしまっていた。全裸で横たわる女。その上から馬乗りになったぼく。やばいぞ、これは。旦那が帰ってきたら、これはレイプに間違われるぞ。そう思いながら、ぼくは彼女を 落ち着かせるように、彼女を上から抱きしめ、軽く揺することにした。もちろん、だれが来てもすぐに対応できるよう開いている玄関のドアを見つめながら。

彼女は眠った。ぼくは毛布をかけ、玄関にすわり、旦那の帰りを待った。1時間くらいたった頃だろうか、車の爆音が聞こえてきた。車から降りて来たのは、旦那ではなく、子分たちであった。中の様子を見せないようドアを閉め、その男に状況を説明した。薬でも飲んで暴れていたこと、部屋の中が目茶苦茶になっていること、そして全裸で寝ていること。男は他の男たちを玄関に残し、旦那を呼びにいった。爆音が闇に響きわたり、そして闇に吸い込まれていった。

ぼくは、自分の部屋に戻ったが、旦那がどんな態度でくるのか、それだけが気になってタバコを吸いながら待っているしかなかった。夜中近くに、旦那がやってきて、迷惑をかけて申し訳なかったと謝りにきた。ぼくはほっとして、冷たくなったミートソースを食べようと温め始めた。

ダックスハウスでの仕事は多忙を極めた。ただ新人だからというわけではなく、ベテラン連中もよく徹夜をしていた。青山通りを隔てた向かいには、深夜営業のスーパー“ユアーズ”があり、夜食には困らなかったが、何と言っても大助かりだったのは、青山学院大学のそ ばに24時間営業の牛丼の吉野屋ができたことだった。夜中の2時3時、毎夜吉野屋に通っていくのが日課となり、ささやかな息抜きの楽しみとなった。

ダックスハウスの名刺や原稿用紙には、ダックスフントのロゴが使われていた。ロゴを作ったのは、「同棲時代」や「修羅雪姫」で当時絶大なる人気を誇っていた漫画家上村一夫であった。ただ、名刺を見せると“ペットショップ” と間違えられたり、その手の問い合わせ電話も多く、対応に困ったものだった。

最初の頃の仕事は、主に単行本の編集だった。南長崎にある直販の出版社永岡書店の仕事で、「パズルの本」を作ることになり、あらかじめ決められていた著者に会いにいった。新小岩の駅から歩くこと20分、住所の場所は鉄工所であった。訪ねると中から出てきたのは、ランニング姿の鉄工所の親父で、差し出された名刺には、“パズル作家”の肩書きが付けられていた。こんな人間が作っているのだと、初めて知った。親父は古ぼけた学生用ノート3、4冊をぼくに渡し、「こん中から、適当に選んでね」と言った。ノートには、1頁1題パズルの問いと答え、そして図がぎっしりと書き加えられていた。

入って間もないある時期、社長の佐藤さんから企画を立てろとの指示があった。企画って何? というくらいの新人であったから、そのまま佐藤さんにたずねた。ダックスハウスでは、牛次郎の原作を中心にコミックスを手掛けていたので、佐藤さんは例えば単行本化されていないおもしろい漫画作品を見つけて、それをコミックスにする、とかというアイデアを話してくれた。早速、ぼくは大手出版社以外の2流3流の漫画雑誌を古本屋で漁った。ぼくの発掘した無名な気鋭たちの作品は、みんなエロ漫画ばかりであった。

ぼくは、高校の頃、女の子の手に触れるため“手相”の勉強を一生懸命したことがあった。結果、いとも簡単に手を握れたが、これが結構当たったのである。 「子供の頃、大きな病気、したでしょ?」「ぷっつん、する性格でしょ?」「豆、嫌いでしょ?」…、過去のことが当たるともうこっちのもの。「結婚は3回するよ」「芸術系に進むといいよ」「迷うタイプだから、はいかいいえかをはっきりしていくと運がひらけるよ」…、ぼくにとってどうでもいい未来の勝手なこ との言いたい放題。みんな、目が輝き、興味深く聞いてくる。こうやって、よく ナンパしていた。

ぼくは女の子たちがいい加減であっても、興味を示す占い、それも「血液型相性占い」の本の企画を出した。当時、能見正比古と鈴木達夫という二人の血液型の権威がいた。ぼくは、血液型研究会とかをでっち上げて、この二人のおいしいところを混ぜて書こうと企んだのである。佐藤さんはやってみろ、と言ってくれた。ぼくは、企画って、意外と簡単だなと思いつつ、参考文献を買ってきて、分析を始めた。何日かこの作業を続けていたが、あることに気付いた。

血液型の判断は、全てデータから成り立っていると二人の権威は謳っていた。つまり、二人それぞれ大量の人間たちのデータに基づいて発表しているということだ。細かいことは抜きに、A型B型O型AB型それぞれの性格については同じよう なものであったが、相性となると、全く正反対の判断をしていることがわかってきた。それがことごとくなのである。おいしいところの混ぜようがないのだ。二人の権威の反目し合っている構造がはっきりと出ていたのである。ぼくはこのことを佐藤さんに告げ、企画を断念した。

そんな忙しさの中で、ぼくには密かな楽しみがあった。それは月に1,2回、牛次郎の自宅がある熱海に、ものを届けたり、原稿を受け取る仕事だった。いわゆるお使いだ。東京駅から新幹線に乗り、熱海下車、タクシーで二宮の自宅まで行く。

牛次郎の家に着くと、20畳くらいの和室の仕事場に通される。奥さんがお茶を出してくれる。奥さんが去ると「堀越くん、ちょっとこっちへ来なさい」と牛次郎が手招きをする。嫌な予感だ。牛次郎は自分の座っていた座椅子と座布団をよけ、その下に敷いてあった2メートル四方の小さなカーペットに座りなさいと言う。寝かされるのかな、と不安を覚えつつ、座った。「へぇー、何ですか、こ れ?」とぼく。「すごいだろう」と自慢気な顔の牛次郎。それはぼくにとって初めての経験であり、こんなものがあるのだと知った瞬間であった。それはポカポ カのホットカーペットだったのである。

こんなお使いが楽しみになっていた。東京駅で缶ビールを買い、ボケーッと流れる風景を眺めながら飲む数十分間。これがぼくの数少ない憩いであった。特に快晴の午後早い時間に行く時は、もうこれ以上の幸せはない、無上の喜びをひたひたひたひたと感じていた。昭和53年、27歳の晩秋の頃であった。

 

番外編 追悼

これを読んでくれているみなさんも、新聞等でご存知かとは思いますが、ここに登場する(これからも登場します)我が友“篠田昇”ムービーカメラマンが亡くなりました。

6月22日午前4時のことでした。

その日の夜中にぼくは目が醒めました。目覚まし時計を見ると2時半を指していました。いつもは再び眠りにつくのですが、この日はなぜか完全に覚醒していたので、起き、氷水を飲み、テレビをつけ、眠たくなるまでボーッとすることにしました。テレビでは、昔のドラマ「赤い衝撃」をやっており、車椅子に乗った山口百恵の元から三浦友和が走り去っていく場面が映っていました。チャンネルを回すと、「プロポーズ」という、とてもくだらない映画が流れていました。

寝ている途中に起きて、眠れないのでテレビを見るなんてことは、ここ何年もないことでした。やがて明るくなり始めた東の空をボケーッと眺めていると、東北東の方向に低 く、星がひとつ輝いていました。そして、かなり明るくなってから、ぼくは再び眠りにつきました。    

昇の死を知ったのは、翌日23日の昼でした。友人からその旨の電話があり、通夜と告別式の日取りを伝えてきました。その時、死因はまだ不明でした。

その後、次々に彼を知る友人から電話がかかってきましたが、状況がよくわかっていないためか、しばらく会っていないせいか、極めて落ち着いて応対していました。そして、夕方近く、本庄という大学の同期の男から電話がかかってきました。

彼はCM制作に携わる仕事柄、昇とも親しくしていて、家も近くにあるため家族ぐるみの付き合いもしていました。彼はゆっくりと話すものの、話の内容と言い方で取り乱していることは感じとれました。彼は、昇の病状の経緯を刻々と語りました。始めの内はわかりにくい経緯に聞きかえしていましたが、次第に昇がその病魔“癌”と闘っていた状況が克明に思い描かれてきたとたん、涙がどっと溢れ出してきました。あとはもう、黙って本庄の話を聞くだけで精一杯でした。

本庄は最後に言いました。 「涙が枯れるまで泣くなんて、初めてだよぉ。初めての経験だよなぁ。堀越よぉー、お前も辛いだろぉー!」。

ぼくは思わず電話を切りました。嗚咽がいつまでもいつまでも続きました。いつ号泣に変わるかもしれないので、慌てて会社を飛び出しました。公園で気持ちを落ち着かせようとするのですが、涙は止まりませんでした。

翌日、石神井公園にある昇の家に初めて行きました。妻のいづみさんが出迎えてくれました。彼女とは、結婚式以来の再会で特に親しくしていたわけではありませんでした。彼女は昇のところに案内してくれました。彼を映した写真や映像では前髪で隠れてわからないと思いますが、もともと昇の顔は侍顔でりりしく、特に眉は太く10時10分だったのですが、その死に顔の眉は8時20分でした。巨漢だった割には、その棺はぼくが収まるくらいの小さな寸法に見えました。後で聞いてわかったのですが、かなり体重が減っていたそうです。

地下にある仕事部屋を見せてもらいました。ひんやりと空調のいきとどいた、コンクリートと鉄骨で組み立てられた間接照明のその部屋には、三脚に立てられた旧式の35mmカメラ、写真の現像装置と引伸し器、ヒッチコックなどの本数冊とビートルズ、ザ・バンドのLPレコード数枚、むき出しの古いレコードプレーヤー、自身で撮影した写真のファイル、そして一番奥には、それらが眺められるように二人掛けの大きなソファーがデーンと置かれていました。昔、大学時代に遊んだ昇の部屋を思い出すくらいに雰囲気がとても似ていました。

いづみさんがこれをどう整理したらいいのか、と大きな衣装ケースを見せてくれました。中は昔撮った様々な写真でいっぱいでした。それを一枚一枚見ていきました。大学時代、お互いに撮りあった写真が出てきました。後藤和夫の結婚式に出席した写真もありました。一緒に撮った映画の撮影中の写真もありました。マジック(インキ)で“kazuya’s box”と書かれた印画紙箱が出てきました。そこには、ぼくが課題で撮った赤羽の街の風景が何枚も入っていました。しょうもない写真なのに、そんなものまで残していました

思えば、昔から昇は撮影を楽しんでいました。工夫をしたりして遊んでいました。手持ち撮影が好きでした。乳母車での移動撮影もよくしました。パン(ニング)も変幻自在と言うか無茶苦茶でした。フィルターを重ねてどんな映像になるか実験もしていました。動く絵だけでなく写真を使った静止画の再撮影もよくしました。レンズに半分ポマードを塗ったり色セロハンを貼ったりして様々なソフ トフォーカスを作りました。また、当時タブーであったガラスに撮影中の自分の姿が映ろうが、全く気にしない図太さも持ち合わせていました。そんな創意工夫の遊び心が彼の持ち味となり、現在の地位を築いていったのだと思います。    

昇は、事あるごとに弟子や生徒(講師をしていた)たちに、自分の原点は、ぼくたちグループ・ポジポジの映画『ハードボイルド・ハネムーン』であると語っていたそうです。夏に撮ったせいか、随所に光(太陽)と影のシーンがありました。きらきらした波を撮った長回しのシーンもありました。低感度フィルムの写真で撮った、コンクリートに映るぼくたちのシルエットがラストシーンでした。

いづみさんの入れてくれた冷たいお茶が、食道を抜け胃に流れる何ともない感覚に、違和感を覚えながら、ぼくはしばらくぶりに会った我が友のことを振り返 りました。

『昇は、昇らしく生きていたんだ。』

帰り際にもう一回、別れを言おうと顔を覗きました。ぼくは、『なんてことはない、変わっちゃいないということじゃないか、昔のまんまじゃないか、おまえは、よ』と、心の中でつぶやいていました。

そしてそれは、ぼくにとって、とてもとても羨ましいことに思えてなりませんでした。

 

中村橋には、篠田昇夫妻(前の奥さん)も住んでいた。たまに晩飯をご馳走になったりしていたが、休日には近所の中学校の体育館解放によく一緒に出かけ、卓球をやった。しばらくするとその隣に区営のアスレチッククラブができ、今度はこちらに夫妻とよく通うようになった。区営のため利用料は200円と安く、サウナが別料金の500円であった。インストラクターに作ってもらった運動メニューをこなし、マッサージ機で筋肉をほぐし、仕上げにサウナに入る行程が通常であったが、 困った問題が発生した。

近所の主婦連中が体操着のまま運動もせずマッサージ機を占領し、井戸端会議を始めてしまうのだ。さらに、夜になると一杯やった後の酔っぱらいおやじたちでサウナが満杯になってしまい、運動をしていた人々が利用できなくなってしまうということも起きた。

中村橋には本当に休日でしか居なかったが、ぼくの数少ない通い店が2軒あった。北口商店街にあった、若者たちが経営していた□型のカウンターのやきとり屋で、ここには白土三平がひとりでよく来ていた。

もう一軒は“大三元”という老夫婦ふたりだけでやっていた中華料理屋で、南口仙川通り沿いにあった。ここは非常に変わったお店で、夜6時頃開店し、いつも満員なのに9時には閉めてしまうのだ。カウンター4人、3人掛けのテーブルひとつ、その間入る客数は14~15人程度だろうか。開店前には数人が並んでいて、すぐに7人の客で店は一杯になってしまうが、最後に注文した7番目の客の料理がでるのが、約1時間半後くらいになるのだ。

まな板は直径50㎝くらいの大きな切り株で、真ん中で半円ずつ5㎝ほどの段差が付いていた。この半分半分をじいさまとばあさまとで分けて使っていた。包丁もじいさま用が大きな中華包丁1本、ばあさま用が小さな野菜包丁1本。火は調理用のガスコンロなのだが、2つしかなかった。これで炒め物から揚げ物、麺類の茹で物、そして焼き餃子を賄うのだった。しかも、注文の順番通りに作っていく。定食の他に焼き餃子が1番の客と3番の客が注文しても1人前のみを焼いていく。つまり、ひとりの客が注文した料理すべて同時に出てくるように、じいさまは考えていた。時間はかかるが心憎い配慮である。

昔、ぼくはラーメン屋に入るとビールと餃子とラーメンを同時に注文した。ビールはすぐ出てくるが、次に出てくるのは決まってラーメンだった。ぼくは ビールを飲みながら、餃子をおかずに食べたいのに、必ず餃子は最後になった。 だれでもがそう願っているはずなのに、客への配慮がないのである。どのラーメ ン屋でも同じだった。それからぼくはビールと餃子を注文し、餃子が出てきてからラーメンを注文するようになった。

しかし、このお店の魅力は何といっても味にあった。中でもレバニラ炒めは絶品であった。しかも、ぼくにとって初めてのレバニラの味でもあった。それは、レバーに片栗粉をまぶし、油であげてからニラと一緒に炒めるものだった。料理にも手をかけ時間をかけていたのである。

中村橋を去ってから数年後に訪れる機会があったが、残念ながらその店はもうなかった。(注・駅よりの向かいのビルに移転したらしい)

中村橋には、憎めない変なお店が多かった。駅前のキッチンに入り、大好物のオムライスを注文した。左端から食べていくのだが、肉(チキン)が全く入っていない。それに代わるハムのようなものも全くない。次第に腹立たしくなってくると、最後の右端にチキン数個が固まりになって発見された。いつ頼んでもこの状態なのだ。多分間違ってはいるが作り方が一定なのだ。そしてだれも文句を言わないのだ。

女3姉妹で握る寿司屋。多分、始めは親父がやっていたのが、病気か何かで彼女たちが手伝いをしたのが、そのまま形になったのだろう。ここは時に、赤ちゃんをおんぶして「へい、いらっしゃい」と寿司を握っていた。

ある時、昇のカメラの師匠である川上晧市さんが昇に絨毯をあげると言ってきた。自分の家には新しい絨毯があるから堀越がもらわないか、と昇夫婦がすすめてくれた。貰えるものは何でも貰う主義のぼくはその話に喜び、3人で千葉県行徳市にある川上さんの家に行った。ぼくたちはびっくりした。どうせ大したことのない絨毯と思っていたからだ。6畳用の新品、しかもメイド・イ ン・イングランドのウール100%であった。柄も素敵だった。お礼を言って、昇の車に詰め込み帰路に立った。この車での攻防が大変だった。絨毯を欲しくなった夫妻は、うちのと交換しよう、でないと運んでやらない、ここで下ろす、ときた。ぼくは絶対に応じなかった。ぼくはこの絨毯を一生物として今でも家の6畳間に敷き、大事に使っている。

相変わらず仕事で徹夜は続いた。仕事ばかりしているものだから、金を使う時間がない。だから貯金ができた。しかも毎月少しずつ給料が上がっていった。入ってから半年後、10万円だったぼくの給料は15万円になっていた。 「プロテイン・ダイエット法」、「子供の恐い病気」などの単行本を作った後、 ぼくは初めてレギュラーの仕事をもつことになった。それは学研の受験生向け月刊誌“高3コース”の情報ページであった。映画、音楽、本、テレビ番組等を各見開きで紹介するもので、デザインはパターン化されていたので、写真に大小をつけたり、紹介する情報量によって、ぼくが多少手直しをした。今は廃れてしまった青1色の活版印刷で、文字の大きさは“ポイント”を使っていた。

映画と本の原稿は後藤に頼み、ぼくは音楽とテレビの原稿を書くことになった。レコード会社とテレビ局の番宣(番組宣伝の略)を1週間ほどで回り、材料を吟味し選択して原稿に取り掛かる。大変だったのは、レコード会社から貰うレコードの見本盤だった。その後、カセットテープに移行していくのだが、当時はまだサンプルもレコード盤であった。1日で数社回ると数十枚にもなり、手提げ袋が4~5個にいっぱいになる。これがえらく重く、腕が抜けるくらいなのだ。社長の佐藤さんからは、タクシーはダメと念押しされていた。

浜松町世界貿易センタービル内にあったキャニオンレコード(当時)の宣伝部に仲の良い女の子がいた。今月の情報を聞きに行き、北海道に松山千春という地元でのみ有名なすごい歌手がいる、というような話を一通り聞き、サンプルレ コードを貰い帰社しようとすると、「ね、ね、ちょっと待っててくれる」と彼女。数分後、紙包みを鷲掴みにしながら、「家まで送ってくれない?」ときた。彼女の家は高円寺にあった。理由はボーナスを現金で支給されたが、帰り道が心配なので送ってくれ、ということだった。厚さ10センチ以上はあったから、一体いくらなんだろう、すげーっ、と感心しつつ、さらに「家の近くで奢るから」と追い打ちをかけてきたが、ぼくはあっさりと断った。こんなおいしい誘惑にも負けないくらい、レコードが重かったという話である。

時代は、オフセット印刷中心に移っていくこの頃、ぼくには解せない出来事がダックスハウスで起こっていた。レイアウトと原稿を入稿し、初校(ゲラ)が出てきて、それに赤入れという文字直しの作業をする。原稿は当時手書きのため、読めない文字や修正する箇所は赤ペンできちんとした文字に書き換える。ゲラも同様な文字直しの作業を繰り返す。ところが、戻ってくるゲラや再校(第2番目のゲラ)は赤入れをした箇所が指定通りに直ってなかったり、余計な文字が入っていたりしていることが非常に多かった。ぼくは自分の字も下手だし、こういう ものだと思っていた。

ところが、向かいで仕事している和美ちゃんの仕事を手伝った時、見事にきちんと指定通りに直っているではないか。これは字のうまい下手だけではない、何かがあるぞ、と。

ぼくはそれを発見した。手紙であった。彼女はレポート用紙1枚に、「こちらは今、夜中の2時です。お互い大変な毎日が続きますね。……どうぞお身体を大切にしてください。和美」というような短文を添えていたのだ。ハハーン、相手(修正作業する人)は男だもんな。ぼくは真似をした。名前は堀越を使ったが、まるで女のように書いた。効果はテキメンであった。見事に赤字は指定通りに修正されていた。たった10分か20分の工夫で、何十時間もの労働時間の短縮ができたわけだ。ぼくはこれをだれにも教えなかった。

そして、このあと入社以来、初めての“地獄”を経験することになる。  

南青山にあったダックスハウスに、角川書店のW編集長と仲介役の映画評判家清水俊雄氏が訪ねてきた。映画情報誌『バラエティ』創刊号の話であった。

表紙と中身のデザイン全てと若干の原稿を引き受けることになったが、これがとんでもない仕事となった。まず、ぼくに振られたのは数ページに渡る映画館のスケジュール表だったが、ぼくにとってオフセット印刷でのレイアウトは全く初めての経験であった。だから、何からやったらいいのかもわからないでいた。他のスタッフもぼくに教える余裕もなく、即仕事に取り掛かっていった。ぼくはみんなの仕事のやり方をただただ横から眺めるだけだった。

最初の1日は本当に見るだけで終わった。ここで 写植フィルム、ピッチ、平体長体などの使い方が理解できた。翌日から表組みを作り始めた。ぼくはこの枠の中に、映画館名や上映タイトル等の文字数を数え、写植フィルムを使い、ひとつひとつはめ込んでいった。原稿には長体をかけた文字の送りの指定も入れた。ツメは1H(歯)、ツメツメは2H、 長体1は10%減というように、それぞれ計算をし指定していった。“文字なりゆき”と指定すれば、写植屋が適当に長体をかけたり、ツメてくれる ことは、大分後で知ることになる。

こうして会社での睡眠が1日1~2時間、これが2週間も続いていった。もちろん休みはなし。やってもやっても終わりがない。もうフラフラ状態である。版元でも編集長が過労で倒れてしまい、雑誌が出る前に編集長が交代する異例の事態となっていた。

ダックスハウスに入社して約1年が経った頃、オーナーの牛次郎と社長の佐藤さんとの間で衝突が起こり、突然の会社解散となった。

社長の佐藤さんは、親分肌のとても面倒見のいい人で、事あるたびに「オレたちは運命共同体なんだ」と力説していて、この時もオレについてくるかどうか決めてくれとぼくたち社員に問うた。ぼくは、気持ち的には佐藤さんの言うことを理解できたが、ついていかないことにした。もっとこの仕事をやりたいという気持ちと自分の可能性に賭けようという思いが強かったからだ。若さ故の判断だった。

佐藤さんはこの後、フリーアナウンサーの古舘伊知郎と組んで“古舘プロジェクト”という会社を起こし、現在も社長として活躍している。

ぼくは社員3人と、早稲田大学稲門そばにあった稲門堂書店の3階の一室を借り、共同事務所を立ち上げた。しかし、夏、冷房をばんばん掛ける男と片や寒すぎてストーブを焚く男とに挟まれたぼくは、どうにも耐えられなくなり、ここをすぐに去った。

ダックスハウスの裏手に、“ノヴァ”という事務所を構えていた映画評判家の清水俊雄に相談し、机を置いてもらうことにした。ここには、映画情報誌 『シティロード』の映画星取り表を書いていた後藤和夫や杉目(すぎのめ)小太郎もいて、映画中心の仕事をしていた事務所であった。

この“ノヴァ”がユニークな事務所として、雑誌『アンアン』に載った。それは当時まだ普及途上であった留守番電話をおもしろく活用していたことで紹介された。若い女の声で「もしもし、私、恵子。今ノヴァに来てるんですけど、おじさんたち、出かけちゃっているみたい。しょうがないから皆さんは留守番電話にメッセージを入れておいてください。それにしてもおじさんたち、早く帰ってこないかなぁ。恵子、さみしい。(ここで背後からノヴァの面々の大笑い声が入る)」とか「(パチンコ屋の音が流れる中)はい、今パチンコで忙しくて電話に出られません。~」。こういった録音を2~3日毎に吹き替えていた。アデランスのTVCMで初代男性モデルをやっていた男からは、「アデランスの南です。いやー傑作、傑作」「アデ ランスの南です。イマイチですな。ファンの気持ちをもっと考えてやってください」とか、知り合いでもないのに、その寸評を吹き込んでくれていた。

ある時、知り合いの編集者が、飲み屋の親父たちと客とで作った草野球のチームがあるのだが、試合をしないか、と持ちかけてきた。ノヴァの面々はこの話に盛り上がり、チーム作りが始まった。

形から入るのが好きな清水くんや後藤たちは、総監督に大林宣彦(映画監督)、現場監督に高田純(脚本家)を即決定させた。ぼくたちの呼び掛けに、大久保賢一(映画評論家)、長崎俊一(映画監督・一度も来なかった)、伴睦人(映画監督)、篠田昇(故人・撮影監督)、創造社の小西くん(ピッチャー要員として後でスカウトした)、腰山一生(故人・放送作家)、軽部兄弟(編集者)、杉目の友人の山田くん(職不明)、後藤の弟正夫(編集者)と信夫(イラストレーター)、菅野くん(編集者)、橋倉正信(フランス映画社・現編集プロ社長)と続々と集まってきた。マネージャーは後藤の奥さんの妙子、チアリーダーには直美(当時は女子大生、後に映画評論家となり、現在は泉麻人の奥さん)と彼女の友人たちが揃った。

対戦日が近くなったある日、打順と守備を決める会議を開いた。大変なことが発覚した。ピッチャーをできる人間がいないのである。思いたったぼくは、すぐに実家に電話を入れた。昔、欽ちゃんの夏恒例の特別番組で「もうひとつの甲子園」というのがあった。定時制高校の軟式野球の全国大会が夏、神宮球場で行なわれていた。これの地区予選から決勝までのドキュメントで、様々な職業をもつ人間(選手)たちに焦点が当てられた、ぼくの大好きな涙と感動の番組であった。これに東京代表と して赤羽商業が出場し、そのキャプテン、ショートを務めたのが、ぼくの弟であった。この時、弟は二十歳を超えていた。

彼をチームのピッチャーに立てた。これでいくらか形になったかな、と思いきや、清水くんと後藤は、「もうひとつ何か、相手を圧倒させるパンチがほしいな」と欲をかき始めた。何を思ったか、ふたりは六本木のディスコに出かけ、リ トルリーグ出身のカナダ人弁護士を助っ人外人として連れてきたのである。完璧であった。

チーム名は“FILMEX”。こうして、待ちに待った第一戦は大宮の健保球場で開かれた。驚いた。ぼくらのメンバーには、ろくにキャッチボールできない奴らがいる。試合前に土手から落ちてケガをしている奴もいる。試合開始直後、眼鏡の邪魔になるのでマスクをつけなかったキャッチャーの山田くんに、ファールチップのボールが直撃し、眼鏡が粉々に砕け飛んでしまった。前進してくる助っ人外人の頭上をはるかに越えていくライトライナー。プライドを傷つけられたとそそく さ帰ってしまう助っ人外人。散々な面子であったが、6対5で初戦に勝利した。

忘れることのできない特別な試合があった。それはかなり成績もよかったため、腰山が最強の草野球チーム法政大学OBを呼んでしまった時のことである。江川と同期の野球部出身で固められたチームだった。もう、キャッチボールや練習からして違っていた。見事なくらいのフォーメーションで練習をこなす姿を見て、ぼくたちのだれもが負けたと思っていた。

この日、ぼくは新宿で朝まで飲んでいて、その足で埼玉の球場までやってきた。途中、開いていたマクドナルドでハンバーガーとミルクを摂ったのが間違いで、後攻であるぼくらが守備位置に着いたとたん、ぼくは急に気持ち悪くなり、プレイボール前にタイムをとり、便所に駆け込んだ。オエッー、ブリブリ、ジョ ジョーと口、肛門、尿道の3つの穴から同時に嘔吐と排泄をした。嘔吐物を見な がら、ハンバーガーはさすがに出していないな、意地きたないぼくらしいや、と我ながら感心していると、心配したメンバーが呼びにきた。ぼくがセカンドの守備についたのは、タイムしてから20分は経っていた。相手のベンチを見ると、み んなイライラとして怒っている様子が露骨に見てとれた。相手の作戦はぼく狙いであった。ぼくはハーハーゼイゼイしながらも、セカンドゴロを2つとセカンドライナーをさばき、ふらふら状態で無事ベンチに向かった。ぼくのこの弱りきった身体での華麗なるプレイが相手を動揺させたのか、その後の打撃がちぐはぐになっていった。5回まで0対0の接戦となった。

6回裏のことだった。後藤和夫とぼくの連続ヒットで、ノーアウト1,2塁。大久保賢一がフォアボールを選び、満塁となった。

事件は突然やってきた。何と1塁ランナーの大久保が全力で2塁に向かってきたのである。ぼくは何が何だかわからぬままに、3塁に向かおうと走りかけた。3塁走者の後藤も3塁本塁間で右往左往している。これらはわずかの時間に同時に起こっている出来事である。全力疾走の大久保には、これっぽっちの躊躇もない。戸惑ったキャッチャーは、大久保の勢いに押され、2塁へ送球してしまった。これが大暴投になり、この回2点を取った。結果は2対1の思わぬ大勝利となった。

昭和54年、日本ヘラルド映画宣伝部から仕事の依頼がきた。今度公開になるジョージ・ハミルトン主演の映画『ドラキュラ都へ行く』の販売促進用の小冊子を作ってくれ、というものだった。予算は30万円。台割を考え、後藤和夫と清水俊雄は原稿を、ぼくはレイアウトをそれぞれ手掛けた。ひとり10万円のギャラである。

朝から仕事を開始し、その日の夜中に作業は完了した。しかし、サブタイトルを付けようと知恵を絞ることになった。これはというサブタイトルがなかなか出てこない。清水くんがアイデアを出した。この映画のテーマは“愛”、それに“吸血”という言葉を雑誌名に当てはめてみよう、と。ぼく たちはバンバン出し始めた。「愛の吸血エクスプレス」「愛の吸血時代」「愛の吸血コース」「愛の吸血自身」「愛の吸血王」「愛の吸血サンデー」「愛の吸血キング」「愛の吸血マガジ ン」「愛の吸血コミック」「愛の吸血丸」「愛の吸血小説」「愛の吸血宝石」 「愛の吸血ロードショー」「愛の吸血ボーイ」「愛の吸血パンチ」「愛の吸血生活」「愛の吸血画報」「愛の吸血クラブ」「愛の吸血族」「愛の吸血公論」「愛の吸血文春」「愛の吸血物語」「愛の吸血セブン」「愛の吸血読売」「愛の吸血ダイジェスト」「愛の吸血現代」「愛の吸血科学」「愛の吸血ランド」「愛の吸血宝島」「愛の吸血旬報」「愛の吸血ロード」「愛の吸血世界」「愛の吸血にっぽん」……。

タイトルが出るたびに、みんなで腹を抱えての大笑いが始まった。徹夜仕事のハイ状態である。こうして朝まで続き、なんてことのない「愛の吸血手帖」に決定した。

この徹夜のハイ状態は麻薬みたいな快感であった。苦しいながら、疲れながら、みんなでハイテンションになり、大笑いを共有する。これが楽しみでやってこられたみたいなところがあった。とにかくフラフラの極限に近い中での至福の時であった。

今でも思い出すのは、水中カメラマンのインタビューの記事だ。原稿を読んでいた編集のT君が、夜中の3時頃、突然大声で笑い出した。「知らねぇよ、誰も知 らねぇよ」と大声で叫びながら、大笑いしている。T君はここを読んでみろ、とぼくに原稿を差し出した。そのカメラマンはまだ無名で、水中撮影の難しさをインタビューしたものだった。その原稿には、カメラマンが「多分、ぼくが日本で初めて水中撮影をしたんじゃないかな」とあった。問題は、その後に続くインタ ビュアーの言葉だった。「へぇー、それは知らなかった」。ぼくも大爆笑モードに入った。

しばらくして、また日本ヘラルド映画から仕事が入った。大作 「愛と哀しみのボレロ」の小冊子の依頼であった。清水くんとぼく、それに年表が入るので、杉目小太郎に手伝ってもらうことにした。最終段階になって、ヘラルドのM部長から表紙のやり直しの電話がかかってき た。ふて腐れて聞いていたぼくは、無意識に返事で「うん」と言ってしまった。M部長は「うん、とは何だぁ、うん、とわぁ~。はい、と言え、はい、とぉ~」 と激怒して電話を切ってしまった。ぼくは、その足でヘラルドに行き、M部長に謝罪した。そして、表紙をやり直した。

デスクワークの多いこの仕事をしていると、いわゆる職業病というものを経験するようになる。ノヴァの面々が、熱川へテニスと温泉旅行に出かけた時、ぼくだけは大仕事が残っていた。遅れて、翌日に彼らに追い付くことになったぼくは、必死で朝まで仕事をした。朝日が上り始めた頃、終了したぼくは、「できたぁ」と声を上げ、 椅子から立ち上がった時、腰に激痛が走り、床に倒れ込んだ。初めて経験するギックリ腰だった。救急車を呼ぶ事態になったが、後にも先にもこの一回のみの経験で済んだ。

この頃から、ぼくは“痔”持ちになった。便をすると出血することが多くなったのだ。便をした後、あてがうものが必要となり、初めのうちはトイレットペーパーを使っていたが、トランクス派だったため、ずれるのが気になってしょうがなかった。そこで、ぼくは女性生理用ナプキンを買うことにした。

人が多い六本木に行き、大きな薬局に入った。店員は4、5人、客は予想に反して少なく3人ほどであった。生理用品は、当時、現在のような、かごに入れて自由に買えるようにはなってはおらず、コンドームと同様、カウンター内の店員の後ろに隠すように置かれていた恥ずかしい商品であった。

ぼくは意を決して、「ナプキンをください」と一番端の店員に声をかけた。店員は「何用ですか?」と聞いてきた。こんな事、聞かれるとは思ってもいなかったぼくの頭の中は、かつての彼女たちや大学、高校、中学、小学校時代の女友達たちとそのお母さん、母、親戚のおばさん、近所のおばさん…何十人という女の顔や姿が次々に巡っていった。その間、わずか0.8秒。ぼくの口から出た言葉は、「若い子用」。店内にいたみんなが同時にどっと笑った。ぼくもそんな訳ないよな、とつられて笑ってしまった。

仕事は映画関連だけでなく、学研の受験雑誌“高一コース”の正月号では、投稿記事でまとめるギャグ特集のようなバカバカしいこともやっていた。これは清水俊雄とふたりで受けていたが、そのままでは使えないのでかなりアレンジをしたり、自分たちでも勝手に作ったりしていた。絶対に上がれないスゴロクなんかも作った。

毎年好評でいつも読者人気投票で第一位の付録(これは定番)に続き、二位を獲得していた。これが、のちの若者向け雑誌「ボム!」の前身となった。

“ノヴァ”のリーダーであった清水俊雄は変わった性癖の持ち主だった。果物好きで、いつもみかんや柿を一袋(10個くらい)、買ってきては一気に全部平らげていた。たまに一個残っている事があり、もういらないんだと思い、だれかが黙って食べてしまうと、「だれだ、おれのみかん、食ったのは、だれだあ」と怒鳴り散らしていた。

こんなこともあった。清水くんは、仕事がら試写会に行くことが多かった。自分の原稿を書き終え、机のライトを消し、窓を閉め、部屋の照明をも消し、玄関のドアに鍵を掛けて出かけていく。部屋でぼくらが仕事をしているにも関わら ず、だ。

当時、市ヶ谷にある大日本印刷の中には、いくつかの企画会社が入っていて、ある日その中のひとつに呼ばれた。ぼくと同じ呼ばれたスタッフの中に、今は有 名になった中野翠さんもいた。

仕事は、明治製菓の子供用小冊子を作るもので、企画作りから始まった。しか し、ぼくが話す内容に、プロデューサーの浅香さんは「いいんでないかい」といつも人を小馬鹿にしたような返事をしていた。ぼくは、何だこいつは、と思っていた。浅香さんは北海道出身であった。清水くんもそうだし、この業界には意外 と北海道の人が多かった。この表現が北海道弁であることを知るのは、しばらく 経ってからのことである。

ぼくは漫画の原作を受けもつことになった。少年と大きなニワトリとの凸凹コンビが、事件を解決するナンセンスなものだった。一緒に組んだ漫画家は、御茶ノ水大学出身の湯田伸子という若い女性だった。彼女は、かの手塚治虫大先生に将来を期待される漫画家として名指しされていた人物であった。今はどうしているのか。

この仕事で、ぼくが大好きで没頭していたのは、小話を作ることだった。小話その一・オリンピック体操競技床運動会場からの実況中継「さあ、続いてはアフリカの秘密兵器、コンゴのウガンダ選手の登場です。 おっと、いきなり出ました超ウルトラCの大技、3回転半ひねり顔面倒~立!」(差別か!この頃、ウルトラCが最高級の技であった)。小話その二・オリンピック陸上競技槍投げ会場での実況中継「どうしたんでしょう、ニューギニアのアポ選手、全く投げようとしません。 なげやりです」(これも差別だな)てなものを、嬉々として考えていた。

その頃、よく通っていたお店が目白にあった。聖母病院の前を通り、目白通りにぶつかったところに酒屋があり、その裏手にあったスナックで、店の名は「ク リケット・ハウス」といった。人のいいマスターのアベちゃんと朝まで飲んだり、パーティもしょっちゅうだった。仲間と行くと貸し切り状態となり、駄じゃれ大会やダンス、芸の披露が始まった。山下洋輔の演奏会を口と身体で、延々1時間もするやつもいた。ぼくの芸 (?)は、ストリップであった。  

この近くに、落語家たちが通う有名なそばや“翁(おきな)”があった。東京で一番旨いそばやと言われていた。流行っていたにも関わらず、食通からお墨付きをもらっていたにも関わらず、ここの店主は自分でそばを作るといって、店をやめ、山梨県に引っ込んでしまい、そこで“そば民宿”を始めた。アベちゃんは、弟子としてこの店主に付いていき、「クリケット・ハウス」はなくなってしまった。

続く

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私家版「記憶の残像」⑧~路上アクセサリー

真上の2階には、日本舞踊のお師匠さんが住んでいた。30代後半くらいか、このお師匠さんが、毎晩“何”してうるさいのだ。叫び声だけでなく、竹刀とか鞭とかで叩く音、ガラスの割れる音、水が撒かれる音、飛び跳ねる音、いろいろな音がした。

そんなある日、1階の右隣りの人と初めて顔を合わせた。ぼくは「あれーっ」 と彼を指差した。向こうもぼくを見て「あれーっ、どうしてここにいるのよ」と指差した。隣人は、ぼくたちの映画とよく比較されていた『バイバイ・ラブ』の 監督、藤沢勇夫だった。ぼくは藤沢くんと奥さんとすぐに仲良くなり、毎晩酒や夕飯を御馳走してもらうようになった。

こうして、ぼくはもうしばらくここに住んでいようか、と思うようになった。

ある日、あまりにも暇そうにしていたぼくに、アクセサリー屋の社長が話かけてきた。昔、俳優座で芝居をやっていたという社長は、上原さんといい、坊主頭に眼光鋭く、一見やくざもののように見えた。

アルバイトをやらないか、という話だった。ぼくは、翌日から銀座三越の5階のアクセサリー売り場で、会社の女の子とふたりで売り子として働くことになった。アクセサリーの売り場は、たまに混むだけで、かなり暇であったが、戻ってからの夜は、ラジオペンチと針金を与えられ、英字の大文字、小文字のAからZまでを作れるよう、特訓させられた。ネームバッジの練習だった。

この頃、若者たちによる路上アクセサリーが流行っていて、そのメイン商品がネームバッジだった。針金で、ローマ字の名前を型取るもので、飾り物をつけたりして、値段は400~500円で売っていた。ぼくは練習がてら、5階の売り場でおばさん相手にネームバッジを作って売っていたが、客層の違いか、さほど売れる ものではなかった。

アクセサリー屋で働くことになってから、しばらくして、5階の売り場から1階の外に店舗が移された。売上げが2倍も3倍も上がった。社長の上原さんは毎日、上機嫌だった。ところが、すぐにここを立ち退く出来事が起こった。三越1階の外に、日本初上陸、アメリカのハンバーガー・チェーン“マク ドナルド”が出店することになったからだ。

昼休み、上原さんに銀座千疋屋2階のパーラーに呼び出されたぼくは、フルー ツ・パフェを食べながら、「もう三越は終わりだから、今度はひとりで路上で売ってみないか」と上原さんの言葉を聞いていた。

ぼくの路上アクセサリー屋の生活が始まった。

路上アクセサリーは、晴海通りを銀座ソニービルから三愛に行く途中にあった第一勧業銀行(現みづほ銀行)前で始めた。入り口4段の階段の片側半分とウィンドウ下の平らなスペースに品物を並べた。もう半分には、同じ路上アクセ サリー屋の先輩格のベラさんが陣取っていた。そして、手相見のおばさんが真ん中に来たり、ぼくの端に来たり、その日によってお店の位置を変えていた。

銀行が閉店してからの商売なので、平日は夕方から店を出し、夏は夜10時頃、冬は8時くらいまでやっていた。

銀座の所場は、関東○○会の他、4つくらいのテキヤの連合が仕切っており、上原さんはそのひとつに属した。ぼくの所場代は月1万円で、決して高くはなかったが、寄合いとか会合とかが月に数回開催され、これが日本酒、ビールの他、食い物が乾き物のみで、数万円取られた。ぼくは直接の組合員ではないので、最初の1回出ただけで懲り、その後は出なかった。

きれいごとで言えば、テキヤの精神はお互いに助け合っていくことにあった。 テキヤの商売は、許可もなく路上や開いた場所に、屋台や店を出す、完全なる道交法違反にあたった。定期的な警察の見回りがくると、若い衆が「くるぞ」と声をかけて、次から次へと知らせる。すると、ぼくらは店をそのままにしてずらかる。警察は現行犯で逮捕しなければならず、店に手を触れられない。警官が通り過ぎたら、また何もなかったのように商売を始めればいいのだ。ぼくは、客が多過ぎて逃げられなかった時が1回あり、東銀座の交番へ連行され、罰金5千円と調書、指紋をとられた。

また、近くにはえらく商売繁盛の“よりどりみどり3枚500円”のスカーフ売りや 磯部餅の屋台などが出ていて、「兄ちゃん、ちょっと見ててや」と言って、食事や小便に行ってしまうのだ。客が寄ってくると対応しなくてはならない。結構、これがかけもちのため大変だった。 醤油が焦げる香ばしい匂いに負けて、磯部焼きをタダ食いした時があった。しば らくして、腹痛を起こした。この餅は、原価の安い粗悪品で、1回固くなると二度と柔らかくすることのできない餅だった。つまり、腹の中ですぐ固くなり、そのまま消化できないのであった。

商売をして間もなく、「お前、ここで何やってんのや」とふたりのチンピラが因縁をふっかけてきた。ぼくは「○○さんの許可をもらってますよ」と言った。 「うそ言うな、われ」といきなり胸倉を掴まれ、銀行と千疋屋のビルの、人一人入れるかの隙間に押し込まれ、ボコボコに蹴られた。1週間後、殴られて顔を腫らせたそのふたりが、この前はすまなかったと、謝りにきた。おそらく、テキヤのだれかが見てて、その一切を報告したのだろう。

売り物や商売道具はかなり量がかさむので、角を曲がった西五番街の中華料理屋の倉庫に置かせてもらった。その礼として1週間に1,2度、そこのまずい中華を食べなければならなかった。

路上でのアルバイト料は、売上げの3割だった。ぼくが始めた頃は、流行始めの頃だったので、夕方4~5時から夜9~10時までの平日でも、日に5~6 万円の売上げがあった。土日になると、昼から店を出し、夜7~8時までやって、10万は軽く越えた。

しばらくして、ぼくは隣のベラさんとふたりで独立することになるが、その時のぼくの最高売上げは、1日26万円にもなった。売れる商品のトップは、何といってもネームバッジで、最高売上げのこの日の夜には、作り続けのため、ぼく の右手は完全に何も握れない状態になっていた。小便にも行けず、食事は買ってきてもらったマクドナルドを頬張りながら、おそらく3百個近くは作っていた。

銀座には、隣りのベラさんの他、斜め向かいの富士銀行前にマキちゃん、近鉄 ビル前のボンちゃんが路上アクセサリーを売っていた。ボンちゃんは、ここで商売をする前に、ヨーロッパ中を回りながら、路上アクセサリーを売っていた先達的な人物で、小学生のような西ドイツ人の奥さんと店を開いていた。ボンちゃんは、この後ニューヨークに出掛け、チキテリ屋を始め、大成功を収めることになる。銚子に住むボンちゃんの兄さんが、「ニュー ヨークの近くの島に店を出したよ」・・・「繁盛しているから安心して、と言ってたよ」・・・「店を拡大するので、調理場の特注パーツを仕入れなくちゃならないんだ」・・・「2号店をマンハッタンで出すんだって」・・・逐一、ぼくやベラさんに報告に来ていた。

昭和50年の秋、広島カープが念願の初優勝をした。市営球団のため、巨人のような企業による優勝セールスはなく、東京ではしらけていた。

が、銀座はそうではなかった。広島出身の経営者たちが立ち上がり、かなりのお店が参加し、その店舗ごとのセールを行なった。飲食店では、昼間からビールや樽酒、やきとり、とん汁などを無料で配った。ひとりで何杯でも何本でも無銭飲食できた豪気な計らいであった。これを聞いた東京中の浮浪者たちが銀座に集結した。昼間から生き生きしていた彼らの姿は壮観であった。巨人や阪神の優勝とは違い、弱かった広島の優勝は、まさに弱き庶民たちへのためにあった。

ぼくが銀座で路上アクセサリー屋をやっていた昭和50年初め、原正孝が“ ニューシネマ・エクスプレス”という映画同人誌を作り、これを後藤和夫夫妻が手伝い、彼らはその中で批評や論文やシナリオを展開した。

その年の暮れには、渋谷区富ヶ谷にあった「胡流氓(こるぼ)工場」の代表であった大久保賢一(現映画評論家)や小林竜雄らが積極的に加わり、内容も高嶺剛、大森一樹インタビューの他、自主上映の具体的なマニュアル、つまり使用料金やキャパを載せた上映会場リスト、マスコミに対しての情報宣伝・売り込みの方法と新聞社・雑誌社の連絡担当などの関係者リストなどを掲載し、極めて戦略性に富んだ季刊第一号を登場させた。

 

ぼくはというと、相変わらずアクセサリーの商売に励んでいた。ぼくは、銀座だけでなく、上野にもよく出向いた。若者たちが集まる原宿などには見向きもしなかった。当然、メインの売り物は流行のネームバッジだったが、何が儲かるかというと、最高価格2400円の大きなペンダントだった。これは 若者向けというよりかは、セーターなどの上に付けるおばさん向けの商品だったので、お上りさんを相手に商売を考えたのだ。まとめ買いをするおばさんたちは、後を立たなかった。

そして、年末年始になると浅草に出向いた。年末の12月24、25日のクリスマスには銀座で商売した後、休みをとり、29日から仲見世通りと浅草寺の間にある寺の建物脇で商売をした。

近所の旅館を2週間予約したのだが、あまりの人の多さが続くので、休むタイ ミングが見えず全てキャンセルした。やはり正月の7日くらいまで客足は絶えず、客足のすく朝になると近所のサウナに行き、2~3時間仮眠する毎日だった。

この頃には、売れ筋の商品も増え、小さな金や銀の板金にアルファベットの ネームを刻印し、ブレスレットやプチペンダントに作り上げるものから、ベニヤで作ったスヌーピーの表札のようなものまで、コンスタントによく売れていた。

結局、年末年始約10日間で、売上げは優に300万円を超えた。すっかり味をしめたぼくは、祭事がある時は、よく浅草に出かけるようになった。もらった場所はオレンジ通りと新仲見世通りの交差する、舟和の斜め向かいの空き店舗の脇で、隣りには皮製品屋があった。商売道具は雷門の近所、仲見世通りの裏手にあった喫茶店“金龍”に置かせても らった。ここは、きっぷのいい3姉妹が経営していて、大変お世話になった所である。

浅草では、向かいの洋服屋の前で商売をしていたフーテンの寅さんのような一 匹狼のテキヤに出会った。その商売上手にぼくは本当に感心した。見事な売り方は、これぞテキヤの手本だと思った。口で吹くと巻いてあった棒状の風船がぴゅーっと伸びる“巻き取り笛”を売って いたこの男は、小さな子供を連れた母親を狙っていた。

子供が男の子の時には女の子として、女の子の時には男の子として声をかけるのだ。ピィーピィーと笛を鳴らしながら、「お嬢ちゃん、元気いいねぇ」「お嬢ちゃん、きょうはママに何か買ってもらったの?」。また母親には「お宅のお嬢ちゃん、ちょっと男の子と間違えられちゃうでしょ」……と近づいていく。だれが 見ても男であっても女という。こうすると、必ず母親が反論するのだ。「うちの子は男の子よ」と。「へぇ~、女の子だと思った」と言いながら、その笛を子供に渡してしまう。何も知らない子供は、おじさんがやっていたように、笛を吹いてしまう。母親は子供が口を付けてしまったので、買わざるを得ない。実に巧妙で、タイミングを心得た売り方だった。

浅草では、詐欺の詰め将棋屋が神出鬼没に出現していて、これをぼくは何回も見かけた。彼らは4,5人のグループで構成され、人込みの少ない所で商売をする。主役は将棋盤を首からぶらさげている。ひとりが相手客を装い、他の数人が通行人として、その回りを囲む。こうすると中を覗こうとする人間がひとりや ふたり必ずいるものなのだ。もう一歩で客が詰みそうになると、「もう金がないや」とか、覗いている人間に「あんた、続きやっていいよ」とか甘い言葉を巧みにかける。絶対に親が勝つ仕組みなのに。 中には、この通行人役がスリの時も状況によってはあった。彼らは、ひとつの仕事が終了すると、その場所からさっといなくなってしまう。

巧妙な手口なのだが、人間の心理をついた“さくら”の存在に関心を持った。露天商には、“さくら”の存在が実に大きく、不可欠のものだと悟るには時間はかからなかった。

銀座でもこの“さくら”に本当に助けられた。“さくら”と言っても金を出して雇う、詐欺まがいなものではなく、店によく来る女の子たちがその“さくら”の役目 を果たしてくれたのだ。ぼくがネームバッジのサンプルを作りながら、女の子と話していると、通行人には、彼女がお客さんに見え、次に作ってもらおうと並ぶ。彼女たちが、店の新しい商品を眺めていると、どんなものなのかと見る客がどんどんと増えてくる。面白い。人間って、潜在的に他人のすることに興味があるものだと理解できた。

 

昭和51年。銀座の店にひとりの若者が訪ねてきた。“POPEYE”というネー ムバッジを60個作ってくれと。それに金メッキをかけてくれと注文した。ぼくは 60個のネームバッジをもって、東池袋のメッキ屋に持って行った。

そして、指定された銀座松屋デパートの裏手にあった場所に納品をしに行っ た。そこは平凡出版という出版社であった。若者は「できてきたぞー」とみんなにバッジを配った。そして胸にネームバッジをつけた彼らは、一斉に「えいえいおー」と勝鬨をあげた。 それから数ヶ月後、「POPEYE」という雑誌が本屋に並んだ。

ある日、銀座の店に男が訪ねてきた。ぼくの作るネームバッジが気に入った と語るこの男は広告代理店の人間で、近く新宿伊勢丹会館で行なうチャリティ・ イベントに出店してくれないかと言った。品物はネームバッジのみで1個1円で売 り、ギャラは1日5万円だった。ぼくは即座にOKしたが、ぼくひとりでは作る数に 限度があったので、隣りのベラさんも同じ条件でと、誘った。ベラさんは、長身でガリガリにやせ、髪を腰まで伸ばした、まるでヨガの行者の風貌であった。普段、仲良くはしていたものの、商売敵という意識もあったので、積極的に話すことはなかった。しかし、これを機会に腹を割って話せるようになっていった。そして、ふたりで共同路上アクセサリー業をやるまで、時間はかからなかった。 ベラさんが作り、ぼくが売り子で、売上げを半々にした。  

この頃、住み家は六本木から下北沢に移っていた。 家路を急いでいたある夜、ふたりの若い警官に呼び止められた。空き巣が頻発していた時期で、不審尋問というやつだ。「カバンの中を見せろ」と言う。「勝手に見れば」とぼく。警官や刑事が自ら人のカバンを開け、中から物を取り出してはいけないことを知っていたからだ。

だが、なめてかかったのがいけなかった。この後、映画のような悪夢の世界がぼくを待ち受けていた。

この頃、皮細工の商品も売っていたのだが、カバンは自作のものであった。 「早く、見せなさい」ということで、中から物を取り出した。 まず、出したのが、ネームバッジ用のラジオペンチと針金だった。それとペンチの先やバッジのピンを作るために削る鉄製の大きな棒ヤスリ2本。「何に使うんだ?」と疑いの眼差し。ぼくは商売の話と道具をどのように使うかを説明した。次に取り出したのが、ぼくの貯金通帳とベラさんに渡す売上げの半金約20万円。通帳には、2,3日毎に売上げを入金していたから、どんどんとお金が貯まっていく様が見てとれた。そして、この20万円は共同でやっている男に渡すものだと話した。しかし、ぼくは池袋に住むベラさんの家には、2,3回しか行ったことがなく、しかも電話がなかった。だから、連絡の取りようがなく、彼に金を渡すのは、月に3,4度銀座の店に新しい商品をもってぶらりと来る彼を待つしかなかった。こんな話、誰にも信じてもらえないだろうけれども、本当のことだった。 「共同で商売をやっている人間と連絡が取れない?」とますます空き巣犯人モー ドにはまっていく。次に出したのが、アクセサリーやパーツをしまう透明なビニール袋の束と針金を拭く脱脂綿。「おっ、お前、シンナーやるのか?」ときた。

とうとう、ぼくは上北沢署に連れていかれた。  何度も何度も同じ質問と返事の繰り返しだった。ぼくは両親に迷惑をかけたくなかったので、親はもういないと嘘をついた。自分の住み家も知られたくないので、ごまかした。夜中を過ぎると、何人もの暇な警察官たちが何だ、どうしたと珍しがって見に来た。

話はシンナーや大麻から拡大し、シャブや麻薬の話になった。実はこの上北沢署は、1,2週間前、アメリカ人女性が麻薬所持の疑いで全裸にされたと、抗議か 訴訟を起こしたと新聞で知っていた。ぼくはまさかそんなことはないだろうと思っていたところ、「服を脱げ、(注 射)針の痕を見るから」。また、物珍しそうに関係のない警官がゾロゾロとやってきた。「これは何だ」「ホクロじゃないですか」…腕や指、足、舌などを隈無くチェックした。

ぼくは最後のパンツを脱いだ。6人の警官たちの目はぼくの粗チンに集中した。全員ギョッとしたり、ビックリして後ずさりをした。粗チンに何をビックリすることがあるんだと自分で見た。ワオォー、ぼくもビックリして後ずさりした。何だ、これは。 あそこが真緑色なのだ。

この時、ぼくは同棲していた。眠っている間に、女がマジックインクで塗ったものだった。警官たちは危ない病気だと勘違いし、ザワザワし始めた。結局、病気でも空き巣でもないことがわかり、身元がわかれば釈放するという ことになった。朝を待ち、実家に電話して、母に間違いのないことを話しても らった。署を出て帰途につく朝靄の中、かつて味わったことのない屈辱に涙が出てきた。ぼくにとって一生忘れない出来事であった。

 

ある夜、ふたりの外人がやってきて、ネームバッジを注文した。ぼくはこの時、彼らが何者であるか知らなかった。名前を聞いた。ひとりは“フレディ・ マーキュリィー”と名乗り、もうひとりは“ロジャー・テイラー”と名乗った。ぼ くは、長い文字のフレディをベラさんに頼み、ロジャーを作ることにした。通常は、間違えのないよう、紙にスペルを書いてもらうのだが、“ロジャー・テイラー”は問題ないだろうとすぐに作り始めた。というのも、晴海通りを隔てた店の正面、近鉄ビルの右横に“TAILOR××”と洋服屋の大きな看板ネオンが見えていた ので、安心しきっていたのだ。

ぼくの作ったネームバッジを見て、ふたりは腹を抱え、大笑いした。 結局、作り替えたものとふたつ上げたが、翌日からロックグループ“クイーン”のグルー ピーたちが次々とやってくるようになった。フレディーとロジャーのバッジを作った人に会いにきたのだ。そして、彼女たちは同じバッジを注文し、それから時々友達を連れては遊びにくるようになった。

昭和53年に入ると、銀座の街は第二次オイルショックのため、夜、街灯の明かりが全て消えた。そんな冬の夜の寒い闇の中、銀座の店で商売をしていたぼくは、一体いつまでこんなことをしなければならないのか、年をとってもやってられるのか…、どうしようもない不安に駆られた。このままではいけない、と思った。

そして、こんなやくざな商売、もうやめよう、と思った。


続く

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私家版「記憶の残像」⑦~「ハードボイルド・ハネムーン」

この頃、ぼくらが毎日のように通っていた飲み屋が、新宿歌舞伎町裏手にあった。ゴールデン街のようなこじんまりとしたたたずまいと違い、地下1階に降りると、50畳くらいのだだっ広いスペースに、黒の内装や赤い絨毯、豪勢なシャンデリア、テーブルとクッションのきいたソファーなど、前のキャバレーそのままの状態になっていた。その店の名は、“ゴールデンゲイト”(歌舞伎町二丁目のキャバレーやクラブが入ったビルが乱立する中、映画演劇音楽芸術関係の文化人や若者たちが出入りしていた伝説の店。夜7時くらいから始ま り、朝の10時くらいまで飲んでいたこともあった。おみっちゃんは、そんな馬鹿でわがままな若者の行為を黙って許してくれた)といい、今では伝説のお店となった。

いつもジーパンをはいていたママの名は“おみっちゃん”、年齢不祥の気さくな女性で、新宿3大ママのひとりと言われていた。店内では、和製のロックやポップス、フォークが流れ、ぼくらはホワイト(ウイ スキー)を1本入れては、何時間もここで盛り上がっていた。あまりにも大きなお店なので、出入りは自由で、ラーメンを食べに出ては、また戻って酒を飲んでいた。ここで朝の5時6時まで飲んでは学校に出向いたり、家に帰るのが日常だった。新宿の駅に向かう途中、通勤する大勢のサラリーマンたちとすれちがった。退学してからも、毎日のように入り浸っていたぼくは、彼らのその姿を眺めながら、将来サラリーマンにはなれないな、とふと思った。

ここでいろいろな人達に出会い、遊んだ。奥にあるカウンターの中で店の人が酒やつまみを作っていたが、その前に踊り場があり、ここでみんなは興に乗るとゴーゴーを踊った。  ある時、大勢の人が踊り始めた。ぼくは知り合いの女の子に、泥酔状態の三上寛(藤圭子(宇多田ひかるの母)の大ヒット曲「夢は夜ひらく」を自らアレンジした曲は、精液をカルピスに例えたセンセーショナルなもので、これで有名になったフォーク歌手。フォークといえば、さわやかなイメージがあるが、彼の歌はこぶ しをきかせた演歌に近く、その怨念のこもった三上ワールドはかなり恐く、切な く、救いがなかった)と一緒に踊って一枚一枚服を脱がせ、と頼んだ。おみっちゃんには、彼がパンツを脱いだら、チークの曲をかけてくれ、と頼んだ。女は、上着、ズボンと次々に脱がせていった。最後に白いブリーフを脱がせた。これまでの激しい曲から、静かな静かな曲に変わった。踊っていたみんなは席に戻っていく。踊り場には、頭に白いブリーフを被ったすっぽんぽんの三上寛ただひとりが残されていた。三上寛はここの常連で、たまにギターの弾き語りを聞かせてくれた。彼は、物真似も巧く、寺山修司は特に有名だったが、最高の物真似を披露してくれたことがあった。それは、だれも見たこともない、聞いたこともない人物の物真似であった。出身である青森の高校の近くにいた駐在さん(交番にいる警察官)の、海岸に打ち上げられた水死体の調査報告という演題だった。とつとつと津軽弁で報告するその姿は、だれの目にも浮かぶほど絶品であった。

隣の席で、男と女が喧嘩していた。男はもう帰ろうと言うのだが、女はまだ帰りたくないらしい。ぼくらのひとりが、「帰りたいなら、さっさと帰れよ」と男に言った。喧嘩寸前にまでなったが、男はひとりで去っていった。残された女は、春子といい、仙台から家出をしてきた。ぼくらは春子とその後もよく新宿で飲み歩いた。
そのひとつにゴールデン街の“C”というお店があり、姐さん女房のママとマスターのふたりでやっていた。しばらくすると、春子とそのマスターが駆け落ちした。何年か後、マスターは帰ってきたが、ママとよりを戻すことはなかったと、だれかに聞いた。そして、いつしか“C”はなくなった。

さらに数年後、大阪からひとりの男が、ぼくたちグループ・ポジポジに会いたい、と上京してきた。大阪芸術大学を卒業したばかりの、その男は「巨人の星」 の左門を角刈りにしたような巨漢であった。男はぼくたちの映画を見て、是非一 緒にやりたい、そのために当てのない東京にやって来たのだ、と語った。
しかし、この時、ぼくたちには、映画を撮る余裕も企画もなかった。とりあえず、時期を待ってくれ、と男に頼んだ。
彼は、すぐさま新宿のストリップ劇場“モダンアート”( 新宿二丁目、現在の牛丼の神戸らんぷ亭の地下にあったストリップ劇場。ジョー ジ川上は、ここで土曜の夜に自主映画上映や前衛演劇などを催し、その企画等において、有名になる前身を築いていた)に住み込みで、切符切り兼呼び込み兼照明係兼アナウンス係、つまり何でも屋で働いた。彼は、のちに“ジョージ川上”と名乗り、仕掛け人として、“ストリップ界のつかこうへい” の異名をとり、マスコミを騒がすまでになるのだが、この時、ぼくと後藤は、劇場入口に彼を呼び出しては、ただで中に入っていた。

いつものように、ただでストリップを見ていたぼくは、自分の目を疑った。踊り子として登場してきた春子の姿に愕然とした。こんなところで再会するとは…、心は狼狽えて、目を会わすこともできず、下を向き、眠ったふりをしながら、昔のことを思い出していた。

“おみっちゃん”はある時、店を人にまかせ、貯金80万円をもって、単身スペインに行った。向こうでは何もせず、のんびりと暮らし、1年後、貯金を余らせて、日本に戻ってきた。暖かいところはいい、住むなら物価の安いところに限る、など目を輝かせて話す“おみっちゃん”はとても若く見えた。
そして、それから数年後、今度は店を閉め、また単身ブラジルでの永住を決意して、去っていった。
日本を去って2年後、彼女の記事が週刊ポストに載った。旧友である黒木和雄監督や原田芳雄たちが、彼女の経営するサンパウロ郊外の飲み屋で再会するものだった。彼女の元気な姿が載っていた。その後、若い旦那さんをもらい、大きな牧場を経営していると、人の話に聞いた。

この頃のことを思い出すと、必ず一緒についてくる映画があった。
いつものように、新宿で飲んだくれて朝帰ったぼくは、午後2時頃、目を覚まし、テレビを付けた。不思議なことに、土曜のこんな時間に映画が始まろうとしていた。題名は『バング・ザ・ドラム』(73年、アメリカ映画。監督ジョン・ハンコック。チーム監督役のビンセント・ガーディニアは、オスカー助演男優賞にノミネートされた)といった。
何の気なしに見ていたら、何ととっても若いロバート・デ・ニーロが出てきた。メジャー・リーグのピッチャーとキャッチャーとの友情物語で、白血病に冒されたキャッチャーをデ・ニーロが演じていた、淡々とした胸に染みる素晴らしい映画であった。内容は大分忘れてしまったが、見終わった後、涙が止まらなかったことだけはよく覚えている。昭和48年のTBSで放映されて以来、2度と見れないでいる作品である。

大学3年の頃、ぼくは、原宿・青山通りに面した高級スーパーマーケット“青山ユアーズ”(深夜営業は24時間ではなく、午前3時終了であったが、この頃多くの人が来店するため、実際の店終いは4,5時にまでなっていた)で夜、アルバイトをした。

“青山ユアーズ”は、24時間コンビニの元祖であり、当時日本でただ一軒の深夜営業のスーパーとして、東京ではかなり知れ渡っていた。以前、高校2年の時、 銀座のクラブが終わった後、高橋秀太の車で、店の女の子たちと一緒に買い出しに行ったことがあった。東京の人々は、夜中に、何かパーティのようなことをする時は、車に乗って、ここまで買い出しに出かけていた。
“青山ユアーズ”は、チャイニーズ・シアターを真似て通りに面した壁や通路に、芸能人たちの手形が貼られていて、道行く人たちは、自分の手を合わせたりしていた。1階が食料品と雑貨、2階が洋服の売り場になっていて、その品揃えは豊富だったが、価格が高めだった。 しかし、ここでしか買えない珍しい輸入品や果物が沢山あった。1階入り口には、コーヒーやハンバーガー、ホットドッグ、アイスクリーム、ケーキを売る5つくらいのスタンド付きのカウンターになっていた。アメリカ人たちはこうした形式に慣れていたようで、ママの買い物を待つガキたちがアイスクリームを舐めながらよくたむろしていた。
白のワイシャツとネクタイ、ズボンは自由で、足首まである黒の長いエプロンが支給され、それを着用したが、当時としては、かなりファッショナブルな制服であった。
最初の仕事は、食品の運搬と店頭商品の整理整頓だった。

ぼくはここで、いろいろ珍しい物を見たり、知ることになるが、その最高の品物は、高さ20センチ、直径15センチくらいの大きな缶詰であった。オーストラリ アから輸入したダチョウの卵の缶詰であった。パッケージには、大きな卵と小さなダチョウの絵が書かれてあったので、何かはすぐわかるのだが、だれがどのようにして食べるのか、しかも値段が1缶6千円もしたのだ。ぼくが働いた1年の間で、2個あった内の1個が売れていった。ぼくは、従業員みんなに、この缶詰を買った人は、どんな人だったのかを知らせてくれるよう頼んでいたが、それは不明に終わった。
ある時、中尊寺の住職で、作家の“エロ坊主”今東光が、若い女性2名に支えられながら、ぼくに、「シリなんとか」という食べ物を探してくれ、と言ってきた。どんな食べ物なのかを詳しく聞くが、心当たりがなかった。チーフに聞く と、これじゃないか、と持ってきたのは、輸入物のコーンフレークスであった。 「そうそう、これこれ」と言って喜んで買っていったが、当時、日本では、まだ コーンフレークスは普及していなく、ましてや「シリアル」と呼ばれるまでには、さらに時間がかかった。ユアーズはこんなものも置いてあった。
ユアーズの店内は、いつもパンパンパンパンというはじける音でうるさかった。これは、レジの後ろで袋詰めする店員のパフォーマンスが発する音であった。当時はまだ茶色の紙袋で、緑のユアーズのロゴが印刷されていて、この紙袋の片端を持ち、上に向けて勢いよく、ふりあげ、一気に下に引くと、パーンという威勢のよい音が出るのだ。袋詰めの店員は、皆が皆、これを行なっていたのだ。
万引きも多かった。きれいなモデルが化粧品を万引きしているのを見た時、ぼくの胸はドキドキしていた。ユアーズは、2階にモニター監視室があり、その防止対策を行なっていたが、ぼくら商品整理の担当は、万引き防止対策の一環として、ちょっと変わったやり方を指導された。ある程度、コーナーの整理が済むと、今度はおおまかに全体を見回り、おおまかな整頓をちょこちょこやり、再び次のコーナーの細かい整理をしていくものだった。つまり、しょっちゅう店員が、店内を見回っているように、見せるのだ。これは、万引きを捕まえるのではなく、万引きをさせないということだった。
夜中を過ぎると、いつも警察がやってきた。10台くらいの小さな駐車場に入れない車が、青山通りに何層にも連なり、渋滞が起こってしまうからだ。暴走族“ ブラックエンペラー”が来店すると、もう大変。警察と小競り合いがいつも起こっていた。

ここで、ぼくは、ひとりの男と知り合った。ぼくらの仕事のチーフをしていたこの男は、東映の大部屋俳優で、仕事がない時にユアーズで働いていたが、ほとんど毎日ユアーズにいた。高倉健さんの話をよくしてくれた。みんなから“サブちゃん”と呼ばれていたこの男の名は、石倉三郎といった。
ユアーズは、深夜の芸能人の逢い引きの場所でもあった。よく買い物デートをしていたのは、のちに結婚したショーケン(萩原健一)とモデルの小泉一三。堺正章や井上順とモデルたち。坂本九と柏木由紀子……。
石倉さんは、坂本九と柏木由紀子が来店すると必ず後ろについて、買い物の手伝いをしたり、おもしろい話を聞かせて、二人を楽しませていた。こんなことがあり、石倉さんは、のちに坂本九のステージの専属司会者として、引き抜かれて いった。
次に彼を見たのは、テレビのお笑い番組で、“コント・レオナルド”として、レオナルド熊の相方をやっていた。

松田政男からの雑誌「映画批評」の継続を断念した後藤和夫は、聖徳太子マークの天草運送で運転手として、引っ越し稼業に専念していた。その間、考えていた次回作のプランをぼくに話した。かなり観念的なことを聞かされたが、これまでとは違い、ストーリー性を持った、しかも大掛かりになりそうな気配であった。昇や岩城とも相談をし、製作プランを練った。シナリオを作っていく中で、 カンパ回りをしよう、ポスターやパンフレットを作ろう、広告費をとろう、有名人を使おう、カラーで撮ろうなど、これまでにはない新しい試みのアイデアが生まれた。  一丁の拳銃を手にしたことから、ハードボイルドの世界に魅せられる若きギャ ングたちの物語。
その映画の題名は『ハードボイルド・ハネムーン』といった。

昭和49年、ぼく たちは新しい映画『ハードボイルドハネムーン』の準備にとりかかった。この映画は、これまでやったことのない新しいアイディアが盛り沢山であった。
まず、16mm映画ながら、全編カラー作品にしようと張り切っていた。それも洋画っぽい原色がきれいに表現できるイーストマンコダックのフィルムにすることにした。おそらく自主制作映画では初の試みだった。
分担してシノプシスを持ち、カンパに出かけた。映画監督、映画関係者、映画配給会社、その他映画関連の協会や団体、映画人…ありとあらゆる人々に会いに出かけて行った。もちろん、時間もなかったので、アポなし、飛び入りで、だ。
ある日、ぼくと後藤は、表参道に面した場所に事務所を構えていた高倉健事務所を訪ねた。健さんは不在だったが、東映の脇役たちが大勢いた。みんな黒服であった。応対してくれたのは、ぼくの大好きな俳優、山本麟一だった。人気TVドラマ「前略おふくろ様」で、バスの運転手として1回登場し、ショーケンが運転中の山本の耳元で囁くシーンがあった。山本は、あの恐い顔で、「やめてよ。(耳は)感じるんだから」。最高に可笑しかった。彼のことを書いた本(倉本聡の本だったか、題名は忘れた)の中で、山本が語る目ヤニと性欲についてのエピソードもおもしろかった。そんな大好きな山本であったが、たかが若造に対しての応対は素っ気なかった。 多くの人々を訪ねたが、カンパは惨敗であった。協力してくれるだろうと思われていた人々もカンパする余裕がどうもなかったようだ。
そして、これでカンパは終了しようと、ダメ元で最後に行ったシナリオ作家協会では、新藤兼人監督が話を聞いてくれた。そして「頑張りなさい」と財布から 1万円をカンパしてくれた。うれしかった。
スタッフは、監督・脚本後藤和夫、製作岩城信行、撮影篠田昇・堀越一哉、録音サブロー、記録後藤妙子、美術・スチールには、岩城の友人橋戸が加わった。 出演は、後藤を中心にした若きギャングたちをぼくたちが。“ヘッケル&ジャッケル”のような老練ギャング役には、まず髭もじゃの詩人奥成達(是非ネット検索してください)が引き受けてくれた。次にその相棒に、当時フジオ・プロ(赤塚不二夫)の番頭役だった長谷邦夫が決定。この奥成さんの人脈は、いろいろな意味でぼくたちを助けてく れた。
音楽は、ハードボイルドな気分のオリジナルのジャズでいこうということになった。奥成さんの紹介で、当時新宿戸山ハイツに住んでいた中村誠一(サックス演奏の第一人者。山下洋輔トリオを経て、中村誠一カルテッ トを結成。いつも甲高い声で「いいとも~」と言っていたのが口癖で、後にタモ リが「笑っていいとも」の番組名に使用したことは有名)に後藤が交渉に行った。「いいとも~」と言ったかどうかはわからないが、快く引き受けてくれた。
さらに、奥成さんは、銀座にあったデザイン事務所TBデザインを紹介してくれ、そこでは、余っている紙があるからといって、タダでパンフレットのデザインから印刷までやってもらえることになった。
ポスターを作ろうということになった。ぼくは「まんがNO.1」で知っていた、「ぴあ」の表紙を描いている及川正通に頼みに行った。小田急線の中央林間に住んでいた及川さんを訪ねた。当時及川さんの家は広い木造平屋の米軍ハウスであった。玄関先の新聞入れからして、大きな銀色の半円筒型の、完全なアメリ カン・スタイルだった。
予算がないので、ギャラはなし。紙はB全の黄緑色の上質紙に、オレンジ特色1色刷りにし、蛍光感を出す話に、及川さんは快くOKをくれた。そして、タダの代わりの条件として「自分でも刷ってみたいので、原版をくれないか」と聞いてきた。ぼくは、そんなことぐらいはもちろん、と答えた。映画の話から、及川さんの大好きなカリフォルニア・サウンドの話で何時間も過ぎていった。
ぼくは、この時、及川さんが自ら「オー・マン・ゴー」というバンドを率いて、演奏活動していることを始めて聞かされた。レコードにもなっており、東京に戻ると即購入した。「大分遅くなったから、夕飯でも食べていきなさい」と奥さんの作ったカレーライスが出てきた。「質素だな」と内心思いながら食べたカレーは、子供用になのか辛くなく、かといって甘みが強いわけでもなく、絶妙な味わいがあった。とてつもなくうまかった。ひき肉中心の野菜カレーとでもいうこのカレーは、以降30年も経った現在も、ぼくの定番料理のひとつになっている。
映画が完成間近になってからのことではあるが、及川さんのポスターの試し刷りができた。この時、下の部分に、公開日時と場所を入れよう、ということになった。その両脇に広告スペースをとり、広告を入れようと岩城が提案した。どこでもいいよね、ということで、岩城が青山通りに面した靴屋と美容院から、各5万円をとってきた。
そして、重要な位置を占めるナレーションは、『東京戦争戦後秘話』で顔見知りになった佐藤慶に依頼した。録音スタジオを借りる金がないため、西荻窪の後藤の自宅で、回りの音を拾わないよう、夜中の1時から朝5時頃までに録音をする条件にも関わらず、家が近かったせいもあるが、これも快く引き受けてくれた。
そして、撮影は8月から、西荻窪、横田基地周辺、府中、国立、中野、東大、世田谷赤堤、三郷、熱川、千葉……と約2ヵ月に及んだ。

『ハードボイルド・ハネムー ン』の撮影は、西荻窪の後藤夫婦のマンションから始まった。殺されたイサオの恋人だった妙子と主人公後藤との住み家という設定だった。
当時の西荻窪は、南口駅前には菅原文太の奥さんが経営する喫茶店、ガード下には高級フレンチのこけし屋、路地裏には安くてうまいキッチンなどが立ち並ぶ 商店街と、そこを少しはずれると閑静な住宅街とくっきりと区分けされていた。
その境目あたりには、3本立てのさびれたピンク映画館があった。

ぼくらの演じる若きギャングたちの乗る車は、後藤のボロナと昇のスバル360で十分だったが、奥成達さんと長谷邦夫さん扮する老練ギャングたちの車は、そうはいかなかった。ぼくと同じく高級スーパーマーケット“青山ユアーズ”でバイ トしていた岩城が、何かと面倒を見てくれたチーフ・マネージャーの佐藤さんに相談をした。奥さんの所有していた真っ赤なアルファ・ロメオ1750の新車を無償で貸してくれることになった。だが、このアルファ・ロメオは車高が極端に低いため、舗装されていない道では、腹を思いっきり擦ってしまい、かなり心臓によ くなかった。
若きギャングたちの拠点は中野の昇のアパート、イサオの住み家は入間の米軍ハウス、銃弾一発で勝負を決めた世田谷の土手、逃亡先の熱川の別荘、幻想のラストシーンは渋谷のNHKと、撮影はおよそ2ヵ月に渡った。

中村誠一のサウンドトラック収録は、大学の録音スタジオを使用した。当日、10数名のメンバーを連れてきた中村さんは、ぼくたちスタッフにリハ(ーサル)はないから、すぐに録音してくれ、と指示を出した。音合わせが済むと即テーマ 曲が演奏された。ドラムから始まり、軽快で美しいメロディーが流れた。ぼくたちは大満足であった。

後藤のマンションにて、夜中、佐藤慶さんのナレーション録りを行なった。外の音を拾わないように目張りした部屋に慶さんを入れ、お互い顔の見えない状態での録音が開始された。始めのナレーションは、劇途中に使用する「ハードボイ ルド・ハネムーン」という一言から開始することになった。緊張していたぼくたちをときほぐすかのように、慶さんの第一声は「ハードボイルドだど」という内藤陳のギャグだった。
こうして、好意的な人々の協力を得て、約100万円足らずの資金でオールカ ラー90分の作品が出来上がっていった。

この頃、グループポジポジの面々は、吉祥寺は五日市街道近くにあった“なまず屋”によく通っていた。“なまず屋”は∟字のカウンターだけの小さなブルースの店で、プロやセミプロの演奏者がよく来ていた。高田渡もよく見かけた。
ある時、西荻窪の後藤の家に友人が○ッ○をもってきた。みんなでハイになった状態で、なまず屋へ行こうということになり、ボロナに6人が乗り込んだ。普通、なまず屋まで7,8分で着くところが、この時は何と1時間もかかっていた。なまず屋の前で、何でだろう、とまた皆の大笑いが始まった。多分、時速5キロかそこらで五日市街道を走ってきたのだ。
当時の吉祥寺は、ライブハウスのメッカであった。ウエストロード、ハーヴ妹尾、レイジー・キムなんか、よく聞きに行った。

相変わらず、新宿でも飲んでいた。花園神社のすぐ横に居酒屋“もっさん”という店があった。ゴールデン街にあった同じ名前の店の2号店で、カウンターの中にいた篤ちゃんという若者が仕切っていた。その篤ちゃんが「堀越さん、今度自分で店、出そうと思っているんですよ」と話しかけてきた。「すごいじゃない」 とぼく。が、困ったことが起きているという。"もっさん"で働く若者たちが篤ちゃんの店で働きたいと言っているのだ。それを経営者と相談しなければならな いのだという。“もっさん”の経営者は、ゴールデン街の先達的存在であることは知っていたから、どうなるのか少し心配ではあった。
が、しばらくして、篤ちゃんは少し離れた新宿三丁目に、“池林房”という店を出した。今では、“浪漫房”“陶玄房”“犀門”などのオーナー太田篤哉として、新宿の有名人となっている。
撮影中に、奥成さんや長谷さんに連れていってもらったのが、歌舞伎町コマ劇場裏の路地にあったスナック“ジャックと豆の木”だった。ここは、奥成さん、長谷さんの他、山下洋輔、高信太郎、岡崎英生、上村一夫、三上寛、坂田明らが集う、通称“遊び人”たちの溜まり場だった。
A子さんというママがいて、毎夜おもしろい遊びに興じていた。
この頃だったと思ったが、博多からとんでもなく、おもしろい男がやってきて、みんなを笑わしていた。デビュー前のタモリがよくここに来ていたのだ。
この2軒並びにカウンターだけのラーメン屋があった。客がいなくなると中の3人の店員もいなくなるという不思議なラーメン屋だった。常連客はその理由を 知っているから、店員がいなくても、大声で「ラーメンひとつね」と中に向かって声をかける。「はい」と返事がし、店員がすくっと立ち上がり、仕事にとりかかる。
客がいなくなると、店員みんな、しゃがんで、シンナーをやっていた、とんでもないラーメン屋だったのだ。

昭和49年、完成した映画『ハードボイルド・ハネムーン』は、新宿の安田生命ホールを皮切りに、都内各地や大阪で自主上映をした。ぼくたちグループ・ポ ジポジの面々は、特にぼくと後藤は、これを機に自主制作と自主上映で生計を立てて行こうと甘い野心で燃えていた。
映画『ハードボイルド・ハネムーン』のラスト・シーン。若きギャングたちの勇ましい姿がコンクリートの壁にくっきりと影で映るストップモーションの映像に、佐藤慶のナレーションがかぶさる。
《だが、こうした卑しい街を一人の男が歩いていかねばならない。物語はこの男が隠された真実を探索する冒険譚だが、それは冒険にふさわしい男の身に起こるのでなければ、冒険とは言えないであろう。 彼のような男が大勢いれば、この世はきわめて安全で、しかも生きがいがなくなるほど退屈でもないといった、そんな世界になることであろう》

まさに、この映画のメッセージを地で行こうと考えていた。

この頃、自主制作映画といえば、地域に密着した地味なドキュメンタリーか、非常に難解な思想や観念的な私的映画であった。
ところが、ぼくたちの映画だけでなく、東京では、「カレンダー・レクイエム  黄色い銃声」(伴睦人監督)、「バイバイ・ラブ」(藤沢勇夫監督)、“あのねのね”の「冒険者たち」(臼井高瀬監督)、「御巫(みかむなぎ)の頭のスー プ」(小林竜雄監督)などが、大阪では「暗くなるまで待てない!」(大森一樹監督)が、この頃ほぼ同時期に出現した。これらはプロの俳優やオリジナル音楽を使用したり、長編カラー作品であったり、ギャングやおかまの美女が登場したり、ストーリーのわかりやすい、よりエンターテイメント性を持った映画という ことで、“新人たちによる新しい映画の流れ”として多くのマスコミに取り上げられた。
とりわけ、エンターテイメント性の高かった藤沢勇夫監督の『バイバイ・ラブ』と『ハードボイルド・ハネムーン』は、対で各新聞や雑誌で紹介されることが多かった。

自主制作・上映で食っていこうとしたぼくは、両親の了解を取って家を出た。 事務所兼住み家として借りたのは、六本木ロア・ビル向かいにある墓場の坂下角に位置した、2階建ての蔦が絡まる木造の白い建物だった。1階2階それぞれ2世帯ずつ、そこの1階の左側の部屋を借りた。
もともとここは、奥成達さんや西脇英夫、及川正通、横尾忠則らが共同事務所にしていた所で、最後に残った奥成さんが引き払うので、ぼくに借りないか、と切り出した話に乗ったのであった。引き続き借りるので、敷金や礼金はいらなかった。6畳と4畳半で風呂付き、月4万円くらいだったので、即借りることにした。住んでみるとこれがとんでもない所であった。
住み始めてすぐトラブルが発生した。
奥成さんが、ぼくの他にも又貸し交渉をしていたのだ。ここを借りる約束を奥成さんと交わしたという男が現れた。ぼくは、奥成さんに電話をしたが、「そう いうことだから、堀越くん、よく話合ってね」とつれない返事。ぼくはこのアクセサリーを商う会社の社長と話し合うことになった。ぼくは夜のプライベートな時間を気にしたが、彼らは住むつもりはなく工場兼事務所として使うのでということで、4畳半を貸すことにした。家賃は折半にしてもらった。
入り口(玄関)は、ぼくが住む6畳にあった。暇だったぼくは、10時11時まで寝ていたが、彼らは朝の9時に来て仕事を開始した。夜は夜で、彼らのひとり、松田という若者が、酔っ払っては夜中の2時3時に4畳半に泊りにくる。話が違う じゃねえか、とぼくは社長に掛け合った。松田はしばらくは来なくなったが、また酔っ払いながら「ごめんね」と来るようになっていった。
こうした悪条件に加えて、住み心地も最悪であった。寝ていると、屋根裏や台所の下から、ゴトゴトと音がする。ねずみである。しかも大量である。そして、昼間は風を通しているせいか、気付かなかったが、異常なる湿気なのだ。夜、その湿気のせいで寝つけないこともしばしばだった。 家賃を納めにいく近所の不動産屋に聞いて、その理由がわかった。この家の真下に大きな下水道が流れていたのだった。そう言えば、臭くもあるなぁ、と今更な がら思い出した。
夜、テレビを見ているとドアをドンドンと叩く音がする。開けると、若い白人の女が立っている。「なーに?」と聞くと、「トイレ、貸してください」と平然と言った。この時、貸してやったのが大間違いだった。それから、毎晩のように、いろいろな白人たちがドアもたたかず、ぼくの家のトイレを借りにくるようになってしまった。

続く

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私家版「記憶の残像」⑥~大学時代と自主制作映画「合言葉」

グループポジポジの『天地衰弱説第二章』(16mm映画白黒)は、各地から上映の引き合いがあった。前作8mmの『天地衰弱説』とのカップリングでの要請だった。仙台には福田が、大阪には後藤と磯貝がそれぞれフィルム・ロールを抱えて出向いていった。特に大阪では自主映画を数多く集めたプログラムに組まれ、三越劇場で何日か連続で上映した。
その頃、自主映画というものは大変珍しく、また上映する場所も設備のある公民館などでその数はかなり限られていた。が、独立プロの記録映画や作品などと合わせて、それを精力的に上映する映研等のグループが地方都市を中心に多くあった。そういった若者たちに呼ばれ、シンポジウムのようなものも上映と合わせて開かれていた。
ただ、この大阪上映が、後にとんでもない人物を上京させることになった。

秋に入ると、グループポジポジの面々は、相変わらず会うには会っていたが、次の映画を撮る話もなく、みんな将来のこと、大学に進むことを意識し始めていた。ぼく自身も代々木ゼミナールに入り、時々授業を受け、試験に臨んだ。が、3年時に習うはずであった科目は全くわからず、その成績は惨憺たるものだった。
この代々木ゼミナールで、尊敬する独文学者・高橋義孝の講演があり、聞きにいった。「能」の話だった。その中で、目に見えるものと耳に聞こえるものとの時間差(つまり光と音の時間差)の表現の話があった。見世物として、本物らしく見せるには、人間が飛び上がって落ちた時に、ドンという音が同時に聞こえるのではなく、間があってドンと音がするのが、自然であり、これが能にも活かされているというような話だった。

昭和46年3月、福岡はICUに、福田は早稲田の政経に、磯貝は北大に、橋本は成城大(翌年都立大へ編入)へとそれぞれは散っていき、後藤は大学には進まなかった。
ぼくは、日大芸術学部映画学科に入学した。迷わず撮影録音コースを選択した。
自分の学力では、国立も私立のいい大学も無理だと悟ったせいもあったが、好きな撮影の勉強もいいかな、と思ったからだ。ここでは、撮影機材も豊富だし、施設も整っていたから、今後の自分たちの映画製作に何かと利用できるかもしれないという目論みもあった。
入学手続の時、寄付金というものがあった。一口15万円。裕福ではない我が家の父は何口くらいが妥当なのか、と聞いたが、ぼくは、もう入学したのだから、払う必要はない、と突っぱねた。
入学式には出られなかった。前の晩に飲んだ酒のせいで、行く途中、西武池袋線の駅で気持ち悪くなり、吐いてしまい、駅長室で寝ていたからだ。
何になりたいのかもわからず、このままこの大学へ進んでもいいのだろうかという精神的曖昧な苦悩と大したことではないくせに酒に侵されていく肉体の衰えの不安を大げさに交えて、この入学式に出られなかった様子を、“文学”の授業で書いたら、先生に呼ばれ、ほめられた。ただ、タイトルが文章と合っていないと注意された。そのタイトルは「わたしは老人」だった。
ぼくは作文の感想批評を受けたのは、多分小学校以来のことなので、新鮮に感じ、文を書くのもなかなかおもしろいものだ、とこの時思った。

撮影録音コースの授業は思っていた以上に楽しかった。
当時学長であった登川直樹の映画鑑賞後に感想を書く授業、ここで、かの傑作の声名高い『ラ・ジュテ』(62年、フランス。監督:クリス・マルケル。第三次世界大戦後のパリの地下にて、 人類存続の実験台にされた男の記憶が織りなす、全編静止画で構成されたSF映画 の傑作)や実験的映像技法を試みたソビエト大作 『戦争と平和』(66年、ソ連。監督:セルゲイ・ボンダルチュク。国を挙げての文芸大作ながら、らせん状に移動するクレーン撮影など、大掛かりな実験的撮影がすごい)、ジュリアン・ディビビエ監督の名作『舞踏会の手帖』(37年、フランス。監督:ジュリアン・ディビビエ。未亡人となったヒロインが、かつて華やかだった社交界の頃の手帖を見つけ、踊った男たちを訪ねて行く)、エイゼンシュテインの野心作『アレクサンドル・ネフスキー』(38年、ソ連。監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン。13世紀、他国の侵攻からロシアを守るため、勇猛果敢に戦った将軍の話。戦闘シーンを盛り上げるなどの映像と音楽の相関関係を実践した歴史的映画。湖の氷上を馬で横切るシーンで、 絶対に転ぶなと思っていたら、すってんころりんと転んだ。が、それを見せるとは、さすがエイゼンシュテイン)、ジャン・コクトーの幻想映像『美女と野獣』(46年、フランス。監督:ジャン・コクトー。ボーモンの童話をアレンジした幻想絵巻。主演のジャン・マレー日本初登場の映画)、そして、邦画では、阪東妻三郎唯一の現代ホーム・ドラマ『破れ太鼓』(49年。監督:木下恵介。成金土建屋で頑固親父とその家族とのやりとりをユーモアたっぷりに描いた喜劇。とにかく阪妻の演技はすごい)、同じく阪妻の『王将』(48年。監督:伊藤大輔。将棋の異端児、坂田三吉の半生を描いた人情喜劇。縁台将棋をしていた坂田が、関根七段との詰め方を閃いて、「わかった!」と叫び、立ち上がると、相手の男は縁台と将棋盤と駒ごと、ひっくりかえるシーンは大いに笑えた)、三船敏郎の『無法松の一生』(58年。監督:稲垣浩。北九州小倉を舞台に、喧嘩っ早い人力車夫の生涯を描いた傑作。稲垣浩は、戦前阪妻主演でも監督している)、『羅生門』(50年。監督:黒澤明。芥川龍之介の「薮の中」を原作にした、監督の名を世界に知らしめた名作)など古典的な名作が毎週楽しめた。
元カメラマンの撮影体験談、かつて活躍した監督の撮影所の話、実際にセットを組んでの撮影実技、8㎜による課題実習…、撮影と録音の理論技術面ばかりでない授業はこの上なくおもしろかった。
この頃、心中では漠然とだが、(映画の)カメラマンを目指そうと決意にも似た気持ちをもち始めていた。

初夏の頃、泰子(「東京戦争戦後秘話」の主演女優)から電話が入った。撮影の仕事があるから一緒に行かないか、と。
ぼくたちは成島東一郎さんの事務所“ キャビネット・オブ・エヌ”に出かけた。待っていたのは、カメラマン仙元誠三であった。泰子はちょい役で声をかけられていた。仙元さんは、その映画の撮影助手をやらないか、とぼくを誘った。食事と寝床は確保するがギャラはなし、という条件だった。ぼくは即OKをした。

映画は『空、見たか?』(72年。監督:田辺泰志。主演は若松孝二作品の新鋭吉沢健、脇役陣には、吉田日出子、草野大悟、殿山泰司などがいた。自由奔放に生きる男のセックスと放浪と家庭を描いた青春ロマン)、監督は新藤兼人の助監督をしていた田辺泰志という角刈りの太鼓腹おじさんだった。この映画は、岡山県倉敷のシネ・クラブの人たちを中心に、支援とボランティアで製作された、当時では(今でもか) 珍しい形態のものであった。 撮影は、田辺監督の地元倉敷と瀬戸内海を中心に、京都市内、丹後で行なわれた。
俳優さんの宿舎は田辺監督の実家のとんかつ屋の2階、撮影隊の宿舎は地元富豪の離れ、助監督等スタッフはミーティングに使われた広い一軒家に間借りした。助監督たちは、田辺監督の弟をチーフに、彼の早稲田大学の友人たちが集まった。みんな映画経験のないド素人たちであった。
一軒家は、宿舎やミーティングだけでなく、スタッフやキャストの朝食や夕食の場でもあった。スタッフ・キャストがほぼ揃った夕食の時、各自自己紹介をした。その時、出演者の吉田日出子が友人と称して、ひとりの若者をみんなに紹介した。写真では見たことがあったが、それが彼だとは気付かなかった。ぼくは興奮した。憧れの人物“はっぴいえんど”の松本隆であった。

普通、映画撮影のスタッフ構成は、カメラマン、主に露出を計るファースト、メジャーで距離を計るセカンド、フィルムの詰め替えをするサードと役割が決まっており、ぼくは普通の撮影では存在しないフォースという、その他使い走りのなんでも屋だった。しかも、この撮影隊は、照明も兼任していた。
セットを組んでいる時、セカンドで照明チーフの倉田さんから、「堀越、ケン ト紙買ってこい」と言われた。ケント紙なんて、倉敷で売っているのか。どこ行けばいいんだ、どれくらい必要なのか、一切は不明だ。聞き返したら絶対に怒鳴 られることはわかっていた。状況を見て判断するしかなかった。
しかし、状況を判断する力量すら、ぼくにはなかった。自転車に乗り、紙屋はどこですか、文房具屋はどこですか、と訪ねて回った。紙屋が見つかり、ケント紙はあったが、いろいろと重さがあり、その選別がわからない。何種類かを買って、現場に戻った。
戻るとすかさず、「ライト2つ、持って来い」と指示が出る。ライトはバッテリーと対になっており、このバッテリーがえらく重いのだ。両肩にバッテリーを担ぎ、手にライトと支柱を持ち、指定の場所に持っていく。この「持って来い」 は持っていくことだけの意味だけではなく、セッティングすることを含んでいる。それをしないとゲンコツや罵声が飛んだ。
とにかく、初めて本格的に参加した撮影現場は修羅場であった。
初日の撮影が終わり、遅い夕食をとり、カメラやレンズの掃除、フィルムの装着、フィルターの整理、今日撮影したフィルムのナンバーの整理、バッテリーの充電、機材の整頓、明日必要な機材を即運び出せるように準備……、へとへとにな りながら、深夜寝床についた。
午前4時起床。眠い目をこすりながら、小便に行く。ワァオー、チンチンが真っ赤赤だ。何をしても起きないくらい疲れ切って熟睡している新人に、マジックインクで塗りたくる、先輩たちの洗礼だった。
“お尻を掘られなくて、よかったよかった”と、ぼくは今日もまた元気な撮影に出かけていった。

昭和46年8月15日にクランク・インした『空、見たか?』の撮影は、岡山県倉敷市、瀬戸内海を中心に順調に進んだ。

時は1960年、物語は主人公が高校3年の夏に始まる。この主人公が、セックスに明け暮れ、放浪の旅に出、そして結婚してもなお心の赴くままに生きていく、そういう話の映画であった。
初日は、市郊外にあった倉敷東商業高校で、教室内から裏山まで、終日目一杯を使った。ここでぼくは、初めて“太陽”の担当になった。 映画というのは、いくつかのシーンで成立している。そのシーンはまたいくつ かのカットから成り立つ。
例えば、アウトドアでの向き合った男女の会話のシーンがあるとする。男がしゃべっているカットは晴れているのに、切り換えした女のカットが曇っていたのでは、同時間ではない違和感のある映像になってしまう。このため、晴れのシーンは、基本的にずっと晴れた状態で撮影しなければならない。
この日は、晴れてはいたけれど、雲の多い天気であった。そのため、雲の動きを予測して、雲の合間から太陽が顔を出すのが何秒後か、そして何秒くらい陽を差し続けるのかを、監督やカメラマンに大声で伝えるのだ。
楽しかった。すでに撮影や照明の準備は終わっているので、みんなはぼくの声を待っている状態だ。予想が外れると罵声が飛んだが、クランク・インしたばかりなので、みんなにも余裕があり、笑いながら進んでいった。
校庭では硬式野球部が練習をしており、ぼくも休憩の合い間、打たしてもらっ たりしていた。
まむしがいるという裏山では、いきなりのセックス・シーンがあり、ぼくは仙元さんが崖から落ちないように崖っぷちで支えたり、レフで俳優さんのお尻などを照らしたりした。
木ネジ2本5円の領収書をめぐり、金物屋のばばぁと喧嘩をしたり、苦しいながら撮影していることだけで毎日が充実していたのに、監督の実家のとんかつ屋でごちそうになったり、ボランティアの女の子とデートしたり…、泰子と喫茶店や美術館を回り、素晴らしい倉敷の町を堪能したり…、ぼくの二十歳の夏は、異郷の地で弾け飛んでいた。

仙元さんは、撮影の待機状態の時、撮影スタッフみんなに、「(セッティングされた)カメラ、覗いてもいいよ」と気を使ってくれた。ぼくは勉強になるため、お言葉に甘えてよく覗いた。が、他の撮影スタッフはだれも覗こうとしな かった。
撮影開始から、しばらく経ったある日、雨のため、撮影が中止になった。
スタッフ全員が集合し、田辺泰志監督を中心に、反省を含めた意見の交換会が開かれた。ぼくは、部分的な演出について、監督に尋ねたりした。演出陣からも撮影についての質問が出た。が、仙元さん以下撮影スタッフの面々は黙ったまま、返事をしないし、しゃべらない。余計なことは言わないという雰囲気だ。たまに仙元さんが一言二言、言葉を返すだけ。この時、共同で映画を作るという、 ぼくの思っていた映画作り、これまでぼくたちがやってきたものとは、かなり違うものを感じとった。
撮影スタッフは“プロの集団”であり、その技術を最大限活用してフィルムに残すこと、それが彼らの仕事であると、後になって気付いた。任された仕事をだれに指示されることなく、自分たちの力で全うしていく。それが俺たちプロの仕事なんだと。
すごい、と思った。が、同時にこういう映画作りでの撮影は正直つまらないな、とも当時若かったぼくは思った。
完全なる縦社会で構成されているプロの世界、将来漠然とだが映画カメラマンを目指そうと考えていたぼくは、この時多分自分にはなじめない世界かもしれない、と思い始めていた。

そして、しばらく経った頃、銭湯で一緒になった仙元さんがぼくの隣りに座り、神妙な顔をして、「ホリちゃん、髪、切らない?」とたずねてきた。
ぼくは、「何でですか?」と答えたものの、髪を切る気は微塵もなかった。話はとんかつ屋で働く少年の役で出演してほしい、ということだった。この役は、 主人公と結婚した奥さんの実家がとんかつ屋をやっており、主人公は店を継ぐ。その店で働く家出少年の役で、自分の彼女も主人公にとられてしまう、情けなく 悲しい役だった。ぼくは、興味はあったものの、「髪は切りません」と断った。
しかし、結果は、髪を切らなくても、出演することになった。
本番になると主演の吉沢健は、ぼくと目を合わせると必ず吹いてしまい、「お前、真面目にやれよ」とぼくに当たった。
撮影も終わりに近づき、残すは京都市内、丹後の撮影だけとなった。みんなが京都に出かけていった時、ぼくと助監督2名は倉敷に残り、荷造りや後片付けをやることになった。その2日間、時間に余裕が生まれ、ぼくはずっと考えていた。プロの世界で生きていくことを。そして、決めた。プロの世界に入り、撮影助手を経て、カメラマンになる夢は捨てようと。自分のやりたいことは、自分の撮りたい映画を撮っていくことだと、強く思ったからだ。
そんな思いを胸に秘め、助監督たちと、次の撮影地丹後へと向かった。

 /♪トマトやアンズやリンゴを買って  
   汽車に乗ったは良かったが
   明るい星に眠られず
   トマトを捨ててボトルを買った
   ここはどこ?  ここは火の河  ここを過ぎ……

   アンズやリンゴを小脇にかかえ  
   汽車を降りたは良かったが  
   空の底吹く風ばかり  
   アンズを捨ててボトルを開けた  
   ここはどこ?  ここは地の果て  ここを過ぎ……  

   トマトもアンズもリンゴも捨てて  
   激しい夢も醒めはてて  
   涙のような酒びたり  
   ボトルを捨てて、もう帰れない……  
   ここはどこ?  ここは地獄だ  ここを飛べ!
    / (『空、見たか?』の主題歌「長い長い旅の報告」清水哲男作詞)

(ちなみに映画は昭和47年2月、新宿蠍座で上映され、6週間を超えるロング・ランを記録した)

東京に戻ると、大学に進まなかった後藤は、できたてホヤホヤの日本映像学校、通称“原宿学校”に通い、映画の勉強をしていた。
ぼくは、時々彼と酒を飲み、『空、見たか?』で経験した本格的撮影の話をした。そして、ぼくの胸の思いを告げた。自分たちの映画を撮りたいのだ、と。
後藤もそう考えていた。この頃、ぼくたちは、自主制作(映画)で食っていくことを本気で考えていた。
ぼくは解散状態にあったグループポジポジを再結成すべく、大学にいた仲の良い二人の男をメンバーに誘った。
この二人とはいつも一緒に行動していた。授業が終わるとよく行ったのが、新宿紀伊國屋裏にあった喫茶店トップスの2Fだった。ここで、“紅茶”と“じゃがいもとソーセージ”を注文した。これがぼくたちの定番メニューであった。
ガリガリの長身でモデル顔、いつも女を連れていたジゴロのような平塚出身の岩城信行。 ビートルズの熱狂的ファンで、「来日した時、皇居のお堀を何人か泳いで捕まっただろ、あれおれの仲間」などと自慢していた都立白鴎高校出身の篠田昇。 彼は、カメラマンとして井筒和幸監督、相米慎二監督等の作品に関わり、現在主に岩井俊二監督作品の撮影監督として活躍している篠田昇、その人であった。


1、2年前の殺伐とした状況とは打って変わって、江古田という辺ぴな場所にあった日大芸術学部は実に平和的な雰囲気であった。当時の日芸の中庭は、その頃上映された映画『いちご白書』の舞台、コロンビア大学に何故か似た作りになっていた。腰の高さくらいに作られた壇がいくつもあり、その間に道があった。ぼくたちはその壇の上で、雑談をしたり、ギターを弾いたり、授業の合間の暇を潰していた。
ある日の昼休み、放送学科の企画で、中庭で本田竹曠トリオのジャズが催された。最後にビートルズの「ドント・レット・ミー・ダウン」の演奏になった。みんなはさびの部分にくると“ドン~・レッミー・ダ~ウン”を合唱し始めた。本田もそれを気に入ったのか、その部分だけを何度も何度も繰り返した。予定の終了時間を向かえたため、「昼休みは終わりましたので、すぐ演奏を中止しなさい」と構内放送が流れた。が、本田と学生たちは意地でこのエンドレス状態を続け、その後30分くらい演奏と合唱が続き、やがて自然消滅していった。  

篠田昇(以下、昇)はぼくと同じ撮影録音コース、岩城信行(以下、岩城)は監督コースで学んでいた。
ある日、顔の広い岩城がアルバイトをもってきた。TBSで放送になる早朝ヤング向け情報番組「ヤング720(セブンツーオー)」の“さくら”だった。岩城と昇とぼくの3人は、生番組のため(とは言っても収録15分後に放送された)、朝6時半頃にスタジオ入りし、簡単なリハーサルを行なった。本番は7時くらいから始まり(実際の放送は7時20分から)、ぼくたちは、スタジオに来た客を装い、テレビには後ろ姿や後頭部が映っていた。何ともないバイトだったが、テレビ局の雰囲気や仕組みが垣間見れることとギャラがとてもよかったので、しばらく続けた。3時間くらいで、5000円ももらえ、しかもタクシー代まで出た。放送終了後、ぼくたち3人はアマンドで食事をし、大学へと向かった。

ぼくらに共通していたのが、“アメリカかぶれ”であった。時間があれば、いつもアメ横で物色していた。守屋商会でリーバイスのジーパンを何枚も持って2階へ上がり、試着をした。その頃のリーバイスはまだアメリカ製の手作りであったから、自分に最もフィットするものを探すのである。約2000円で買ったリーバイスをしょっちゅう洗っていた。年季の入ったリーバイスは、左のサイド・ステッチが正面に向いてくるので、早くそれに近づけるためだった。
ある日、守屋商会の近くにあるブランド品のお店に、後光がさした品物を見つけた。当時日本では、コンバースのバスケット・シューズはまだ白と黒しかなかった。バスケットボール・マガジンでも白黒ページが多かったので、色モノがあるとは気付かなかった。燦然と輝いていたのは、オレンジ色のハイ・バスであった。値札はついていなかった。
ぼくは、お店のおばちゃんにいくらか聞いた。6800円だった。サイズは26センチ、ぼくの足は24.5センチ。これっぽっちの躊躇もなく、ぼくは絶対買いにくるから、だれにも売るな、しまっておいてくれ、と予約を入れた。

大学の授業では、現像の基本を学ぶため、写真を多く撮らせて、現像、焼付け等を行なう実習があった。だから、ぼくたちは、いつもカメラをかばんの中に入れ、何でもバチバチと撮っていた。昇はライカそっくりの偽物“ニッカ”を愛用していた。
アメリカかぶれのぼくたちは、よく米軍基地のハウスに出かけていった。まだ、東京や近郊には、成増、調布、府中、国立、飛田給、入間、福生、座 間、厚木…と基地周辺に数多くハウスが残っており、軍関係者の大部分はアメリ カに引き上げていった後であった。そこはぼくたちの被写体の絶好の場として、また、いつかそこに住もうと思っていたから、その下見として利用していた。
岩城は夜、六本木のディスコ“ズッケロ”でボーイのバイトをしていた。国道246と元テレ朝通りの交差点にある中国飯店のとなりの地下1、2階にあった。ここのマネージャーと話をつけ、店内にぼくたちの撮った“アメリカっぽい”写真を買ってもらい、スライドで流すことになった。
そんな彼らを、新宿トップスの2階で、後藤に会わせた。自分たちの映画を一緒に作ろう、と。彼らはすぐに打ち解けた。
前から書きためていたぼくのシナリオに、後藤が手直しをした。シナリオができ、それをガリ版印刷した。
ガリ版印刷とは、ロウを塗った方眼紙(原紙)をヤスリの上に置き、鉄筆で文字を書き、謄写版にインクを塗ったローラーをかけ、わら半紙に印刷するもので、ぼくは小学校から慣れ親しんでいたが、学生運動のビラで需要が急激に増えていった。なぜ、ガリ版と呼ぶかというと、鉄筆で文字を書く時、ガリガリと音がするからだ。

映画のタイトルは『合言葉』(あいことば)。
ぼくが監督、昇は撮影、岩城は主演、後藤は製作。昇や岩城の友人たちもスタッフに加わったが、もっと多くのスタッフが必要となり、当時の平凡パンチに “ナイス・ガイ”という恋人募集みたいな欄があり、そこにぼくのボカした顔写真を載せ、募集をした。おどろくほど沢山の応募があった。何人かに連絡をし、手伝ってもらうことにした。
準備は着々と進んでいった。そして、肝心のヒロインを探すため、新宿に繰り出した。スカウト(ナンパ)するためだ。

新宿東口でスカウト(ナンパ)してはみたものの、なかなか格好のヒロインを見つけることは難しかった。今みたいに勧誘やモデルのスカウトマンが通りに目立つほど立っている状況とは違い、見ず知らずの女性に声をかけるのは、完全にナンパ目的であったから、美形の女からは鼻から相手にされなかった。それでもモデル顔の岩城は、スカウトという使命を忘れ、ナンパした女とよく同伴喫茶に入っていた。
シナリオの修正やロケ・ハン(ロケーション・ハンティング)、フィルムの調達、など着々と準備を進めていく合い間に、ぼくはみんなに内緒で、平凡パンチで募集したスタッフの女一人とデートを繰り返していた。横浜・石川町の埼玉銀行に勤めるOLであった。埼玉銀行は“サイギン”と略していたが、ぼくは“タマギン”と呼び、彼女に嫌がられていた。
ぼくは、授業が終わると、関内まで出かけ、彼女が仕事を終えるのを、山下公園で待っていた。
ある時、ぼくの日々の行動を不審に思った岩城が、学校から山下公園まで付けてきたが、ぼくは友情を裏切り、うまく巻いた。
港の見える丘公園や外人墓地、山手の高級住宅地から“ゴールデン・カップス ”のデーヴ平尾の実家やマモル・マヌーの住んでいたアパートまで、彼女に案内されるまま、静かな所をひたすら歩き続けた。そして、遅い夕飯をとるため、中華街に向かった。
昔、身欠きにしんを“磨き”にしんと思っていたぼくは、中華街で、初めて“サ ンマーメン”なる食べ物を知った。さすがに秋刀魚の入ったラーメンと単純には思わなかったが、どんなものかは想像もつかなかった。これが美味であった。
今はメニューに少なくなったが、もやしそばというものが当時は流行っていた。もやしの他炒めた野菜が上に乗った、スープがとろみのラーメンで、ぼくはこのとろみの付いた感触が好きではなく、何故素直に野菜を炒めて乗せるだけのラーメンがないのだろうと以前から不思議に思っていた。それがこのサンマーメ ンだったのである。
ある日、中華街では珍しい厨房が見えるカウンターだけの店に入った。ぼくのすぐ前には、スープを作る大きな鍋がぐつぐつと煮立っており、対流によって下から野菜のへたや鳥がらやありとあらゆるものが浮いては沈んでいった。その中に、瞬間、疑わしきものを見つけたぼくは、彼女に告げた。「もうすぐ、もうすぐ見えるから、よーく見てて」と二人で凝視した。「ほら!」。ぼくたちは、見つめ合った。「ねっ」とぼく。うなずく彼女。ぼくたちは、お金だけ払って、店を出た。厨房の床をチョロチョロしている動物が、そのまんま、入っていたので ある。

帰りは決まって、赤羽まで京浜東北線の最終電車に乗った。人はまばらで、車内はとても汚なく、臭かった。新聞紙や紙くずが散らばり、たばこも吸い放題、小便もし放題だった。
車内には、“薬”の売人がいて、「にいちゃん、シャブいらない?」と声をかけてきた。始めは断り続けていたが、最終電車でぼくをよく見かけるせいか、その内、隣に座って、世間話をするようになった。
彼らは上野を中心に、薬を専門に売買するグループで、上野の店に来れば、いいブツを安く売ってくれるという。
そして、「これ、にいちゃん向きのおすすめ」と言って、一粒の錠剤をぼくに渡した。「これ、スピード(約20年前頃、ディスコで流行ったビンに入った液状で嗅ぐのとは違い、白い錠剤だった)っていうの。ビンビンだよ。500円だけど、300円でいいや、お試し価格ね」。
ぼくは、300円を渡した。「飲んでみな」と男。
ぼくは、今飲むと身体がおかしくなり、その隙に財布を取られるかもしれない、という警戒心から、あとで飲むからいいよ、と断った。男は上野で降りた。
ぼくは、スピードを飲んだ。ものの数秒で、脳天からケツの穴に、稲妻が走った。座っていたぼくは、勢いよく立ち上がり、吊革にぶら下がった。向かいの車窓から、過ぎ行く景色の光たちが、ぼくの目の中にどんどんと飛び込んできた。

相変わらず、ヒロイン探しは続けていた。
日芸でよくフォークロックのコンサートを開いていた同期生でセミプロ・ ミュージシャンの藤本あきらにも声をかけていた。その彼からいい子が見つかったという連絡が入った。藤本の女友達の妹らしい。
新宿のトップスの2階で待ち合わせをした。ぼくと昇と岩城と後藤とで待った。かなり遅れて藤本とその彼女が現れた。
真っ直ぐなロングへアーだが、カジュアルなジャンパーに足首まであるタイトなロングスカートの出で立ちは完全にヤンキー(当時はそんな言葉はなかった)だった。が、ぼくの大好き な女優ステファニア・サンドレッリを幼くしたカメラ映えする顔立ちだった。
ぼくらは“いいんじゃない”という暗黙の了解を目でかわしながら、彼女に映画の説明をしていった。
時々、冗談を交えるのだが、彼女は必死に笑いを堪えていた。ぼくは笑った顔も見たかったし、でも何故堪えているのかが不思議だった。
専門学校に通っていて、授業のない日や午前中、冬休みは参加できるという返事も、下を向いて、ぼそぼそとしていた。
ぼくは、次第にいらいらしてきて、「君が気にいったけど、そんなに小さな声じゃ、使えないよ」と彼女のおどおどした目を見据えた。しばらく、“にらめっこ”状態になった。彼女は堪え切れず「やーだぁー」と初めて笑った。
ぼくらは目が点になった。前歯が1本、まるまる欠けていた。
現在治療中で、じき差し歯が入ることを告げた彼女をぼくたちは採用することにした。彼女の名は、キッコといった。帰り際、ぼくは「差し歯が入るまで、撮影の時は、いつも白いガム、咬んでてね」と指示を出した。キッコは、思いっきり笑っていた。
こうして、難題のヒロインが決まり、昭和47年の冬、新生グループポジポジの映画『合言葉(あいことば)』の撮影がスタートした。

新生グループ・ポジポジによる16㎜映画『合言葉(あいことば)』を制作するにあたり、日大芸術学部の新入生であるぼくたちは、大学をフルに利用することにした。

まずは、機材の借用とフィルムの購入。16mmカメラでの実習は2年からであったが、特別に16mmカメラを貸してくれるように交渉し、撮影録音コースのぼくと (篠田)昇は、課題を撮るという名目で、時期をずらして交互にボレックスやアリフレックスを借り続けた。フィルムは、コダックや富士フィルムと比べ、かなり安価なベルギー製アグファの白黒フィルムを購入してもらった。 その他、レンズや三脚、ライトやバッテリー…、借りれるものは何でも借りた。撮影が済んだ後も、2年生以上でないと使えなかった16mmの現像タンクや編集室、アフレコ・サウンドトラックの収録に使うスタジオも、全てにわたって学校の施設を使わせてもらった。
先生や講師たちは、こんなに熱心な生徒はこれまでいなかったと喜んでいたはずだ。ぼくたちは、一番心配だった金銭的な負担が解消されていったことを喜んでいた。

『合言葉(あいことば)』の撮影は、ぼくが住んでいる赤羽と篠田昇の実家がある埼玉県三郷を拠点とし、その周辺と目白にある後藤和夫の家の近所の高級住宅街、明治神宮や代々木公園などで行なわれた。
初日はまず軽く、主人公タクマ(岩城信行)だけのシーンを撮ることにした。タクマの家と部屋の設定であったぼくの部屋の撮影から始めようと、午前9時に赤羽の実家に集合することにした。が、いくら待っても主演の岩城がこない。電話をしてもアパートにもいない。連絡もこない。
仕方なく、周辺の風景を撮り、時間を潰すが、午後になっても一向に連絡もない。昇がもしかしたら、ここにいるかも知れない、と一枚の紙切れをカバンの中から出した。何日か前に、連絡が取れなくなったら、ここに電話してくれ、と岩城からもらった電話番号が書いてあった。昇が電話をした。「岩城、いますか?」。岩城と連絡がとれた。女の所にいた。場所は青山だった。
今日の撮影は諦めて、ぼくらは撮影移動車である後藤(和夫)の中古のとてもぼろいコロナ(以下ボロナと呼ぶ)に乗って、会いにいった。ぼくは内心怒っていた。岩城にも女にも文句のひとつを言いたかった。
女は、30(歳)過ぎのショー・ダンサーで、ふたりとも今起きたばかりであった。「ごめんね」と言いながら、コーヒーを入れてくれた姐御肌のダンサーは、お詫びに夕飯をおごると、明治通りと表参道の交差点にあったイタリアン・レストランにぼくらを誘った。 ボロナの車中、後ろの席から彼女は、「あーら、扁平頭なのね」と運転する後藤の後頭部をぺんぺんと叩いた。ぼくらはその通りだと大笑いをした。

赤羽での撮影は、西が丘にあった広大なさら地を多く使った。ここは、元日本陸軍の兵器廠跡で、その昔、ぼくが中学3年の頃はレンガ作りの建物もまだ残されており、隣接していた我が母校の稲付中学校の3階から、授業中ピンク映画の撮影がよく見られた。遠くの方で、全裸の女が数人の男たちに追いかけられ、その後を撮影隊が追う姿を、みんなは授業そっちのけで眺めていた。そこは現在、西が丘国立サッカー場になっている。
ここは、サッカー場に決まる前、プロ野球パ・リーグ“ロッテ・オリオンズ”のフランチャイズの最有力候補地だった。この頃、東京生まれ、東京育ちであったぼくは、根っからの巨人ファンであったが、V9後半のジャイアンツには飽き飽きしていた。野球が面白くなくなってきていた。土井と黒江のコンビなんか、くそく らえぐらいに思っていた。 しかし、そのロッテ西が丘球場の誘致の署名はしなかった。
その頃、サッカーはまだ“三菱重工”“古河電工”“東洋工業”“ヤンマー・ディーゼル”などの社会人リーグで、NHK教育テレビで放送されていた。釜本、杉山という突出した選手はごくわずかで、試合運びも見てて飽きるくらい下手くそであった。
それは、当時来日した外国チームとのゲームを見れば、子供の目にも明らかであった。例えば、日本チームは、必ずオフェンスでの競り合いになると、ボールを外に蹴り出してしまうのである。つまり、守りのパスがろくにできなかったのだ。
全日本チームの対ソ連戦で、小城の蹴ったフリーキック。左サイドからの5,60メートルはあったフリーキックは大きく緩やかな弧を描き、とてつもなく長い滞空時間の後、ゴールキーパーの長く伸びた左手をかすめて、コーナーポストぎり ぎりに入った。
ぼくはこの光景を今でも忘れない。これっきゃない、これが日本のサッカーだと、確信した瞬間だった。
釜本率いるヤンマーに、日本に初めてブラジル人二世がやってきた。ネルソン吉村と名乗った華奢な身体の若者は、ケタ違いにパスやドリブルが巧かった。以後、多くのブラジル人二世たちがやってくることになるが、彼らにより、日本のサッカーは確実に面白くなっていくことは目に見えていた。
そう、その時ぼくは野球よりもサッカーに未来を託していたのだ。
そして、ロッテ・オリオンズは流浪の旅の始まりである仙台に行ってしまった。
ぼくは、このことを今では後悔している。もし、ロッテがこの時、西が丘に来ていたら、ぼくは多分、現在のクソ面白くもないプロ野球でも、地元ロッテ・ファンでいられることにより、プロ野球を愛し続けることができたかもしれないからだ。

三郷にも想い出の撮影場所があった。建設途中の武蔵野線三郷駅だった。まだ、電車も走っていないので、外から自由に入れた駅は、鉄筋の骨格だけでできた近未来的な雰囲気をもっていた。ここのホームで、タクマ(岩城)とミカ(キッ コ)とオメガ(ぼく)との延々と続くシュールな言葉の掛け合いを撮影した。

シナリオにセリフが書かれていたが、物足りなさを感じたぼくと後藤は、その場で言葉を付け足していった。

/●ミカ「何か考えているの?」

■タクマ「ん? うん。不思議な話さ。タクマという男がいたんだ。そして、ミ カという…」

◆オメガ「1951年からずっと僕は汽車が来るのを待っているんだ」

■タクマ「汽車の汽笛が聞こえてきたんだ。合言葉のように。そして、僕は…」

●ミカ「駅はどこもみんな閉ざされていたのよ。汽車は止まることができない で、さまよい続けているんだわ」 ……

◆オメガ「街で男を見たんだってさ。男は変わったカバンを持っていたんだ。大 事そうにカバンを抱え、おびえた目つきでウロウロしていたんだ」

■タクマ「少なくとも、今は始まりかもしれない」

◆オメガ「それを見ていた男がいたんだってさ。カバンの男を追いかけていった んだ」 ……/  

というようなかみ合ったような、そうでないような会話が続いていくものだった。

のちに、新宿の酒場で会った金井勝監督(60年代後半から70年代にかけて話題を呼んだ「無人列島」「GOOD-BYE」「王国」等を撮った自主製作&自主上映の先駆者的存在)に、名場面だとほめられた。

撮影の途中、大学の単位を取るため、体育の実習に参加しなければならなかった。冬はスキーかスケート、夏の水泳のどれかを選択するものだった。ぼくと岩城はスキー、昇は水泳を選択した。スキーの実習は、長野県美ヶ原スキー場で行なわれた。

ぼくはスキーに着ていこうと、なけなしの金をはたいて、西武(デパート)でセーターを買った。ブルーのトーンのグラデーションで雪と星の形があしらわれていた、とてもふっくらした高級なセーターだった。ぼくは、これを2,3回着て、我が家の洗濯物入れに入れてしまった。母はそのまま洗濯機で洗ってしまい、普通に干してしまった。洗い上がったセーターは、子供用セーターに変わっていた。怒りと傷心のぼくは、「ウール100%の洗い方も知らねぇのか!」と母をなじっ た。そして、罪滅ぼしにこういうセーターを編め!と命令した。それは赤、白、青、緑、橙、黄…、あらゆる原色を使った横縞のクール・ネックで、各色幅をわざと不規則にしたものだった。だれが見ても、同じものは2枚とないオリジナルだった。母は買ったばかりのシルバー編み機を使って、一生懸命に作ってくれた。外見の出来上がりは満足のいくものであったが、内側は色違いの毛糸の結び目がいたるところにあり、それがゴツゴツして、着心地はイマイチであった。

岩城は岩城で、神宮外苑の第一回フリーマーケットにて、プロ・スキーヤー用のド派手なつなぎのぴったりスーツを特別安く手に入れた。これは、何日かの交渉があったが、店主からはそんな値段じゃ譲れない、と断られ続けていた。そして、最終日の終了時間まで粘り、ついに岩城は奥の手を出した。お客もまばらになっていた店内で、「さあ、みんなで目をつぶりましょう。イッチニィーのサン」と声を掛けた。急にふられたみんなは反射的に目をつぶった。岩城は、店主に「今、目をつぶってくれましたね。ありがとう」と店主の手を握りしめた。始めはキョトンとしていた店主だが、この不意打ちの冗談に気付いた様子で、苦笑 しながら、「最後の最後までしつこい奴だなぁ。いいよ、もっていけよ」と念願のスーツを売ってくれた。

スキー実習では、母の編んでくれたセーターを着、その上からアメ横で買ったモスグリーンのウーマンズ・アーミーUSAのロング・コート、防寒用耳付き戦闘帽とゴム長靴というぼくの出で立ちは、まさにシベリア抑留部隊そのものであった。実習初日、スキー初級組に紛れ込んだ、片やまさにアルペン滑降のプロ・スキーヤー、片や極寒の八甲田山部隊。異様な格好のぼくたちふたりはスキー場で、やんややんやの喝采を浴びた。が、見てくれとは違って岩城もぼくもスキーの初心者であったから、ふたりの滑るへっぴり腰のボーゲンに、インストラクターたちとぼくらを奇異に見ていたスキー場の人々は、腹を抱えて笑っていた。

昭和47年、大学2年のある日、(篠田)昇の“スバル360”( ビートル・タイプのフォルクスワーゲンを真似た、360CCの軽小型車)に乗って、新宿 を通りがかった時、ラジオから、「カメラのさくらやで先着10名様にビートルズのアルバムを差し上げます」と流れていた。さくらやはちょうど目の前だったので、車を止め、ぼくと昇と岩城の3人は、さくらやに駆けつけた。すでに何人かが並んでいたが、ぼくたち3人は10人以内にいた。もらった袋を開けると、昇には「ホワイト・アルバム」、岩城には「ア・ハー ドデイズ・ナイト」、ぼくには「ラバーソウル」が入っていた。

この頃、三郷にある昇の実家によく泊りに行った。その主な目的は、バンドの練習をするためだった。昇はポールを気取って左ききのベース、岩城はドラム、ぼくはサイドギターやパーカッションだった。これに、昇の高校の友人であるリードギター“ウィーピング”百瀬やボーカル“ミック” 雨宮などが加わった。後藤(和夫)もよく歌っていた。当然ビートルズが主体であったが、ぼくや後藤は拓郎や陽水をレパートリーに加えてもらった。バンドの名は「ザ・ロック」。日芸のある江古田のスナックでライブをやったこともあった。

昇の実家は、古い一階立ての大きな木造であったが、米屋をやっていた祖父が、かなりハイカラな爺さんであったらしく、12畳くらいの昇の部屋は大きな出窓の付いた西洋風の作りで、入り口もドアになっていた。 数年後、昇の家は新築することになり、その解体作業を手伝ったことがあった。この時、初めて“大黒柱”の存在を知った。ぼくは、屋根に上がり、瓦や壁をはがす作業をやった。家の身ぐるみがはがれたところで、解体屋の棟梁が「これが大黒様や」としきりにある柱をポンポンと叩いていた。家の中心に位置していなかったので、大黒柱はわかったが、それがどうしたと思っていた。棟梁は手下に指示をし終わると、その大黒柱一本を倒す作業を始めた。驚いた。大黒柱が倒れると同時に家全体の柱たちも倒れていき、一気に全部潰れてしまった。大黒柱とは、こういうことを言うのだと、初めて理解した。

朝早く、昇の大きなダブルベッドにぼくと岩城の3人で寝ていると、俳優品川隆二(時代劇を中心に活躍した2枚目の名脇役)に似た昇の親父が勝手に入ってきて、柱に掛っている鏡を見ながら、薄くなった髪をとかし、ドライヤーをかけていた。いつもそうだった。ぼくたちが起きる頃には、昇の両親は働きに出てしまって、ばあちゃんが残されていた。しかし、このばあちゃんも神出鬼没で、居るのか居ないのかよくわからなかった。この家の人々は、ぼくのことを堀越と呼び、近所の人に対してもみんな姓で呼んでいた。

起きたぼくたちは、勝手に台所に行き、用意してくれたごはんと味噌汁、そして、おかずを食べるのだが、一番やせていた岩城の食欲はとても尋常ではなかった。まず、焼き海苔6枚でごはんを2杯、おかずで5杯、味噌汁で2杯を平らげてしまうのである。これを見ていた昇のばあちゃんの目は真ん丸になって固まっていた。 我が家に泊った時も、家族が食べる昼と夜用に炊いたごはんを、朝、岩城一人で食べてしまったのを、母は腰を抜かすくらいに驚いていた。 悲惨だったのは、岩城の彼女たちだった。岩城はもてるので、よく女を取り替えていたが、長く付き合った女もいた。彼女たちは、こんな食欲の男と付き合っているため、一緒にいて吊られてしまうのか、3ヶ月くらいすると、必ず太ってしまうのであった。一方の岩城は全く太らない体質でガリガリ状態を維持していた。

泊った翌日は、家から歩いて5分ほどのところにある、昇のお母さんがやっている“マチコ美容室”にかけたいパーマの写真をもって行き、パーマをかけてもらった。

昇の家に遊びに行く時は、亀有の駅からバスに乗った。ある時、そのバスの広告に“マチコ美容室”があり、そこには、“ヨーロッパ帰りの美容師来る!”とあった。それは、昇の兄のことだった。兄貴は、名古屋の美容院に勤務していたが、結婚して実家に戻ると聞いていた。マチコ美容室で働くわけだ。そして、新婚旅行はヨーロッパ。それで、広告のコピーになったという訳だ。ふざけた話だ。

『合言葉』の撮影中、ぼくたちは明治神宮で3匹の小犬を拾った。まだへその緒がついていて、目も閉じたままだった。後藤の家に連れて帰り、牛乳をスポイ トで与えたが全く飲もうともしなかった。口が全然開かないのだ。犬を飼っていそうな友達に電話して聞くが、だれにもどうやったらいいのかわからなかった。だれかが、へその緒のせいじゃないか、と言った。へそから栄養 をもらっている状態のままだから、口から飲もうとしないのだと。ぼくたちは、それを信じるしかなかった。へその緒の根元をひもでむすんで、ハサミで切ろうとするのだが、半信半疑のため、なかなかできない。ワァー ワァーと大声を出しながら、切ると血がピュッと出た。さらに大騒ぎになった。ガーゼでお腹の血を拭き、お腹を縛った。すると、口がパクパクし始めた。ミルクを飲み始めたのだ。この小犬たちは、引取り手がいないため、しばらくぼくたちで飼うことになった。家は後藤の車ボロナだった。だから、撮影にはこの小犬たちが常に随行して いた。

ある日、撮影の帰りに、神保町にあるパチンコ店“人生劇場”に寄った。この店の景品は、当時東京では最も豊富で、それは大学街であったからだ。食べ物や日用品、本などを揃えていた。2時間くらい遊んで、景品を抱えて、車に戻ると大変なことになっていた。

車の中が煙で充満していた。タバコの火が消えないで、燃えてしまったのだ。 しかも、完全に窓を閉め切っていたから、車内はもうもうとしていた。ドアを開け、煙を追い出して、箱の中にいた3匹の小犬を外に出した。死んでいた。カチンカチンになっていた。ぼくたちは、その足で明治神宮へ行き、拾った場所に、小犬たちを埋めた。

『合言葉』の撮影が終わると、映画学科のスタジオを借りて、アフレコやサウンドトラックの収録を開始した。音楽は、主役のキッコを紹介してくれた同級生でセミプロ・ミュージシャンの藤本あきらに頼んだ。彼は、“ゲッセマネ”という 4人のグループを連れて来た。彼らは、フルートを中心とするフリージャズというかフリーロックというか、ジャンルにとらわれないすばらしいグループだった。ドラマーは弱冠11歳の中学生で、ジャズ・ドラマー猪俣猛の弟子だった。

藤本には、前もって歌なしのメインテーマとぼくが作詞した曲を頼んでいた。10数分のメインテーマを何テイクか収録している時、録音担当の同級生森田が 「何か、人がしゃべっているよ」と何やら怪談めいたおかしな事を言い出した。録音室からガラス越しに見ると、彼らは真剣に演奏していた。「ほら、まただ」 と森田。ぼくと昇はそっとスタジオ内に入り、だれがしゃべっているのか確かめることにした。しばらくすると、昇が自分の口を押さえておかしさを堪えなが ら、ぼくを手招きした。犯人はフルート奏者だった。彼の演奏を近くに寄って聞いてみると、判読はできないが、何かをしゃべりながら吹いていたのだ。

ぼくが藤本に頼んだ詩は、“いつも いつも いつも だからいつも(このリ フレイン)”と至って簡単なものであった。まず藤本がゲッセマネの演奏で歌ってみせてから、ぼくらに案を出した。合図を出すから、そこからここにいるみんなも一緒に歌ってくれ、と。楽しかった。プロの連中と一緒に合唱するなんて、初めての経験だった。

この中に、スチルを担当したサブローというあだ名の仲間がいた。本名は長谷川潤。当時、日芸の生徒で、同じ学科を受けて浪人した人間はいなかった。現役か初めて受けてそのまま受かるケースがほとんどであった。サブローは、映画学科一本で3浪していた。このサブローは、その後、授業の課題制作などで、ぼくのよきパートナーとして付き合ってくれた、今でも忘れられない友人のひとりだった。ちなみに同じような理由で、イチローとあだ名を付けられた金子正博は、ある時期、カメラマン坂田栄一郎の弟子として、活躍していた。

同級生ではなかったが、昇が受験の時、昼飯のキッチンで知り会った男、杉山 “マッチョ”芳明とは、よく酒を飲んだり、カメラの話をよくした。彼は、その後、六本木のスタジオ・ボーイを経て、篠山紀信が「週刊プレイボーイ」のヌー ド・グラビアを辞めた後、その後釜として抜擢され、売れっ子カメラマンとなった。

ぼくの大学時代の同級生には、江藤潤主演の純情痴漢映画「純」(1980)を撮った横山博人、日本テレビのドラマ「桂三枝物語」の脚本を書き、実際に三枝の奥さんになってしまった女性、「まわるい緑の山の手線、真ん中通るは中央 線~」という有名なヨドバシカメラの曲を作った広告代理店の社長などがいた。

 

その頃、右翼系の学生たちが長髪の若者を捕まえ、髪を刈ってしまう“長髪狩り”が大阪で盛んに行なわれていた。難波の歩道橋で、数人の男たちに長髪の学生がハサミで髪を切られる事件など、連日新聞で騒がれていた。

『合言葉』を主演したキッコの友達にネコという女の子がいた。彼女は、小田急線の鶴川に住んでいた。この鶴川という街は、新興住宅地で大きな団地もあり、皆駅から遠い所に住まざるをえなかった。だから、夜、バスが終了すると、タクシーしか交通手段がなく、電車が駅に着くやいなや、男も女も、老人も子供も、皆一目散にホームを走り、階段を登り、降り、改札口を抜け、タクシー乗り場へ駆けつけた。これをネコは“鶴川競馬”と称していた。

彼女の家に遊びに行く機会があった。鶴川の駅に着くと、嫌な予感がした。この街に国士舘大学があったなんて、ぼくは知らなかった。別に左翼でもなく、対立する身分でもなかったが、“長髪狩り”のことが頭をよぎったのである。関西が中心であったこの事件は、つい数日前、初めて東京の三軒茶屋でも起こっていた。街へ出る度に右翼系学生たちとは出会いたくないな、と真剣に思っていた頃だった。その嫌な予感は的中した。ネコの家まで駅から歩いて30分、近くにきたところの登り坂の途中に小さな公園があり、その奥で学生服の男たちが数人でだれかを取り囲み、騒いでいた。直感で“やばい”と思った瞬間、そのうちの一人が 「あそこにもいるぞ!」とぼくを指差した。ぼくたちは必死に逃げ、細い階段の 上を登り、そこにあったネコの家の玄関の隙間から、彼らの様子を見た。通り過 ぎていった。

モデル顔の岩城は、女にもてるだけではなく、色々な人物とすぐ親しくなれる天才的な能力を持っていた。が、ぼくと昇は、岩城が連れてくるあまりにもいい加減な人々に会う状況に、少し辟易していた。

そして、また岩城が胡散臭い人間を連れて来て、昇やぼくに紹介した。ぼくらより、少し年上の西村と名乗る男は、プランナーという、当時のぼくたちにはよくわからない職業だった。岩城に言わせると、西村くんはアイデア・マンだから、何か自分たちのためになるかもしれない、とのことだった。彼の事務所は原宿にあり、当時の原宿はセントラル・アパートを中心に、文化人たちのオフィスが集結し、最先端の店が次々と出来上がっていく魅力的な街だった。女店員が全国各地の方言で応対するブティック“ミルク”、洋服を含む皮製品とシルバーのアクセサリーの店“グラス”、できたての“キディランド”、黒を基調にした、おそらく日本初のオープン・カフェ“シオン”などによく出入りして いた。

しばらく付き合った西村くんは、実際とてもユニークな人物だった。ぼくらの映画作りのこともよく理解していた。自主上映の戦略的なことも相談できた。ぼくらは、撮っていた『合言葉』の製作担当を彼にお願いした。それほど、製作資金も大層なものではなかったので、快く引き受けてくれた。

彼と一緒に渋谷西武デパートに行った時の事である。エスカレーターで、1階から2階に上がった所に、イベントや催し物を刷ったパンフレットが何種類か置いてあった。それを西村くんが手にして「これって、その場所に行かないとわからないんだよね。それをさ、雑誌にして配ってしまえば、便利だと思わない?」 とぼくに聞いた。そして「デパートのイベントや映画、コンサート、全部のさ、 街の遊びの情報を一冊にまとめた雑誌、今考えているんだ」と言った。今は当たり前になっている若者向けのイベント情報誌というわけだ。ぼくは便利だとは思ったが、その発想がまだいまいち理解できなかった。そんな折、その年の7月、“ぴあ”という雑誌が創刊された。西村くんと同じ事を考え、いち早く実行した人間たちがいたのだ。

ある日、驚くべき話を西村くんがもってきた。富士山の裾野に、ローリング・ ストーンズを呼ぶイベントが進行中だという。総合プロデューサーは、カルメ ン・マキの旦那の支那虎という人物。メインとサブのステージが作られ、それぞれに、日本を含む世界中のロックン・ローラーが集合し、24時間ぶっ続けに演奏、そしてトリをとるのが、ストーンズということだった。そのサブ・ステージの撮影をぼくたちでやらないか、という依頼だった。

興奮した。ぼくは、アルバイトが入っていた「大相撲ダイジェスト」の撮影を即断った。ぼくらは、西村くんから、ステージ配置図の青写真をもらい、撮影計画を連日ワイワイガヤガヤと練った。が、1ヵ月も経たない内に、中止になったと西村くんから連絡があった。その大きな理由は、麻薬絡みでストーンズの入国が全く無理であるということだったが、もっと他に理由がありそうな気配であった。

当時、岩城は、幡ヶ谷の、風呂なし、共同便所、共同洗面所という木造の超ボロアパートに姉さんと一緒に暮らしていた。入り口で、靴を脱ぎ、下駄箱にいれて、階段を上がった2階の6畳一間だった。大きなダブルベッドが部屋のほとんどを占めていた。ぼくと昇は、一緒に住んでいるのは、絶対に姉さんではないと思っていた。遊びに行くと、スリップ姿のその胸元から、こぼれんばかりの巨乳に目のやりばに困った。が、彼らの平塚の昔話を聞いているうちに、本当の姉さんであることが、わかってきた。

このアパートのすぐ側に火葬場があり、そのまたすぐ側に原田芳雄が住んでいた。調子のいい岩城は、多分道端で原田芳雄に会い、ずうずうしく話かけて知り合いになったんだと思う。当時の原田芳雄は、『赤い鳥逃げた?』等のアウトロー・スターとして、活躍し始めていた頃だったが、ぼくはそれ以前に、テレビの柔道ヒーロー・ドラマ(たしかTBSだった)の主人公で、黒の胴着を着ていたかっこいい人物という記憶があった。

ある日、ぼくらは原田さんの家に遊びに行くことになった。原田さんは、とても恥ずかしがり屋で、まともにぼくたちの目を見ないで話をしていた。“Mr.スリム”をおいしそうに吸いながら、大好きな山登りの話をしてくれた。ぼくらは、 たちまち原田さんの大ファンになってしまった。

そんな縁で、昭和47年の夏、原田芳雄主演のATG映画『竜馬暗殺』(原田芳雄“坂本竜馬”と石橋蓮司“中岡慎太郎”のホモ達関係に、デビューしたての 松田優作が絡む、当時の世相を反映させた時代劇。桃井かおりも初々しい)に、 岩城と昇が参加することになった。

監督は黒木和雄、脚本には奇しくも『空、見たか?』の監督であった田辺泰司が加わっていた。岩城は製作進行、昇は撮影助手だった。撮影は田村正毅(カメラマンのベテラン。代表的な作品では、石井聡互監督「逆噴射家族」、伊丹十三監督「タンポポ」など多数あり。最近では青山真治監督「EUREKAユリイカ」 が有名)、撮影チーフに川上皓市(東陽一監督「サード」でデビュー、東監督のほとんどの作品を担当、最近では、荒井晴彦監督「身も心も」、松井久子監督「折り梅」などを手掛けている)、セカ ンドに小林達比古(「たどんとちくわ」他、市川準監督作品を多く手掛け、最近では、同監督の「竜馬の妻とその夫と愛人」、月野木隆監督「白い犬とワルツを」、東陽一監督「わたしのグランパ」を撮った )、そして昇はサードに付いた。この映画が今ある彼の出発点となったのである。

京都に出かけていった彼らの後、東京に残ったぼくは、『合言葉』の最後の仕上げに取り掛かっていた。

完成した映画『合言葉』は、同じグループポジポジ16mm作品『天地衰弱説第二章』と併映した。当時、8mm映画を上映できる小スペースは都内各所に点々としてあったが、16mmとなると上映できる公共の場は限られていて、しかも多くの動員ができるところは東京23区内では、四谷公会堂、高円寺会館、豊島区民センターくらいだった。ぼくは、若者たちが集まる新宿、渋谷近辺で他にも安く借り られる場所がないか探した。原宿にあったできたての千駄ヶ谷区民会館が好条件で貸してくれることになった。自分たちで折り畳み椅子を並べること、片付けること。掃除をすること。消防署に届け出を出すこと。それで、貸出し料金は格別安く設定してくれた。詰めれば200席は作れるであろう体育館に、7、80席の椅子 を並べ、映写機とスクリーンをセッティングした。

グループポジポジは、映画を作っていく中で、スチル(白黒)をかなり多く撮った。これは、好きなこともあるが、大学で自由に現像や紙焼き、引伸ばしができたからだ。そのスチルは宣伝材料として活躍した。新聞社には、文化部、学芸部等に資料やシナリオ、上映日程とともに送った。文字のみだが、必ず載ったのは本屋で売っていた日本読書新聞や図書新聞で、一般新聞では、自主制作作品に対しては 東京新聞が熱心であった。ぼくたちは、映画の批評が掲載されることを狙っていたので、映画評論家や監督たちにも同様に発送していた。『合言葉』は、評論家 田原克拓氏が読書新聞に書いてくれた。

が、もっとも効果的だったと思われたのは、できたての若者向け情報誌“ぴあ” であった。当時の“ぴあ”の誌面は、情報が少なく、まだまだゆったりとしていて、「自主上映」のページは、2ページもあった。ぼくたちの豊富な写真材料は、ここで威力を発揮した。トップの位置に、写真も大きく掲載されたのだ。ぼ くたちの上映は、毎日、毎週ではなく、予算の関係で、隔週金曜夜とかの飛び飛びで何ヵ月も続けていたので、“ぴあ”が出る度に、違う写真を使ったトップ扱いになった。

昭和48年に入ると、原正孝が衝撃的な8㎜カラー作品『初国知所之天皇』(はつくにしらすめらみこと)を登場させ、ぼくを興奮させた。制作、演出、 脚本、撮影、主演、音楽、演奏、編集、(上映の際の)映写技師を原くんひとりで行なった。何故映写技師もやるのかというと、映写スピードをいろいろと変えて上映するからだ。上映時間は実に8時間。場所は、国道246沿いにあった渋谷ポーリエ(精力的に映画、演劇、評論等の講演や講座を展開していたグループであり、その 拠点となっていた場所)。毎週土曜の夜9時頃から上映開始、途中休みを挟んで、早朝に終了した。始めはぱらぱらだった客も、次第に回を重ねるごとに、口コミや新聞の影響で、超満員になっていった。そして、引き続き、新宿6丁目商店街にあった 画廊マト・グロッソでも上映されていった。

信州から関西、京都、奈良、山陽、山陰、九州をひとりで歩きながら撮ったゆったりとしたスローモーションの映像、特に自分の歩く黒い影がカタカタとたなびく映像は刺激的だった。それに原くんのナレーションや自作の歌が流れる不思議な映画だった。“豊穣さに、くーゆりくゆられ旅に出た”“とーぎれ、とぎれにたーどおる、私の…”…ユニークな詩に、オルガンやギターの演奏がつけられた、この映画の一連のサウンド・トラックは、東芝からレコード化された。買い取りで30万円だったギャラに、印税にしておけばよかったと原くんは悔しがっていた。何と1万枚以上も売れたのだった。その後、原くんは、16mm版や短縮版を掲げて、各所で上映やライブを精力的に行なっていた。

夏、監督コース岩城の課題を撮るために、みんなで伊豆に出かけていった。 監督岩城信行、撮影篠田昇、主演ぼく、製作後藤。岩城の彼女の由美子の別荘が熱川にあり、ここを拠点とし、赤沢温泉の廃墟で撮影をした。主演の女は、岩城が新宿でナンパしたモデルを職業にしていた赤沢朱美。何か辛い過去をもっていそうな、影のある美人だった。ぼくはこの役作りのために、眉毛を剃った。ちょっと頭の足りない役のためだ。

ぼくたちは、よく湘南の海に日帰りで遊びに出かけた。別にサーファーでもなく、ただただ海に行くことが好きだった。ぼくたちは、この暇な往復の間、とても楽しい遊びを覚えた。  車には、撮影で使う小道具が乗せてあった。その中のメガホンで、窓から外に向け、「ご町内の皆様、(ちり紙交換です)」とか「い~し焼きいも~」とかを言い始めた。車は気持ちよく5、60キロで走っていた。あることに気付いた。その声が通行人に届く時には、ぼくたちの車ははるか先を走っていて、通行人たちは、声の出所が分からず、狼狽えていたのだ。これはおもしろい。ぼくたちは交代で、思いついた言葉を窓からメガホンで怒鳴り始めた。その中で、後藤が 「バッフゥーン!」という傑作をやった。ハンナ・バーベラのアニメ「原始家 族」のパパが放つ、岩を砕く時の声だ。道を歩いていたばあさんは腰を落とすは、子供は自転車からこけるは、おばさんは買い物カゴを飛ばすは、数十メートル先を走るぼくたちは、後ろを振り向きながら腹の底から笑った。こうして、この「バッフゥーン!」を第一、第二京浜あたり、湘南に向かう道すがらで、何百回と放っていった。湘南に向かう街道付近の神奈川の皆様、30年前の「バッフゥーン!」の正体は、ぼくたちでした。ごめんなさい。

帰りは帰りで、渋滞にはまった時は、カセット・デッキを使って遊んだ。車2台の時、1台の中のだれかが歌うか、何人かで合唱した。それにメッセージを付けて、車から降り、後ろの車に手渡しする。すると、15分20分で、後ろのだれかが、またカセット・デッキをもってくる。そこには、後ろの車の人間たちの歌と メッセージが録音されている。これを延々と繰り返すわけだ。1台の時は、女の子たちの車を探し、ナンパにも使った。

ぼくたちには、最高に気に入った海があった。それは湘南ではなく、伊豆下田の少し先にある多々戸海岸だった。撮影のロケ・ハンで偶然見つけた場所で、地元の人しかしらない、隠れた場所だった。国道からの入り口は、ひとつしかな く、それもとても狭く、看板もないので見逃してしまうこともよくあった。崖の上に大きな下田大和館が立っていたこの海岸は、昔米軍の保養施設があった所で、海はきれいなだけでなく、大きな特徴があった。海の真ん中から、右側は大きな波が立つのに、左側は全く波が立たないのだった。何故か。米軍がサーフィ ンをするために、右側の海の中に、テトラポットや何かを埋めて、作り替えてしまったのだ。なんちゅうやつらだ。ぼくたちが見つけた時は、真夏でも海水浴客はまばらで、とてもくつろげた場所だったが、年が経つにつれ、主婦の友社の保養所などができはじめ、人が多く来るようになった。それでもぼくたちは、夏になると何度も何度も、思い出すように遊びに行った。

夏に岩城が伊豆で撮った映画学科の課題が終了したその秋から冬にかけて、ぼくは同じ撮影録音コースのサブローと組んで、『ELLE/彼女』という16mm の短篇の課題を撮った。街で見かけたハーフのモデルの卵の生活、彼女の生き方を撮っていくうちに、平気で遅刻はするわ、具合が悪いと言っては撮影に来ないわ、彼女のわがままな性格に、こちら(ぼくとサブロー)も次第に対抗していく様を描いたもので、最後、彼女が堪え切れず逃げていくのをずっとカメラで追いかけたまま、400 フィートのフィルムが落ちた(終わった)ところでエンドになるものだった。

ぼくは、この課題で、エクレールというフランス製の16mmカメラを使った。ドキュメンタリーであり、予測のつかない場の臨場感を伝えるため、どうしても同時録音に固執したからだ。このエクレールというカメラは、当時ぼくが大好きだった監督クロード・ルルーシュ愛用のカメラだった。ルルーシュと言えば、『男と女』(66年)、『白い恋人たち』(68年)で、映像と音楽のシンフォニーが醸し出す独特のスタイルを作った監督だが、彼は自主制作の出身であり、カメラも自身で回していた。

72年のミュンヘン・オリンピックの時、ヨーロッパの映画監督たちが結集して、そのドキュメンタリー映画を作った。その中で、ルルーシュはバレーボールを担当した。ぼくは、特に好きではなかったバレーボール中継を隈なく見た。日本のチームの試合なんて、どうでもよかった。ルルーシュの撮影風景を見るために、だ。期待に答えて、ルルーシュの姿は至る所で見られた。彼は、試合中、エクレールを肩にしょい、助手たち4人とひとかたまりになり、コートのあちらこちらに移動して、撮影していた。

完成した『ELLE/彼女』の審査は、上映後、5人の教授や講師たちとの質疑応答で行なわれた。かなり高い評価をもらった。この後、『ELLE/彼女』は、学校に内緒で、グループポジポジの自主上映会で上映した。どこでだったか忘れたが、当時新進映画評論家だったおすぎとピーコ にも見てもらった。その上映会に来ていた広告代理店の人間に勧められ、銀座三愛で、ある企業のイベントに、1/2インチにビデオ化した『ELLE/彼女』を流したこともあった。

ぼくは、映画学科の講師や助教授宛てに、授業に対する意見というか、不平不満というか、手紙をよく書いた。今、思い返してみるととても恥ずかしい気持ちになるが、当時は、高校時代の学生運動の延長にあったせいか、反発を含めて、自分の考えを述べ、カリキュラム等に対して文句を言っていた。

特に映画学科撮影録音コースでの課題は、短いながらも8mmや16mmを撮ることであった。機材や現像、録音の設備は学校内に用意されていたので、問題はなかったのだが、フィルムやロケの費用は自費で賄わなければならなかった。ほとんどの人間は、親から金を出してもらっていた。このことに、ぼくは疑問をもっ た。ぼくみたいに金のない人間、フィルム代や宿泊代をアルバイトで捻出しなければならない人間、親から出してもらうことに引け目を感じていた人間、そういった人間たちが回りに沢山いた。だから、時には映像を提出するかわりに、文章でも済むようにできないか、などを手紙にしたためていたのだ。

大学3年になると、映画学科のみんなの気持ちは卒業制作に向いていた。卒業制作は、監督コース、映像コース、撮影録音コースの各コースの人間たちが組んで制作する、いわば自分たちの集大成であり、その意気込みも半端ではなかった。大学4年の時にほぼ1年をかけて制作するため、フィルム代、ロケの費用、交通費、食事代とか、その予算は優に100万円を超えた。中には、親がポンと500万 の札束を出すやつもいた。

まず、ぼくは学校側に掛け合った。なぜ映画学科の卒業制作だけが高額を必要とし、他の学科は、原稿用紙の論文で済むのか。金のない映画学科の生徒の卒業論文を認めろ、と。が、その時、ぼくの気持ちは何とか撮るつもりでいたし、正直撮りたかった。だから、次に別件で掛け合うことにした。この卒業制作の作品は、こんなにも金をかけたのに、その著作権からネガ、プリントまで全て学校の所有になるという規定についてだった。ぼくは、撮った作品を自分たちの自主上映に使いたいし、プリントも焼き増ししたいし、著作権を持たせてほしいこととネガの貸し出しを自由にしてほしいと申し出た。そして、難題になろうと予測された営利目的の自主上映にも、条件付きで同意してほしい旨を告げた。

こうした、一見傲慢にも見える行動を何故とったかというと、以前、こういうことがあったからだ。2年時の課題作品『ELLE/彼女』が映像専攻のあるモスク ワ大学とかイタリアの大学の教材に使われていたのだ。ぼくは、全くこの事を知 らされていなかった。先輩から聞きつけ、学校に問い質した。答えは簡単。学校のものだからという理由で、ぼくに何も知らせず、教材の提供をしたのだった。 ぼくは教材に使われること自体、評価を得たこととして、正直うれしかった。が、作り手の意志も何も反映されないその仕組みに腹が立った。おかしいと思った。学校側の卒業制作に対する回答は、考えてくれるとは言ったものの、前例を作りたくないのか、ほとんど無理であることがわかった。大金を卒業のためにだけに使いたくない。自分の映画のために使うべきだ。それが絶対だと思った。ぼくは、退学を決意した。

この頃、後藤和夫は、足立正生、相倉久人、佐々木守、平岡正明、松田政男 の編集“批評戦線”による雑誌“映画批評”(途中から赤塚不二夫の表紙に変わった。シナリオや硬派の論文、そして公開論争も展開された、かなり難解な映画批評月刊誌。「映画批評という雑誌を知っていますか」と聞かれたある女優が「あぁ、あの写真が1枚もない雑誌ね」と答えたという。本当に写真が1枚も使われなかった)の編集スタッフとして働いていた。編集人は松田政男で、事務所は本郷にあった。ぼくも時々アルバイトに行った。アルバイトといっても、編集とは何かをまるで知らない頃だったから、留守番や電話番、お使い程度のものであった。

松田さんや足立さんは、少しでも時間ができると、「堀越くん、コイコイやろ」と座布団をもってきて、机の上に引いた。ぼくのわずかばかりのアルバイト代は、こうして、彼らに掠めとられていった。ここで、写真家アラーキーこと荒木経惟の存在を知った。彼はこの映画批評の編集部に、自分の作品をよく送ってきた。それは、女性のあそこに十字架をはめこんだりした、それはもう超過激な写真ばかりであった。

ぼくたちが、大島渚監督『東京戦争戦後秘話』(70年)に出た頃、吉田喜重監督作品『煉獄エロイカ』(70年)に、少年のような少女の役で出演していた、和美ちゃんという女性と知り合いになった。彼女は、その後しばらく、この“映画批評”の編集をやっていて、辞める時の後釜に、彼女の妹、妙子が入ってきた。後藤はその妙子と間もなく結婚をした。

仲人は大島渚、小山明子夫妻。ぼくは空色のロぺのサマー・スーツ、昇はピンクのダブルのスーツ、岩城はコートのように見える濃紺のナイト・ガウンという 出で立ちだった。式は、乾杯の音頭でブーイングにもめげず40分もしゃべっていた松田政男さんから、佐々木守さんたちによる、よく理解出来ない楽しそうな話を聞かされた。

赤坂見附のホテルで1泊することになっていた後藤と妙子、そしてぼくたち3人は、新宿に出かけ、夜遅くまで楽しい酒を飲んだ。

この頃、新宿でよく酒を飲むことが多かったひとりに、『空、見たか?』で助監督をやっていた鴨田好史がいた。みんなから“鴨ちゃん”と呼ばれていた彼は、しばらくして日活に入った。そして、神代辰巳監督の右腕として活躍し、神代監督の“濡れた”シリーズ第一弾『恋人たちは濡れた』(73年)では、脚本を書き、その年の賞を数々とった。

この鴨ちゃんが、ロマンポルノのオーディションを受けろと進めてくれた。神代監督の『四畳半襖の裏張り・しのび肌』(74年)の置屋の少年の役だった。ある日、オーディションを受けに調布の日活スタジオに出かけていった。神代監督に会い、いろいろ映画の話をした。最後に監督は、長髪のぼくに「丸坊主になってもらうよ」と言った。ぼくは「はい」と答えた。その夜、新宿の飲み屋“ 鼎(かなえ)”で祝杯をあげようと、鴨ちゃんと待ち合わせした。この頃、鼎はロ マンポルノの女優さんたちの溜まり場になっていて、宮下順子、芹明香などをよ く見かけた。遅くなって、へべれけになった神代監督がここに現れ、ぼくがだれなのかも忘れて、お前は生意気だとか、因縁をつけてきた。頭もぺんぺん叩かれた。困った ぼくの顔を見て、鴨ちゃんは酒を飲みながら笑っていた。結局、ぼくは丸坊主にならなかった。あの後、ある劇団の若手俳優に役が決まったからだ。

数年後、ぼくは実家を出ることになるが、それを知らない鴨ちゃんが田中登監督『女教師・童貞狩り』(76年)の出演依頼の電話を実家に入れたことがあった。電話に出たのは6歳年下の弟だった。ぼくと声がそっくりのため、鴨ちゃんはぼくだと思い、弟は弟で出演の依頼に「うん、うん、いいよ」なんて答え、ちゃっかりと映画に出演してしまった。このことは、大分後になってから知った。

続く

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私家版「記憶の残像」⑤~グループポジポジと大島渚

昭和44年の冬、映像制作集団“グループポジポジ”による8㎜映画「天地衰弱説」の撮影は、新宿御苑を拠点に進められた。

カメラは、エルモ社製のスーパー8用を2台を使用、これは、ズーム付きで、コ マ落としやスローモーションの撮影もできた。

開始してすぐ、ヒロインが必要ということになり、ぼくは当時時々付き合っていた八百屋の娘、房江ちゃんを連れてきた。みんなの出演OKをとったものの、いざ撮影に入ると、彼女の演技はとてもぎこちなかった。極端なくらい演技ができなかった。予想に反して、彼女にはやむなく途中降板してもらうことになった。 このことは、作品中のナレーションにも正直にうたった。

「天地衰弱説」のストーリーは、

・少年Aの独白=高校に通う少年Aは、受験勉強に疑問をもつが、かといって、なにをしたらよいかもわからない自分にも疑問をもつようになる。

・少年Bの独白=道を歩きながら、8㎜カメラを手にする少年Bは、「カメラがあったから、映画を撮ろうと思う。バットがあったなら、野球をしてたな。」と語る。

・ひたすら池の回りを走り回っていた少年Aは、通りすがりの少女をナンパし、成功。

・その二人の姿を、追いかけながら、転げ回りながら、木の上から、と神出鬼没に8㎜カメラに収める少年B。

・撮影が終了し、ベンチに腰掛け、仲良くする三人。が、会話がうまくかみ合わない。

・ジャンケンに負けた少年Aは、三人の飲み物を買いに行くが、戻ってくると少年Bと少女はいない。

・広い草原から、哲学者風の男が登場し、詩を朗読。終わると悠然と去っていく。

・墓場にて、深刻な顔をしている少年A。突然、幽霊のように現れる少女にびっ くりし、気絶する。

・少女が、お供えの花を少年Aの胸に置くと、少年Aは目覚めるが、その顔は、殺意に満ちている。

・驚いた少女は逃げ出し、それを追いかける少年A。そのあとに続く撮影隊の面々。

・縄に結びつけたゴミ箱、電話機、タイヤ、流木、空き缶をひたすら引っ張る金太郎姿のサングラス男。大木に登ろうと何回も何回も挑戦するが、うまくいかない。今度は、縄を使ってよじ登る。たばこを一服すると、遠くに向かって「オーイ」と叫ぶ。

・ベンチに座っている少年Bの前を、逆立ちで歩いて行く人々。

・ベンチに座っている少年Aの前を、逆立ちで歩いていこうとする少年B。が、なかなかうまくいかない。目が合う少年AとB。さげすんだ表情で立ち去る少年A。それを必死で逆立ちで追いかけようとする少年B。

・子供用の三輪車を必死にこぐ少年A。思うように進まない。

・竹早高校(新宿)の屋上で、“竹早全闘委”の大旗を翻す高校生闘士。カメラに向かってくる。顔を覆っていたタオルをとると、それは少年B。少年Bは、声を荒 くして、「ぼくは、ヒマなんだよ、退屈なんだよ。(カメラに指さして)君だって、何もすることないから、映画なんか撮ってるんだろ。退屈だから、やってんだよ。(本当に)わかってんのかよ。」と再び旗を翻しながら、去っていく。(バックには、もの哀しいスィングル・スウィンガーズの「アルハンブラの想い出」が流れている)

・バリケード・スト(竹早高校)の風景。

・再び屋上。アジ演説をする学生闘士(金太郎姿のサングラス男)。最後に彼は空に向かって大声で「オーイ」と叫ぶ。

・ひたすら池の回りを走り回る少年A。カメラの頭上を飛び越えていくストップモーション。

・FINの文字。×が書き加えられる。

・撮影風景。編集風景。

・編集用に下げられた膨大な8㎜フィルムの束の中に、映像は溶けこんでいく。

 

ぼくらは、撮影を終えた後、編集と録音の作業にとりかかった。共に作業場は、メンバーの家のどこかだった。これらの作業においても全員が揃うことはまずなかったので、吹き替えを行なった。福田の声が橋本だったり、橋本の声が後藤だったりした。ぼくは、ほぼパーフェクトに参加していたので、自分の声のままだった。

8㎜フィルムの編集は、非常に簡単にできた。小さな編集機にフィルムのパーフォレーション(両脇の穴のこと)を合わせて、繋ぐ部分を、それぞれ互いに1㎜ほど薄く削り、接着剤を付けて重ねるだけだ。しかし、これも熟練の技が必要 とされた。すぐにはがれたり、映写中に接着部分が引っ掛かり、フィルムがストップし、焼けてしまうこともしばしばだった。

『断絶』というアメリカ映画があった。1971年の作品で、ぼくはこれを試写室で見た。当時人気だったミュージシャンのジェームズ・テイラーとビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンが主演のロード・ムービーで、アメリカン・ニュー・ シネマの傑作のひとつと言われていた。現在ビデオ化もDVDにもなっていない、残念な作品だ。

試写室の一番前で見ていたぼくは、どこまでも真っ直ぐなフリーウェイの白線を、走りながら延々と映し出すラスト・シーンの最後、思わず悲鳴をあげてしまった。それは、フィルムが焼けるシーンだった。フィルムが止まり、映写機の熱で画面の中央あたりから周辺に一気に焼け広がる、そういう映像だった。ぼくは、8㎜で、何度も何度も目にしていたので、映写中の事故と思って、大声を上げてしまったのだ。このシーンは、8㎜などフィルムを映写した実体験のある人には、とてもとても心臓にこたえる映像だった。

ちなみに、この映画でとてつもなくビックリしたことがあった。それは、友達のD・ウィルソンが行きずりの女と寝てる間、モーテルの外でしゃがみこんでいるJ・テイラーの孤独な姿だった。未だかつて、こんな光景にはお目にかかったことがないものを見た。なんと、しゃがみこんだJ・テイラーの膝小僧が頭を20センチほどもオーバーしているのである。長身であることは知っていたが、こんなにも身体の構造が違うのか、とあ然とした。

家に帰って、しゃがみこんでみると、ぼくの膝小僧は胸のあたりにあった。

 

ぼくらは、「天地衰弱説」を完成させると、講堂で行なわれる卒業式の後、上映することにした。当日、メンバーやぼくは映研の部室で上映のための準備をしていて、卒業式には出なかった。講堂から卒業証書授与のため、マイクで呼ばれる卒業生の名前が聞こえてくる。メンバーたちの名前が呼ばれていた。ぼくの名前も呼ばれていた。

上映は予想通り、20名ほどの、いわゆる身内だけで終了した。ぼくたちは、卒業と打ち上げを兼ねて、大塚に出向き、高校生最後の宴会をした。

事件が起こった。酔った同級生の木下が、当時付き合っていた1年の女とうまくいってないらし く、突然宴会場から飛び出し、大塚に家があったその女の名前を絶叫しながら、彼女の家を目指して走り出した。数名がそれを追いかけた。木下は女の名を叫びながら、一枚一枚洋服を脱ぎ捨てていく。駅前の繁華街にさしかかると、その中の寿司屋に木下は入った。追いかけていた友人たちがその寿司屋に入った時は、もう遅かった。木下は、座敷に上がりこむや、宴会をしていた人々の大きな寿司桶の中に、ゲロをした。

遅れてきた仲間たちと客や店の人と一悶着が始まった。仲間は事情を説明し、ひたすらみんなで謝った。そこに、「そのケンカ、おれに預からしてくれ」とひとりの男が名乗りでた。 名刺をみんなに配った。そこには、“大塚のジョー”とだけ書かれていた。ヤクザだった。  が、当の木下はそんな状況にもお構いなく、大声をあげて、また逃亡を開始した。数名が木下を追いかけ、残された者が交渉にあたった。

示談金は3万円。当然、みんなに持ち合わせはなく、集めて持ってくる、ということになったが、大塚のジョーは「金と引き換えだ」と仲間の頼子を人質に取ってしまった。みんなは、トルコ風呂に売られると思った。

一方、パンツまで脱ぎ捨てた木下は、彼女の家に到達し、石塀の上によじ登り、仁王立ちで「○○子~、オレはお前を本当に愛してるぞ~」と絶叫した。玄関から彼女の母親が出てきた。ものすごく怒っていた。

 

前年の秋に粉砕された草月フィルム・フェスティバルに出品しようとしていた高校生たちを中心に、昭和45年3月14日、台東区の上野高校講堂で高校生映画祭が開催され、「天地衰弱説」も出品した。権威主義の否定から、順位を決めず、 観客の拍手でその評価を判断するという主旨で進められた。

「天地衰弱説」は、全員に拍手された。会場には、大島渚監督が来ていた。全ての上映が終わり、ぼくたちと原(将人)くんは大島渚監督に呼ばれた。相談があるので、近いうちに事務所(創造社)に来てくれ、ということだった。

数日後、赤坂見附にある創造社に、ぼくたちは訪ねていくことにした。

昭和45年2月、8㎜映画を撮っている最中、ぼくたち“グループ・ポジポジ”の面々は、大学受験をした。それぞれ志望の大学は異なっていたが、共通した大学 が1校あった。ICUと呼ばれた国際基督教大学である。なぜみんながここを狙ったのか、簡潔な理由があった。それは試験が全国初のマーク・シート式だったからである。

受験のためにもらった内申書を無断で開封すると、3年時のほとんどが出席扱いになっていた。まともに授業を受けたのは、2週間くらいだったから、ぼくは留年を覚悟していた。学校側の親心というより、厄介者は追い出せ、ということ なのだと、ぼくは解釈した。

そして、結局、留年になった者はひとりもいなかった。

同じ頃、アルバイトもしていた。友人たちは夜、営業後の“イトー・ヨーカ堂” の清掃に出向いていたが、ぼくだけは午前中に新大久保にある“東京オート”のビル清掃をやっていた。明治通りと大久保通りの交差点そばにあるこのビルは、現在も“ネッツトヨタ東京”として健在である。朝早い時もあったので、ここに近い竹早高校の音楽室や家庭科室に寝泊りし通っていた時もあった。

1階の隅に8畳ほどの警務員用の部屋があり、座敷になっていた。たまに、アルバイトのオバさんがやってくるが、いつもは、清掃主任の森さんとぼくの二人きりであった。

朝と昼には、この部屋で森さんが御飯を炊いた。「堀越くん、お昼のおかず、買いに行こう」と2軒隣りのパチンコ屋に入った。缶詰やビン詰め、ソーセージ、焼のり、ふりかけの景品がおかずとなった。パチンコ代は自腹であった。時給160円の時代であったから、ぼくにとっては相当きつかった。しかも玉が出た時に、大量に仕入れていたので、何日も同じおかずの時が続いた。

ある日、ぼくは森さんに提案をした。さんまの蒲焼きを細かく砕いて、炊き込みごはんにしたらどうか、と。たれも濃く充分に味付けがされているので、何の調理の必要もないのだ、と。森さんはその仕上がりを想像できず、悩んでいたが、そのまま食べるのに、飽きていたので、渋々オッケーをした。

全面こげ茶色のものすごい炊き込みごはんが出来上がった。森さんはア然とした。ぼくもビックリしたが、3合も炊いてしまっているし、提案者として毅然とした態度を取らなくてはと、ごはんをかき混ぜ、お腕に盛り、横にあった焼き海苔の封をきり、ちぎってふりかけ、森さんにハイと渡した。一口、二口食べた森さんは、「なかなかいけるよ、堀越くん」と笑顔になった。「煎り卵なんかもかけるともっといけると思いますよ」と少々得意気になっていたぼくは、その後、このさんまの蒲焼き炊き込みごはんが毎日続くとは知る由もなかった。  

このビルの横には、整備工場があり、その2階には、整備員用の風呂場があった。セメントで固められた岩風呂に見せた作りで、2、30人は入れる大きな風呂だった。月に一度か二度、お湯を全部抜いて、風呂場全体の掃除があった。デッキブラシで、岩肌をこすり、きれいにした後、お湯をたっぷりと入れた。朝一番からの作業だったので、ちょうど朝日が窓から斜めに差し込み、湯気を照らしていた。

ぼくは、心の赴くまま、服を脱ぎ捨て、湯船につかった。幸せな気分であった。そしてそのまま、ぼくは眠ってしまった。

森さんに起こされたぼくは、その日、クビになった。

4月のある日、グループ・ポジポジは、大島渚監督に会いに、赤坂見附にある創造社を訪ねた。原(正孝)くんも呼ばれていた。オフィスには、大島組の錚々たる面々が揃っていた。俳優の佐藤慶、戸浦六宏、渡辺文雄、脚本家の田村孟、佐々木守。大島渚監督が話を切り出した。『映画で遺書を残して死んだ男の物語』を作りたいのだが、どう思うか、意見を聞かせてくれ、というのである。

数時間の意見交換をして、その日はポジポジと原くんとがそれぞれにストー リーのようなものを考えてくるということで落ち着いた。ぼくたちは帰路についた。福岡が「何で、大島にそんなすごい発想があるんだ。くやしいよな、そうだろ。」とみんなに問うた。みんなはそのとおりだ、とただただ黙って歩いていた。

ぼくたちは、ぼくたちなりの簡単なストーリーを考え、二回目の訪問をした。

結局、映画のシナリオは、原くんのシノプシスに、佐々木守さんが手を加えることで、進めることになった。

ぼくたちは、悔しさもあって、折角考えたシナリオをもっと詰めることにした。詰めるに従って、このテーマは自分たちそのもののような気がしてきた。やがて、自分たちでも撮ろう、という気運に変わっていった。

再び、大島渚監督から連絡が入った。今度は、出演の依頼だった。

本(シナリオ)を読みに、創造社へ行った。原正孝・佐々木守の共同脚本は、ぼくたちを意識した大学映研という設定になっていた。男6人と女2人の大学映研のメンバー、この中に主人公の男女がいた。

題名は『東京戦争戦後秘話』。

ぼくたち素人6人に、同じく初体験の岩崎恵美子と大島ともよの2名が加わり、 主役は後藤と岩崎がなった。主役の二人は30万円、その他はひとり5万円のギャ ラだった。当時の大学卒初任給が5万円位だったから、正味4、5日で撮影が終了してしまう、その他のぼくたちにとっては破格といえた。

これで、とりあえず、グループ・ポジポジの次の映画資金が確保できた。

『東京戦争~』クランク・インの前日、ポジポジの面々は、顔合わせをした助監督たちに新宿の飲み屋“ユニコーン”(今はなき新宿伝説の飲み屋。『新宿泥棒日記』で、佐藤慶らがエロ談義をする場所がここだったような気がする)に連れていってもらった。この上なく旨いこの店の名物ハンバーグを何十個もたいらげ、ホワイトを何本も開け、そのまま、朝その足で創造社に出向いた。助監督たちは、大島監督やプロデューサーの山口卓治に怒鳴りつけられていた。 ぼくたちと何万円もの飲み代を使ったからである。

撮影は、虎の門から始まった。撮影は前年『心中天網島』(近松門左衛門の浄瑠璃を映画化した昭和44年の 篠田正浩監督作品)を撮った成島東一郎(これまで「秋津温泉」などの吉田喜重監督作品、「紀ノ川」などの中村登監督作品を多く手掛けていた。以後、大島渚監督「儀式」「戦場のメリークリスマス」 の撮影を担当。自らも「青幻記」を監督。 「心中天網島」での白黒映像が高い評価を受けていたが、成島さん自身はカラー映像での撮影を主張していた。同じく白黒映像を望んでいた大島渚監督の考えを覆してカラーで撮った「儀式」の試写会後、篠田正浩が「やっぱりカラーにすべきだった」と後悔の弁を述べたが、成島さんは心の中で「ザマーみろ」と思っていたに違いない)で、この映画から日本映画史上初の“撮影監督”というポジションが誕生した。大柄で色白、長髪の大島渚監督とは対象的な、小柄で頭は角刈り、真っ黒で精悍な面構えのおじさんだった。

彼の大島監督との奇妙な駆け引きがとても面白かった。

普通、映画の撮影は、絵コンテなりがあり、それに基づいてカット割をしていく。つまり、監督が頭に描いた映像を撮るために、監督が撮影のポジションやサイズの感じをカメラマンに指示していくものなのだ。

大島渚監督も首からぶらさげたスコープ(画面サイズをある程度変えて覗ける小さな単眼レンズ)を使ったり、両手の親指と人差し指で四角いフレームを作って、成島カメラマンに、ここからこう撮ってという指示を出していた。

だが、成島さんは、監督の指図には全く耳をかさず、自分なりに考えた場所での撮影を助手たちに指示していた。つまり、大島監督の言うことを聞かないのである。これが“撮影監督”ということなのか、と漠然と思った。バツの悪そうな大島監督の姿。やり場のない怒りがいつか爆発するな、と現場のだれもがそう思っていた。

主演の後藤以外ポジポジの出演は、わずかだった。しかし、この本格的な映画撮影の現場はぼくにとって初めての経験で、ものすごく魅力のあるものだった。毎日が発見だらけで、楽しく、勉強になり、興奮もできた。ぼくは出番がなくて も、撮影隊や助監督の手伝いをすることにした。

成島東一郎の事務所“キャビネット・オブ・エヌ”は創造社のすぐ近くにあり、 若手のカメラマンが自由に出入りしていた。みんなは、成島さんのことを“トイチロー”と遊んで呼んでいた。

撮影に入って間もなく、ここで撮影準備の手伝いをしていたら、関西弁のカメ ラマンがぼくに声をかけてきた。みんなから“せんちゃん”と呼ばれていたこの男は、日本テレビのドキュメンタリー番組の“大島渚”を撮っていた。こっちを手伝わないかと声をかけてきたのだ。

そのカメラマンの名は、仙元誠三(「少年」(昭和44年大島渚監督)で共同撮影、同監督の「新宿泥棒日記」にてカメラマンとしてデビュー。この後、角川映画を中心に大ブレイク、日本を代表する名カメラマンのひとりとなる)といった。

カメラマン仙元誠三は、日本テレビのドキュメンタリー番組の“大島渚”を撮っていた。夜10時半からの30分番組で、“吉田喜重”と併せて放送された。現場にはディレクターらしき人はおらず、ひとりで『東京戦争戦後秘話』を監督する大島渚の姿を追っていた。カメラは、ドイツ製アリフレックスという当時のオーソ ドックスな16mmカメラだった。ぼくにとっては後で登場するボレックスとともに、初めて接する16mmカメラだったが、仙元さんについて、フイルムの装填や入れ替え、扱い方、現像の指示出しなど、一連の作業の仕方を学んだ。  しかし、最大の収穫は、パン(ニング)のタイミングや構える足の位置、ズー ミング、手持ち撮影の工夫など、プロのカメラマンのテクニックを身近で盗めたことだった。

『東京戦争戦後秘話』の撮影の昼休み、お弁当を食べながら、仙元さんが、 『栄光への5.000キロ』(*昭和44年、石原プロ製作作品。監督蔵原惟繕、主演石原裕次郎。サファリ・ラリー に挑む日本人レーサーを描いた大作)という映画の話をしてくれた。ぼくは、高校3年の時、通っていた耳鼻科の19歳の看護婦さんとデートで見ていた。つまらない映画であった。

仙元さんは、物語を撮るメイン・カメラ以外のカメラ・クルーのひとりとして参加し、苛酷なレースの模様を撮っていたのだ。 ぼくは、感想を正直に告げた。ただ、山の上から砂漠を俯瞰し、走る車は見えないが、砂塵がもくもくと舞い上がっていくシーンだけは、とても印象に残っていると話した。仙元さんはニヤッと笑った。「それ、おれが撮ったのよ。絶対に 使ってもらえると思っていた画(映像)だったんだ」

その後、仙元さんとは、ぼくが大学に入った翌年、再び出会うことになる。

『東京戦争戦後秘話』の撮影でも、大学映研のメンバーの役だったので、実際に16mmカメラを回す機会に恵まれた。

この頃、日本製の16mmカメラはまだなかった。ボレックスというスイス製の一番手軽で安価なカメラを使用した。本番でも待ちの状況でも、みんなで回して感触を覚えていった。このボレックスは弁当箱を縦にしたような形で、前部に付く 3個の単眼レンズを使い分けるものだったが、なんと動力はぜんまい式だった。つまり、本体横に付いているぜんまいを目一杯ぐるぐると回しておいて、スター ト・ボタンを押すとフィルムが回り始め、約30秒ほどで終了した。よく壊れるの で、“ボロックス”とも呼ばれていた。

ロケセットでのぼくたちの出番の時、大島監督が「泰子、ちょっと軍手してみようか」と映写機を回そうとしている主演の岩崎に指示した。みんな何で軍手をする必要があるのか、理解に苦しんでいた。ぼくは冗談まじりで「これがヌーベ ル・バーグなんだよ」と言った。みんなは大笑いした。その時、大島監督はぼくをキッと睨んでいた。

しばらくして、ぼくのアップの撮影があった。セリフは「元木、まあ、すわれよ」(*元木は主人公の名前)と言うわずか3秒程度の撮影なのに、何回やってもNGだった。何でなんですか、と大島監督や成島カメラマンに聞いても答えてく れない。パニックになった。あんな事、言わなきゃよかった、と後悔をした。よ うやくOKが出た。NGの理由は、ぼくがセリフを言う間、必ず1回瞬きをするからだった。

ぼくたちグループ・ポジポジは、『東京戦争戦後秘話』の撮影中、自分たちの撮る映画のシナリオを完成させた。そして、即撮影を開始した。

タイトルは『天地衰弱説第二章』。

ギャラの蓄えもあったので、覚えたての16mmフィルムで撮ることになった。新宿御苑旧新宿門の前にあった“新宿ムービー”(新宿御苑旧新宿門正面右、現在の堀内カラー新宿営業所のあたりにあった、小さな8mm・16mm専門のカメラ店。親父はいつもベレー帽をかぶっていた)で中古のボレックスをレンタルした。フィルムも購入したが、まだまだ足りないので、『東京戦争戦後秘話』で使った 16mmフィルムの残りをもらいに、成島さんの事務所“キャビネット・オブ・エヌ” に行った。

成島さんは、カメラ好きのぼくを可愛がってくれていたので、「16mmの余尺 (撮り残しの文字通り余ったフィルム。16mmは8mmのようにマガジン・タイプではないので、全部撮り切らず、今カメラに入っているフィルムでは、次のカットが撮れない(足りない)場合、新しいフィルムと交換し、別のカットの時使用する という、無駄のない使い方をした)をください。」と言うと快く、余尺や期限切れのフィルムを出してくれた。

そして、冗談半分に、うちにこないかと誘ってくれた。但し、条件があった。当時ぼくは、髪の毛を長く伸ばしていたが、スポーツ刈りにしなければだめだと言った。よく見ると成島さんの弟子たちは皆スポーツ刈りだった。これには、大きな 理由があった。フィルムにとって、髪の毛とフケは大敵なのだ。

結局、成島さんの世話になることはなかったが、その後も成島さんの事務所によく出入りしていた。ここの事務所には、101匹ワンちゃんのダルメシアンの子犬が一匹いた。

最初、テーブル上で見かけたぼくは、全く動かないこの子犬を置物だと思った。しかも、きちっと毛が生えていたので「よくできた置物ですね」と事務所の女の子に言った。そして、持とうと触れたとたん、無表情のまま、ぼくをチラッと見た。「ワァオー」ぼくはびっくりした。この子犬は、脳の手術をしたので、普通に動けなくなったのだそうだ。

成島さんに、「この犬、ください」と言ったが、 これはあっさり断られた。

“映画で遺書を残して死んだ男の物語”を主題にした『天地衰弱説第二章』は、思いつくままに撮っていった前作『天地衰弱説』とはかなり違い、シナリオが時間をかけて練られていたので、そのとおりに撮影は進められた。

「遺書」と書かれたフィルム缶を残して、映画制作仲間のひとりが首を吊り、死んだ。本当に死ぬつもりで撮ったのか、「遺書」という作品を撮っている最中の事故死なのか、何故(自分が)見れもしないものを撮ったのか、死を見せることの行為が真実への追及だったのか……、残された者たちの想像(推理)と“違う、違うんだよ”と唯一死んだ男の気持ちを知っている(かのような)少年との行動で、物語は進んでいった。

撮影はいつものように全員で回してはいたが、今回ぼくが多くを回すことになった。

ぼくは撮影に慎重だった。8mmとは違い、かなり難しかったからだ。フィルムも高いので、無駄にできず、なおさらだった。外の撮影は、太陽光線があるので、何とか誤魔化しはきくのだが、今回室内の撮影も多くあり、ライティング(照明)という新しい技術を要していた。勉強したわけではないので、見よう見真似でセッティングするしかなかった。しかも、ボレックスは、ファインダーが 直接レンズを通して見れる(一眼レフ)ようになっていなかったので、実際、出来上がった映像は、微妙に左右にズレるのだった。これは、一律したものではな く、カメラ一台一台で違っていたから、とてもやっかいだった。克服するには経験が必要だった。

後藤、橋本とともに“グループ・ポジポジ”の中心的存在だった福岡から、「さっさと撮れよ」「遅いよ、何してんだよ」「早くしろよ」としょっちゅう文句を言われた。挙げ句の果ては、「お前は撮影より被写体に向いているんだよ」とまで言われてしまった。

その日の撮影が終わると、六本木旧テレビ朝日の敷地内にあった横浜シネマ現像所に持っていった。翌日、現像されたフィルムを受け取り、ラッシュを見るが、満足いく出来ではないため、取り直しも多かった。

16mm映写機は区役所から借りてきたものだった。借りるには、映写免許が必要だったので、撮影の合間をぬって、磯貝が区役所での講習会に何日か出席し、免許をとり、ようやく借りることができた。

編集やダビングは、浦岡編集室に就職した大島ともよにも手伝ってもらい、浜町にあった東京テレビセンターで行なった。

こうして、『天地衰弱説第二章』は昭和45年夏に完成し、新宿・四谷公会堂で自主上映をした。

ぼくたちは、大島渚監督作品に出演をしたことで、テレビに出ることになった。番組は、森光子司会のフジテレビのワイドショー『3時のあなた』。ぼくたちは『3時のどなた』と茶化していた、この番組の討論会に出た。テーマは「18 歳は大人か?子供か?」。

ぼくたちは、“どっちでもいいじゃん”という結論だったが、進行役に加わっていた立川談志が「ガキはどこまでもガキだ」と一方的にしゃべりまくった。森光子にも止められる状況だった。彼は酔っ払っていたのだ。緊張していたぼくは、談志の大人気ない姿を見た安心感からか、こういう大人にはなりたくないな、とちょっとだけ思った。

昭和45年はまさに揺れ動く時代の真っ只中にあった。

揺れ動く時代、それはどこに向いているのか、全くの闇であった。ただ、既成の概念やしきたり、様々な決まり事、そして自分の回りに関わり合うもの、それら全てに対して、苛立ちを覚え、訳も分からず反発していた自分がいた。これといった確信を持てないまま、不安を抱きかかえながら…。それがぼくの18の時だった。

日本中がやんやのバカ騒ぎをした大阪万博が開催された。ぼくは全くの無関心であった。そして衝撃的な事件、よど号ハイジャックが起こり、善し悪しもわからず何かしなければ、といった意味のわからぬ焦りを感じていた。

映画『イージー・ライダー』で、自由とドラッグに憧れ、そしてそれらと背中合わせの死を知った。とてつもなく生きていくことがやるせなくなった。

自分の生き様を叫んだ吉田拓郎やRCサクセションを好んで聞いていた。新しいギターを買い、彼らの歌を一生懸命に覚えた。

どうしようもない明日を描いた漫画「銭ゲバ」(ジョージ秋山)や「光る風」(山上たつひこ)に夢中になっていた。

そしてその秋、目白にあった後藤の家で麻雀をしていた時、三島由紀夫の市ヶ谷自衛隊バルコニー占拠、そして割腹自殺をテレビで知った。ぼくたちはテレビを見ながら、事の成り行きを理解できず、心はうろたえていた。

 

ぼくたちグループ・ポジポジの面々は、賭け事が大好きだった。空いた時間があれば、必ず何か賭け事をしていた。麻雀にビリヤード、とりわけおいちょかぶやコイコイは人目がなければ、公園でも道端でもどこでもやっていた。ぼくたちにとって賭け事は、まるで憂さ晴らしのようだった。

もうひとつ熱中した、多分ぼくたちだけしかやってない遊びがあった。喫茶店に入れば必ずやったその遊びは、喫茶店のマッチ箱を各人が1個もち、1対1で行なうものだった。ルールは簡単、マッチ箱を指を使って弾き、自分のマッチ箱 を相手のマッチ箱の上に完全に乗せれば勝ちというものだった。1回ごとに交代 してプレイするのだが、結構テクニックが必要だった。マッチ箱の端を中指や人差し指で弾いて、回転させ、相手のマッチ箱に乗せるのだが、この時、他の指や指の腹、手の形、甲を利用していくのだ。

やがて、マイ・マッチが登場した。純喫茶プリンスの大きなマッチ箱を常に携帯していた福岡は、連戦連勝した。みんなは、同じプリンスのマッチ箱では能がないと思い、実戦向きの安定感のよいマッチ箱を探し始めた。

屋外では、10円玉のコインゲームをよくやった。これは、垂直に立った塀に向かってコインを投げ、塀に当てて(直接塀に当たらなければ負け)、より塀の近 くに落ちたものが勝ちとなるゲームだった。これは、映画『シンシナティ・ キッド』(65年・アメリカ。監督ノーマン・ジュイソン。自由奔放な若きギャンブラー、シンシナティ・キッド(スティーブ・マックィーン)がニューオリンズを舞台に、長年その世界のポーカーのチャンピオンに君臨しているザ・マン(エドワー ド・G・ロビンソン)に挑戦する、『ハスラー』と並ぶ男の勝負映画の大傑作)で覚えた遊びだった。

『シンシナティ・キッド』で、ぼくは大事なことを学んだ。それはテーブル・マナーであった。当時は、西洋料理のマナーをテレビや雑誌で盛んにレク チャーしていた時代で、特に結婚式の披露宴のテーブル・マナーだったが、魚料理用、肉料理用のフォークとナイフの違い、使う順番、食べ方、終わりの合図、ナプキンの使い方…。ぼくは右手にナイフ、左手にフォークを持ち、左手のフォークで食べ物を口に入れる、これがどうしても馴染めなかった。特にライスをフォークの背に乗せる曲芸のような食べ方は、ばかなことをやらせんなよ、と怒りにも似た気持ちでいた。できないことはなかったが、仕込まれた猿のような自分が嫌になるので、絶対にやらなかった。

ところが、この映画の主人公スティーブ・マックィーンに光明を見出した。師匠の家での安いステーキだったと思うが、左端から一口大に肉を切ると、ナイフを置き、右手にフォークを持ち替えて食べた。そして、また食べる分だけ切って、右手にフォークを持ち替えた。何の違和感もなく、ごくごく普通の仕草だった。ぼくは“これだ!”と思った。しかも人としゃべりながらのそのさりげなさが、ぼくにとってはとてもかっこよく思えた。今では、フォークとナイフなんて、当たり前の時代になっているが、その草創混迷期である当時、猿真似ではな いこの発見は、ぼくに多大なる影響を与えたと言ってもよかった。それは、ぼくにとって、“生き方”だったからだ。

 

『東京戦争戦後秘話』がATGで上映され、ぼくたちの『天地衰弱説第二章』も四谷公会堂などでの自主上映が終えた頃、佐々木守さんから電話が入った。何事かと思いきや、事務所の引っ越しを手伝ってくれ、という用件だった。

ぼくたちは暇を持て余していたので、笹塚駅前のマンションに手伝いに出掛けた。作業が終了すると、佐々木守さんは「いくらほしいんだ」と聞いた。みんなはためらっていた。ぼくは、心の中で、5千円くらいかな。でも佐々木守さんは金持ちだからな、なんて思っていたところに、「堀越くん、いくらよ」と不意打ちをくわされた。ぼくは瞬間「1万円!」と返答してしまった。佐々木守さんは、驚いた顔も嫌な顔もせず、ごく普通に財布を取り出し、みんなにそれぞれ1万円ずつ渡してくれた。

帰り際、一緒に手伝った原(将人)くんが、「堀越くん、よ く言った!」とうれしそうな顔で、ぼくの肩をぽんぽんぽんとたたいた。

この頃、佐々木守さんは、大島渚監督等の映画脚本だけでなく、『ウルトラマン』や『柔道一直線』などの人気TVドラマの脚本を書いていた。

そして、漫画の原作者としても活躍していた。大好きだった少年サンデーの『男どアホウ甲子園』(水島新司)の原作も佐々木守さんだった。

この連載が始まって間もない頃、佐々木守さんと野球の話をした。ぼくたちは驚いた。「フォアボールって、何?」「ヒット・アンド・ランって、何?」。野球を知らないのである。知っているのは、三振とホームランだけ。だから、あんな豪快な漫画になるのかと、と思い、同時にこんな世界がありか、と感心した。

ある日、再び笹塚の佐々木守さんの事務所に呼ばれた。漫画の原作の相談だった。当時、佐々木さんは、少年サンデーに高校生を主人公にした『高校生さすらい派』という漫画の原作を書いていて、その“高校生シリーズ”第二弾を、連載する予定であった。それで、高校生活のおもしろい話を聞かせてくれというものだった。ぼくたちは、自分たちの経験した学校の体質や出来事、学校の予備校化、教師のこと、男女関係、クラブ活動、近くの喫茶店、学生運動家の友人、“ 生徒権宣言”というものを掲げたこと、バリケード・ストなどの話をした。

佐々木守さんは、既に構想があったらしく、それにぼくたちの話を付け加えたりして、アッと言う間に、ストーリーを作り上げた。「主人公の女生徒の名前は何にしようか?」と佐々木さん。「竹早(高校)に、なんとか若葉って、女いたよね」と福岡。「よし、若葉にしよう」とさっさと決めてしまう佐々木さん。

こうして、できあがったのが、『ぼくたちの伝説』という前編・後編と2週に分かれた漫画だった(作品を見た時、想像以上に、学校等の建物や屋上の描写や教師のある人物像が現実に近いものだったので、とてもびっくりした。ストーリーは、奔放な女生徒・若葉の行動が、東大を目指す優秀な生徒からクラブ活動に熱中する生徒、学生運動に走る生徒、頭のちょっと弱い理事長の息子等と絡み合い、名門受験校である学校側との軋轢がエスカレートしていくもの。これらを通し、若葉は何かが違うと思い悩みながら自らの命を絶つ)。

漫画家はみやはら啓一という人だった。彼は、“ぼくたち” ではなく、“おれたち”にしたいと佐々木さんを通して言ってきた。ぼくたちは、 “おれたち”なんかではなく、絶対に “ぼくたち”だと主張した。佐々木さんも同調してくれた。

これは、ニュアンスの問題だった。“おれ”や“わたし”や“我”や“ 自分”でもなく、“ぼく”。ここで書いているエッセイにも自分自身の表現として“ ぼく”という主語を使っているが、他の表現よりも“ナイーブ”さを持ち合わせているためだ。

この後も、少年キング連載の佐々木守原作“高校生心中”シリーズのストーリーにも、各自プランを出してくれということになったが、橋本の鳥取砂丘で焼身自殺する話が採用された。

今思えば、すごい話だ。高校生がバンバン死んでいく漫画なのだから。(ちなみに『ぼくたちの伝説』のラストも主人公若葉が学校の焼却炉の中で自らの命を絶った)

そして、佐々木守さんは、この年の秋、“脱ドラマ”と称されたTVドラマの大傑作『お荷物小荷物』(*TBS制作。男尊女卑の塊のような男だけの家庭に、中山千夏扮するお手伝いさ んが入り込み、男どもを腑抜けにしていき、女権を勝ち取るストーリー。ドラマなのに、話を途中で分断したり、カメラに向かって話かけたり…、政治批判もなんでも盛り込んでしまう、当時では考えられない型破りな佐々木守の脚本が話題になった)を登場させた。

この頃、ぼくたちグループ・ポジポジの間でちょっとしたアイドルがいた。今で言えばカルト俳優とでも呼ぶのだろうか、バッド・コートというアメリカの男優だった。

感情を殺したかのような無表情、絶対に笑わない泣かない怒らないこの若者は、目のクリクリとした童顔に似合わず、胸毛がしっかりと生えていた。彼を初めて見たのは、『バード・シット』(70年アメリカ製作。監督ロバート・アルトマン。連続殺人事件が起こる。被害者には鳥の糞が落とされている。だれが、何のために…。一方、屋内野球場アス トロドームの地下では、鳥のように飛ぶための特訓に励む少年がいた。警察が追い詰めると、羽根を付けた少年は自由に向かって羽ばたき、飛び上がり、逃げようとするが、球場はまるで鳥籠のよう…)というロバート・アルトマン監督の、ブラック・ユーモアに満ち満ちた、ひたすら鳥になろうとする少年の不思議なコメディだった。

たて続けに、19歳の少年と80過ぎの老女の恋愛を描いた『少年は虹を渡る』(71年、アメリカ)を見た。これは、よくあるプラトニックものではなく、性交渉を行なった後の(ような)ベッドでの寝物語がしっかりと描かれていた。監督はハル・アシュビー。これもブラック満載の映画だった。

自殺願望(?)の強い少年ハロルドは、首吊り、焼身、腹切り…あらゆる自殺を試みて、お見合い相手をビックリさせているが(家族はもう慣れている)、何故か死なない、死ねない。一方、老女モードは元気いっぱいに、常識を無視した自由な生き方を満喫している。世間からは非道徳な女と見られながら。二人はひかれあい、愛し合う日々が続く。

そして、ある日、モードは死期が迫っていることをハロルドに伝える。ハロルドは一緒に死ぬと言うが、モードは生きることの大事さを教える。そして、静かに息をひきとる。傷心のハロルドは、死んだモードを追って、アクセルをいっぱいに踏みこんで、断崖絶壁から車ごと飛び込んだ…。

かつて、『キャリー』のオチをしゃべって、首を絞められたことがあるぼくだが、ビデオにもDVDにもなっていないし、時効と判断し、オチを言ってしまおう。

だれもが死んだと思ったハロルドは、断崖の上にたたずみ、落ちた車を見つめていた。しっかりと生きていたのだ。そして、キャット・スティーブンスの軽快な歌をバックに、スキップをしながら(だったような気がする)、家路へと向かうのだった。

傑作だった。人を食った話なのに、泣けて、そしてすがすがしい気分になった。

その後、彼が主演の映画はない。彼を見かけたのは、ビデオで『フェアリー・ テール・シアター』でのちょい役と未公開映画でのレインコートを羽織った観光客相手のチン見せ痴漢役だった。

『少年は虹を渡る』は、“ぼくの映画ベストテン”に入る作品だが、同時期に“ ベスト3”に入る素晴らしい大傑作を見た。『早春』(70年、イギリス・西ドイツ。監督イエジー・スコリモ フスキー)という映画だった。

公衆浴場で働く少年(15歳)は、そこの接待係の年上の女(23歳)に恋をする。が、女は裕福な恋人がいるにもかかわらず、水泳コーチをしている中年男の愛人でもあった。彼女は、中年女客からからかわれて逃げ惑う童貞であるその少年を見下していた。そして、少年は彼女に見立てたヌード・ダンサーの立て看板を水中で抱いたりの、屈折した日々を送る。それは妄想と錯綜する異常なるシー ンの連続で、それらのシュールな映像は死をイメージし、どうしようもない狂気をもはらんでいた。ある日、少年は思いを遂げる。ラスト、少年は、プールで血みどろになった裸の彼女を愛おしく抱きながら、一緒に水中にと沈んでいくのであった…。

これもなぜか、『少年は虹を渡る』と同様、キャット・スティーブンスの主題歌が流れた。が、こちらのは悲壮感に満ち満ちていた。かなり、やるせない映画ではあったが、ぼくには、その少年の気持ちや心情が痛いほど、よくわかったような気がした。表現力も素晴らしかった。監督はポーランド出身の作家イエジー・スコリモフスキー。ロマン・ポランスキーと友人であり、『水の中のナイフ』も共同で脚本を書いていた人物だ。

昭和45年には、偶然にも“巨匠老いたり”と評された映画を2本見た。

1本は、ジュリアン・ディビビエ監督の『並木道』(61年、フランス。監督ジュリアン・ディビビエ)というフランス映画で、TBSの深夜に放送された。

見始めて、オオッと身を乗り出した。トリュフォー作品によく登場する、ぼくの大好きな俳優ジャン・ピエール・レオーではないか。しかも子供だ。

アパートの屋根裏部屋にひとりで住んでいる身寄りのないレオー少年は、向かい部屋に住んでいるストリッパーに恋をしている。ある日、食べようとしたジャ ガイモが生煮えだったのに腹を立て、ジャガイモを窓から投げると、通行人のボクサーの頭に当たってしまう。怒ったボクサーは、レオーの部屋に怒鳴り込む。 レオーも抵抗するが、相手にならない。そこへ何事かと顔を出したストリッパーに、ボクサーは一目惚れ。ボクサーとストリッパーは懇ろになり、レオーにとっては踏んだり蹴ったりの事態となった。

「大人って、汚ねえや」とレオー少年は部屋に閉じこもってしまう。何日も何 日も出てこないレオー少年をアパートの住人や大家の娘でレオーを好きな、おませな少女たちが心配して訪ねると、何とレオー少年は、ストリッパーを取り返すために、部屋にサンドバッグをぶら下げ、ボクシングの特訓をやっていたのだ。

もう1本は、同じくフランス映画で、マルセル・カルネ監督の『若い狼たち』(68年、フランス・イタリア。監督マルセル・カルネ)。これは劇場で見た。お調子者の男に愛想をつかしている女との若いマンネリ・カップルと大富豪のプータラ息子の3人の青春もので、最新情報発信地であるパリのいろいろなロケーションが楽しめた作品だった。特に最先端のディスコティックの雰囲気、パリの黒人はかなり洗練されていることなどを知った。そして、気が遠くなるような大金持ちの邸宅の広さと何百着という洋服がぶらさがったプータラ息子のクローゼット、日本とは桁が違うなと感じた。このおかっぱ長髪のプータラ息子がなかなかいい奴で、故ブライアン・ジョーンズに似ていた。

こうして書いてきたぼくの青春時代の愛すべき映画たちは、不幸なことに、いずれもビデオにもDVDにもなっていない。(注・書いていた当時は、です)

続く

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私家版「記憶の残像」④~新宿騒乱

昭和43年、高校2年の後半から、竹早高校は校舎全面改築のため、都立新宿高校の校舎に間借りすることになった。
新宿高校の校舎は、明治通りと甲州街道の交差点近く、新宿御苑の新宿駅寄り方向隣り、内藤町に位置していた。古い木造2階立ての校舎は、風格があるとも言えぬオンボロ校舎だったが、理科室とか美術室にある備品関係は、いわゆるアンティークなものが多く、興味をそそられた。
周りに何もなかった文京区時代に比べると、多くは新宿駅南口から甲州街道沿いを歩いて登校していたが、別のルートである中央口を出て新宿中央通りを抜けて通う道すがらは、青少年たちへの誘惑そのものであった。
喫茶店、同伴喫茶、ラーメン屋、天丼屋、定食屋、パチンコ、スマートボール、居酒屋、キャバレー、バー、スナック、麻雀荘、撞球場、レコード店、本屋、洋服店……、種々雑多で魅力溢れる通りであった。普通に歩けば5分で抜けられるのに、30分も40分もかかって学校に着く有様だった。
やがて、トースト2枚とゆで玉子の喫茶店のモーニング・サービスに味をしめ、1、2時限目をさぼるようになるまで、時間はかからなかった。

喫茶店で、ぼくは8㎜(フィルム)で撮ろうとシナリオを書いていた。よく寄っていたのが、名曲喫茶『ウィーン』で、表も中も石レンガが露出する細長い建物は、地下1階から3階まであり、各フロアに3、4つのテーブル席と階段の折り返しの各中階に1テーブルがあった、とても狭いが落ち着く場所だった。
現在でいうと、中央通りの御苑に向って右側で、わが社の特定某社員が毎月1回打合わせ代と称して、お昼の特上ヒレカツ定食の領収書を出してくる、“とんかつ三太”のあたりにあった。ここは、のちに元ザ・タイガースの加橋かつみとミュージカル「ヘアー」の主演寺田稔が大麻所持で現行犯逮捕された場所でもある。
新宿中央通りには、現在のロッテリアと喫茶西武のビル、そして隣のパチンコ屋あたりの一画に世界的に有名な場所があった。喫茶『風月堂』である。ここは、世界の“ヒッピー”たちのガイドブックに紹介されていた、ヒッピーの溜まり場= 聖地だった。
この頃、日本では、とりわけ新宿で、ヒッピーに似た人種が生まれていた。“ フーテン”である。
ヒッピーは、反戦だの、ラブ&ピースだの、権力に対して自由な思想と言動を表現していた人種で、多くの芸術家や文化人等の支持があったのに対して、フーテンは高度経済成長の中、画一されていく若者世代の反抗の姿であり、何もしない自由をもつこと、つまり働かないで気ままにその日を暮すことが、世間から非難の対象になっていた。
彼らの行為で大きく違うのは、ヒッピーは大麻という麻薬なのかそうではないのかという法律、医学的観点からの論争を導き出したのに対して、フーテンはだれもが非を認めざるをえないシンナーを吸っていたことだ。彼らの聖地は、新宿東口駅前広場だった。

ぼくは、『ウィーン』でひとりの男と出会った。自分ひとりでは、どうにも映画が作れないことに焦りを感じていた時、竹早高校にも映画研究会が最近出来た事を知った。その代表に会いたいと伝言し、『ウィーン』で待ち合わせをした。
代表の名は、後藤和夫といった。同期生であった彼とは、高校1年の時、同じ赤羽出身の誼みで、帰りに美人姉妹がいる地元のあんみつ屋に連れて行った事があった。
彼は彼で、テニスクラブの練習中、ボール拾いで鉄棒に衝突し大怪我をしたドジなやつが、実はぼくであったことをこの時知り、大いに笑った。
ぼくは、自分の書いたシナリオを彼に見せた。彼はしばらくの間、それを読んでいたが、おもしろいね、と言った後、これから撮ろうとしている8mm映画があるのだけれど、一緒にやらないか、とぼくを誘った。
後藤たちには心強い仲間がいた。草月フィルムアート・フェスティバル68にて、「おかしさに彩られた悲しみのバラード」でグランプリを取った麻布高校の原将人(旧・正孝)だった。
一つ年上の彼は、よく新宿に来て、ぼくらと映画の話をした。場所は、『ウィーン』の3件隣の純喫茶『プリンス』(現在のシア ター・モリエールの場所)の2階に決まっていた。3階は同伴喫茶になっていたこの喫茶店は、とにかく広かった。大声で話すぼくたち、コーヒー一杯で6時間も7 時間も粘るぼくたちのことをやさしく放っておいてくれた。
彼はぼくたちに、「東京はもう砂漠だよ」と話し、その言葉のひとつひとつがぼくにとって難解であったこと、そして重みのあるヒントであったことを記憶している。

ぼくたちがこうして新しい映画を撮ろうとしていた頃、大学紛争が都市部を中心に勃発していた。大学へ進もうと思ってはいたものの、受験戦争とその教育、その環境について、いくらかの疑問を抱いていたぼくは、漠然とではあるが、“自分が自由でいるためには”という時代のテーマを体で感じとろうとしていた。
翌年に入ると、竹早高校の学園紛争が始まるのだが、その兆しは文京区時代にあった。 それは、2年の時に実施される修学旅行で、教師2名が下見に行ったことがきっかけだった。修学旅行の行き先は、京都とフェリーで小豆島に渡るものだった。 ところが、教師たちは、何と九州まで出掛けていたのだ。当時の3年生が見つけ出したのだが、どうやってこんな事を調べたのか。
その追及集会が講堂で開かれた。この中で、学校側が行っていないと一点ばりで、半ば水かけ論になっていた。その内だれかが、新幹線で行く予定を修学旅行専用列車に変更してほしい、と言い出した。みんなも、そうだそうだ、と騒ぎ出 した。教師の答弁は、「現在、その列車は走っていない」というものだった。即座に噛み付いたのは、どこの学校にもひとりはいる、鉄道マニアだった。「嘘を言うな。ちゃんと走っているぞ」と時刻表まで読みだし、証明をした。ここで、教師の嘘がはっきりと露呈されたものだから、生徒側は一気に攻め立てていった。 教師に対して「土下座しろ!」と言った奴もいた。こいつは、数年後、交通事故で死んだ。

ぼくは、この時点で、学校行事を運営している篁(たけむら)会という団体から脱会した。毎月、この会に授業料と一緒に500円の積立を払っていた。この500円が、例えば、同窓会の名簿作成の費用とかお知らせの郵送代、卒業アルバム製作の費用とかにあてがわれるもので、校舎とは別の、校門脇の小さな建物に事務局があり、文具関係の販売もしていた。ここに、卒業アルバムもいらない、同窓会にも出ないので知らせもいらない、だから、これまで積立てたお金を返してく れ、と嘆願に行った。教師との折衝もあったが、ぼくは、竹早高校に未練はない、の一点張りで押し通した。1万円足らずのお金が返ってきた。当時、アルバイトの時給が150~180円、ハイライトが80円だから、この1万円はでかかった。  

そして、ぼくたちが新宿に移る頃、大学紛争は一気に全国規模に拡大し、参加する学生たちの気運も高まり、増大していった。若者たちによる変革の熱は、ぼくたち高校生にも切実に伝わってくるようになった。

前回、竹早高校が新宿に移ったのは、昭和43年、ぼくが高校2年の時と書いたが、実は1年後の昭和44年、高校3年の時の出来事だった。
なぜ勘違いしたのか、思い出してみると、それには大きな理由があった。
新宿にいた時期が、高校2年から卒業するまでの1年半と思っていたのが、実は昭和44年秋から45年春までのわずか半年のことだったのだ。それほど多くのことを新宿で体験していた。

まだ、文京区の高校にいた昭和43年の10月には、俗にいう新宿騒乱があった。学生デモに民衆が加わり、新宿駅構内に乱入し、国電に火をつけ、線路づたいに投石をした。それをぼくは友だちの家で麻雀をやりながら、とても興奮してテレビを見ていた。
そして、翌昭和44年の1月、学生運動の象徴とも呼ぶべき出来事が起こった。東大全共闘を中心に、全国各派の学生たちが集結し、東大安田講堂に籠城した。機動隊との攻防の末、数日後、安田砦は落城した。食い入るように生中継を見ていたぼくは、胸が熱くなっていった。

学生運動は、いろいろな流行語を作った。「総括」「ナンセンス」「意義なー し」「ノンポリ」…。中でも、ぼくが気に入っていたのが、月日の言い方であった。10月21日を“じゅってん、にーいち”と呼ぶのである。ぼくは、何にでもこれを使って、言葉遊びをした。
そんな傍観の日々を経て、ぼくは新宿にやってきた。

新宿には、愛すべき映画館がたくさんあり、日々見まくっていた。
一番よく通ったのは、シネマ新宿。現在の伊勢丹向いの交番裏、明治通りに面したスエヒロの入ったビルで、1階が生地屋のちょうど地下1階にあった。ここでは、ゴダールやトリュフォー、パゾリーニやアントニオーニなど、ヨーロッパ系の映画を見ていた。
特にゴダールの映画は興味をひいた。躍動感に満ち溢れていた。ワクワクした。こんな映画を作りたいと思った。そのためには、理解しなければならなかった。が、字幕が4行も5行にもなることが多く、最後まで読めないので、やがて2回見るようになった。1回目は映像を見て、2回目は字幕を読むためだ。
ここで事件があった。それは場違いな(当時はそう思っていた)ビートルズの 「ヤァ!ヤァ!ヤァ!」が上映されたため、女の子たちによって占拠され、始まるや否や、彼女たちの凄まじい悲鳴とともに、スクリーンがバリバリと引き裂かれてしまったのだ。ぼくは、ここでしばらく見れなくなったことを恨んだ。女たちを恨み、ビートルズを恨んだ。

伊勢丹向いの新宿通りに面したマルイシティの2階あたりにあったのが、日活名画座。ここでは、オーソン・ウェルズの「審判」を1日中5回続けて見た。見終わった後、とてもすばらしい映画だったなあと思うのだが、どこかしらで、 眠ってしまうためだ。
ぼくはここで痴漢にあった。立ち見客はまばらな混み具合だった。ぼくは、左側の壁に寄り掛かった状態で、 映画を見ていた。そっと、お尻を撫でてくるやつがいた。ぼくはこの頃、髪を長 くしていたので、女と間違えられてたのかもしれない。
だんだんと積極的になってきた。ぼくは、さっと後ろを振り向き、館内に響き渡るほどの大声で、「ワッ!」と一声発した。痴漢はびっくりして、ヨロヨロと後ずさりしながら、倒れていって、頭をゴツンと座席の手摺りにぶつけた。

今も健在の昭和館にもよく行った。もちろん、任侠映画3本立てである。ここの一番前の席は手を伸ばせばスクリーンに届いた。真上を向いて見るようになるから、だれも好んで座らなかった。が、ぼくたちは、映画鑑賞の心構えとして、 “やっぱ映画を見終わった後は首が痛くならないようじゃないとなあ”とか妙な粋 がりをもっていた。だから、客がいなくても、いつも一番前に陣取って見ていた。(注・この後劇場は閉鎖となった)
ある日の昼間、がらがらの館内で、一番前の真ん中の、ぼくらの特等席にひとりのおやじが先取りしていた。“何だよ、あのおやじ、もっといい席あるのに”と 思いながら、ぼくは、彼の2つ隣りに座り、映画を見ることにした。しばらくすると、ガサガサと音が横からした。おやじを見ると、新聞紙にくるんでいたお弁当を食べ始めていた。
映画が終わり、館内が明るくなった。おやじの顔を見た。遠藤周作であった。
この後、何回もぼくらの特等席に座り、弁当を食べながらヤクザ映画を見ている彼の姿を見かけた。

ATG(日本アート・シアター・ギルド)の直営館であった新宿アート・シア ターとその裏の地下にあった蠍座の2館は、特に思い出深い場所だった。
新宿アート・シアターでは、初め、エイゼンシュテインの「アレキサンドル・ネフスキー」やアニエス・ヴァルダの「5時から7時までのクレオ」、アンジェイ・ ワイダの「夜の終りに」、トリュフォーの「ピアニストを撃て」、ブニュエルの 「ビリディアナ」など、海外の作品を上映していた。たしかオーソン・ウェルズの「市民ケーン」もここだった。
そのうち、独立プロと組んで作家性、芸術性の高い日本映画を作り始めた。“ 一千万円映画”と呼ばれる低予算映画だ。
大島渚の「新宿泥棒日記」、岡本喜八 の「肉弾」、羽仁進の「初恋・地獄篇」、寺山修司の「書を捨てよ町へ出よ う」…。傑作が次々と生まれていった。
蠍座は、アンダーグラウンド、通称“アングラ”映画を上映したり、前衛の芝居や即興演劇の実演などもやっていた。ここは床に真っ赤なじゅうたんが敷かれ、その上に折り畳みの椅子が並べられていて、靴を脱いで入った。だから、混んでいたり、疲れたりすると、最前列に行き、寝そべって見れた。
大和屋竺の「荒野 のダッチワイフ」、沖島勲の「ニュー・ジャック・アンド・ベティ」など、女の裸が ふんだんに出てくる若松プロの作品をよく見ていた。

新宿以外でも、以前から通っていたところがあった。青山の草月会館である。この中に草月アートセンターがあり、ここでしか見れない国内外の珍しい映画を“草月シネマテーク”と称して上映していたからだ。
主に実験映画が中心だったが、久里洋二の「殺人狂時代」などのアニメ作品も多かった。「アンダルシアの犬」やポランスキーの「太っちょと痩っぽ」、ジョン・レノンの「強姦」などをここで見た。
そして、67年から始まった“草月フィルム・アート・フェスティバル”では、68年に原くんがグランプリを受賞した。シンポジウムも盛んに行われ、大好きだっ たドナルド・リチーさんや松本俊夫等の話を聞きに行った。
この映画祭の運営のため、フィルムアート社が設立され、同時にここから『季刊フィルム』という雑誌が発刊された。粟津潔の装丁がいかにも先進的で素敵な雑誌だった。中身も批評や論文、シナリオが掲載され、映画の参考書のような感 じで、ぼくは読んでいた。
この雑誌で、中条省平という人が書いた投稿論文がよく載っていた。多分、同一人物と思うのだが、現在、日本経済新聞の映画評や週刊文春のコミックスのコラムを書いている人だ。びっくりしたのは、この時、彼は中学生であったことだ。世の中、すごい奴がいるものだ、と感心した。

この間、学校では、生徒会による全学ストに突入した。授業をボイコットし、 学校の在り方や望まれる授業とは、大学受験等について、全学年を通して毎日のように討論会が各クラス及び合同で自主的に開かれていた。

昭和44年、秋。 生徒会による全学ストは、無期限ストと呼ばれ、建て前として解決するまで続けるものだった。ストを推進した最上級生であるぼくたちは、何組かに分かれ、2年生と1年生のクラスに出向き、事情や状況の説明、討論に加わった。
この時の3年生は、つまりぼくは都立学校群制度の最初の生徒であった。
学校群制度とは、越境入学等による都立高校の格差をなくすために設けられた制度で、いくつかの近隣の区をひとつの学区にまとめ、さらに学力を考慮 したいくつかの高校でまとめた群に分け、その群の高校のどれかに割り振られる制度だ。
ぼくの場合、北区、豊島区、文京区、板橋区の第4学区で、この区に在住する生徒は、この学区の中から群を選ぶ仕組みになっていた。
例えば、第41群 が小石川高校と竹早高校、第42群が北園高校とどこかというように、第44群くらいまで、あったろうか。
中学生である受験生からすれば、これまで描いていた志望校へ行けないことになり、恨むものも多かった。
当時は、まだ東大幻想がはびこっていて、勉強のできる生徒は、目標として東大があった。彼らにとって大学は、東大かその他のふたつしかなかった。
であるから、ぼくも東大を目指すために、小石川高校に入りたかったのだ。この年竹早高校へ入学した生徒のほとんどは、小石川を望んでいた、というのが本当のところであろう。
それに反して、竹早高校の学校側もこれまでとは違う状況のため、異様にはりきってしまうことになった。教師たちの中には、特に男子に対して、優秀な人材が来たとばかりに、この中から20名は東大に入れてやると豪語するものもいた。
そして、東大や国立大学への進学率を向上させるだけの授業が始められていった。
当時の政治的、社会的状況もあったが、一例に過ぎない、こうした生徒と教師や学校側の思惑の違いが、次第に摩擦を生み、衝突となり、紛争とストという行為にまで発展していくことになった。
行動を起こしたのは、受験教育に疑問を持った生徒たちで、世間から見れば、受験戦争の脱落者と烙印を押された生徒たちであり、ぼくもそのひとりであった。
ある討論会で、ストを実行しているぼくたちに対して、「授業の邪魔をしないでくれ。おれは東大に行きたいんだ。勉強したいんだ。」と悲痛な声で訴える同級生の友人がいた。ぼくたちは、「そんなこと言ってるから、いつまで経っても変わらないんだよ。今、変えなくてはいけないんだということがわからないのか。」と反論したが、心の中で、ぼくたちは彼の気持ちが切ないほどよくわかっていた。それも正しいのだ、と。

討論会は各学年ごとや各クラスごとで盛んに開かれていたが、1日中やっているわけではないので、時間はたっぷりとあった。
その間、映画に行ったり、喫茶店で暇潰しをしたり、麻雀やビリヤードで遊んでいた。

ある日、行きつけの歌舞伎町“南風”で麻雀をしてた時、めしでも食おうということになった。店長を呼び、「ラーメン」「ラーメン」「ラーメン」と3人が注文したが、最後のひとりがなかなか決められずにいた。やっと注文したのが、「中華そば」。
店長は「ラーメン3つに、中華そば1つね」と戻っていった。みんなは麻雀に夢中になっているのか、ぼくだけが、おやっ、と感じていた。耳を澄まして聞いていると、電話での注文も同じであった。中華料理店は、このオー ダーを通したのである。
と、その電話をそばで聞いていた客が、「ラーメンと中華そばって、同じもんだろ」と店長に言った。店長は無言であった。
うーん、違うものなのか、どこが違うのか、ものすごく気になり始めた。海苔や鳴門のあるなしか、はたまた麺の違いなのか…。
ぼくは、ラーメン3つと中華そば1つが来るまで麻雀に集中できず、大きく負けてしまった。
ラーメン3つと中華そばがやってきた。みな同じであった。

明治公園や清水谷公園での全学連の集会やデモにも参加した。仲間で集会やデモに行く時は、役割分担があり、各自持ち回りでこなした。
デモの時は、荷物持ちという役割があり、参加者の荷物やカバンなどを5つも6 つも持って、車道を行進するデモの横を付き添うのである。デモが行われる道には、機動隊がずらーっと並び、監視している。その前を荷物持ちが通るのだが、暇を持て余しているのか、命じられているのか、機動隊は、長い警棒でちょっかいを出す。荷物持ちの足に引っ掛けるのだ。あちらこちらで、各校の荷物持ちたちが、転び、荷物を路上に散らし、拾ってまた歩いては、転ばされていた。
この陰険な行為に黙ってしか抵抗できない自分たちに腹がたった。
カンパ集めも大事な役割であった。あちらこちらで、アジ(アジテーション) 演説が響き渡る公園には、関心のある大人たちもたくさんいて、ベンチに腰掛けたり、遠目で見ていた。この中に、場違いな雰囲気をもつ人々何人かが散っていた。いわゆる7人の刑事風の人やいかにも変装したという人達である。彼らには 必ずカンパをお願いしに行く。なぜかといえば、彼らは見破られてはいけないので、100パーセント、カンパしてくれるからである。
ぼくは、いつもカンパ集金 NO.1だった。

2階立ての校舎は変形の“コ”の字形になっていて、1階の真ん中あたりに、中庭に向かって別棟の小さな掘っ建て小屋があり、これがいつしか映研の部室になっていた。
ぼくらは、いつもここにタムロしていた。映画の話だけでなく、トランプや花札などで賭け事をして遊んでいた。
ここには、映研の人間だけでなく、ぼくらの活動に関心がある下級生たちもよく遊びに来ていた。
その中に、いつもギターを弾いていた長い髪の男がいた。みんなから“タツロー”と呼ばれていた男の名は、山下達郎といった。
卒業してからも、まだ付き合いのあった頃、下火になった学生運動から文化活動に目を向けた竹早高校出身の面々による自費出版の雑誌に、タツローはロック論を展開していた。
そして、さらに数年後、シュガーベイブというグループを率いてデビューした。
当時は、知る由もなかったが、松井証券の松井道夫社長なども同じ校舎で学んでいた。  そして、すぐ隣りの新宿高校には、坂本龍一がいた。

全学ストに行き詰まりを感じた頃、バリケード・ストが決行された。バリ・ ストは学校封鎖とも呼ばれ、全国の大学を中心に、いくつかの高校でも始まっていた。
日曜の夜、警戒のため、これまで入ったことのない喫茶店に集合した。ぼくは、これからの生活の事を考え、ガスの通っている家庭科室の占拠を提案したが却下された。
みんな、長期戦を考えてないな、と思った。
まず用務員と親しいMが、用務員と将棋を指しながら、これから起こることの事情を説明し、同犯にならないよう、縄で縛った。
その間、2階に上がり、2つの階段を椅子や机で封鎖した。実行部隊は7、8人だったが、翌日、中には2、30人 もの同志と称する生徒たちが集まっていた。
この時、ぼくには学生運動の政治的、思想的な背景は全くなかった。
何かをしなければという時代的な気分の高揚と衝動、そして、どうもおかしいぞ的世界へ の意志表示であったと思う。
だから、ぼくにとって、バリ・ストは自由な空間であり、みんなにとってもそうあるべき所だと考えていた。
ところが、この中で、おいちょかぶをしていると、「こんな所でやるなよ」と注意され、女の子を連れてくると、「何、考えてるんだよ」と文句を言われた。
『おいおい、だれがそんなこと、決めたんだよ。ここでもルールかよ。そういうことをなくすための場所じゃないのか、ここは』とぼくは思った。
ある時、セクトに属していた同級生が、これから先のことを考えるために先輩 (大学生)を呼んでオルグしてもらおうと提案した。ぼくたち数人は大反対をした。他人にオルグしてもらったって、何の意味もないだろう。大切なのは、何をするのか、ここにいる自分たちで決めていくことだろうと考えていたからだ。
こうして、次第に熱はさめ、心は別なところに向いていった。

だれからともなく、映画撮ろうぜ、の声がかかった。よし、明日から撮影しよう、といった具合いで、きちっとした計画を持たぬまま、勢いでスタートした。
後藤和夫の書いたシノプシスに、ぼくらはアイデアを出し合い、肉付けをしていった。
タイトルは「天地衰弱説」。スタッフは後藤を筆頭に、福岡杉夫、橋本和夫、福田健一、磯貝浩、そしてぼくの6名だった。
この機に、竹早映研の名を捨て、映画制作集団“グループポジポジ”を名のることにした。
撮影は、主に隣りの新宿御苑で行われた。新宿御苑と高校との間にある金網が破れていて、自由に行き来ができた。以前から、生徒の何人かはこの穴を使っ て、新宿御苑で昼寝をしたり、デートをしていた。ぼくは毎日行っていた。
新宿御苑は、ロケ地としては最高の場所だった。平らで広い庭と巨大な木々、森の中の小道、フランス風のマロニエの並木、大きな池を囲む凹凸の激しい日本庭園…。様々な映画向きのロケーションがあった。
そして、時間にルーズなみんなだったから、集合に遅刻しても、探せばすぐに撮影に加われる利点もあった。
一応、監督は後藤、各自撮影、出演としていたが、その日の状況によって、役割はばらばらだった。実際、撮影が始まると、どんどんと内容も変わっていった。
8㎜には、カメラとフィルムによる制約が非常に多かった。
フィルムや現像代が高い。カメラはねじ式のため、1カット最大10数秒しか撮れない。フィルムは1 本3分弱しか撮れない。音やセリフは後からオープン・リールで入れる。しかも 映像と音の機械のスピードが違うため、ぴったりと合う保証がなく、合っても少しずつズレていく…。
しかし、ぼくたちは、それが当たり前だと思っていたから、それほど気にすることもなく、逆に稚拙なカメラ・ワークで、あれも撮ろう、これも撮ろうといった具合に、おもしろいようにフィルムを回していった。
こうして、映画を撮る、わくわくする日々が続いていった。

続く

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私家版「記憶の残像」③~都立高校

昭和42年、高校に入学。
この年から、都立高校の学校群制度が採用され、第41群を受けることになった。一応有名大学を目指していたため、志望校は前から小石川高校と決めていたが、次第に竹早高校に行きたいと心変わりしていった。
竹早は女子校で有名だったが、この学校群でも、入学者数女子200名、男子100名と、女子が倍いることを知ったからだ。
願いが叶って都立竹早高校に入学することになった。前後左右、女子に囲まれながらの授業に心は踊った。
ところが、入校して驚いた。なんと、全6クラスの内、男子が2クラス、女子が4クラスに分けられていた。何が男女共学だよ、詐欺に会ったような気持ちになった。
しかも、教師たちが異様に張りきっていた。これを機会に大学進学率を高めるためだ。  休み時間、ぼくは同じ中学出身の女子を呼んで、あの子を紹介してくれ、と画策をしていたら、「こら堀越、休み時間は何のためにあると思っているんだ」と担任の教師が注意をしにきた。「休むためです」とぼく。「休み時間というのは、次の授業の自習のためにあるんだ。廊下で無駄な時間を使うな」と訳のわからないことをいう。
ぼくのクラスに、いつもヘラヘラ顔の丸山という男がいた。ある日、国語の授業中、「何がおかしいんだぁ」と教師に張り手をくわされた。それから、時に殴られ、時にチョークを投げられ続けた。だれかが居たたまれなくなって、「丸山はおかしくて笑っているわけではありません。こういう顔なんです」といったが、一向に聞き入れてはくれなかった。
こうした環境に、ぼくはなかなかなじめなかった。

そんな矢先、中学で仲のよかった高橋秀太と偶然、地元赤羽で出会った。
秀太は、都立高校を受けず、甲子園を目指すべく、高校野球の名門日大三高に行った。彼は当然野球部に入部したが、即、挫折した。3年まで、レギュラーがすでに決まっていたのだ。退部して、日々ぶらぶらしていた時だった。
秀太は銀座のクラブに連れていってくれた。
そのクラブは、数寄屋橋近くのビルの2階にあった。銀座のクラブといっても、いわゆる高級クラブではなく、看板はスナックになっていた。が、当時純喫茶あたりで、180円のコーヒー一杯が600円もしたから、高いことは高かった。
夕方、店は開き、出勤してきた女の子たちは普段着で店の掃除やテーブルの整えなどをしたり、時間をつぶしていた。更衣室で休んでいる子もいた。夜7時になると、お揃いのチャイナ・ドレスで接客が始まる。秀太のボトルで、ぼくは、ウイスキーをコカ・コーラでわる“コーク・ハイ”を、いつも決まって飲んでいた。
ぼくは週に1、2度ここに訪れ、日大三高の金持ちボンボンたちと遊んだ。

この頃、都内では都電がいたるところで走っていた。ぼくは、池袋から都電に乗り換え、東池袋、護国寺を抜け、不忍通りから春日通りを右に折れ、茗荷谷駅前、小日向、春日二丁目と通学した。
この不忍通りと春日通りの交差点に“キクヤ”という大きな写真店があった。写真機材や写真に関する全てが用意された卸問屋の趣きで、今でいうヨドバシカメ ラなどの前身みたいなものだ。
品揃えは東京一で、全国から買いにくる客も多かったし、カメラ小僧たちの溜まり場でもあった。ぼくも学校の帰りに、ここに寄ることが多かった。
当時は、35mm(一般のカメラ)関連のものを見たり買ったりしていたが、次第に興味をひかれていったのが、8mmカメラだった。

8mmカメラは、エルモ、フジカ、ヤシカ、小西六(コニカ)、ニコン、チノン、 キヤノンなど沢山のメーカーが参入する、現在のビデオカメラ同様、ホーム・ ムービーの旗手であった。
フジカ・シングル8(エイト)のテレビCMで、「わたしにも写せます」と若き扇千景が宣伝をしていた頃である。
ぼくが最初に手にしたのは、“ダブル8”という幅16mmのフィルムを使う古いタイプのものだった。片側を写した後、ケースを反転させてもう片側を写し、現像で真中から半分にし、8mm状態にするものだった。当然、フィルムは白黒だった。
カラーフィルムも既に登場していて、主流になっていたのは、同じ8mmフィルムながら、一コマの面積を大きくとったフジカ系の“シングル8”とコダック系の“ スーパー8”というマガジン式のタイプだった。(白黒フィルムの需要もまだまだ高かった)
フィルムは、富士フィルムの“フジカラー”と小西六の“さくらカラー”の国内勢 と、コダックの“コダカラー”のアメリカ産とのシェアに分かれていた。
これらのフィルムには、それぞれ特徴があり、“フジカラー”はややブルーがかったトーン、“さくらカラー”はやや赤味がかったトーン、“コダカラー”は明るくはっきりとした色彩であった。
何故そんなに色の調子が違っていたのかというと、ぼくの勝手な推測だが、日本の四季のせいだと思う。富士フィルムも小西六も、日本の鮮やかな春の緑や満開の桜、秋の紅葉、深深 とした冬の雪景色…日本の四季の風景の美しさを表現するために、それぞれ青な り赤なりをやや強めることによって、わびなり、さびなりにいかに近づけるかを試みた結果だと、ぼくは解釈している。
その点、外国産のコダックは、見た目よりも、明るく原色に近いものだった。 おそらく燦燦とふりそそぐ太陽を前提にした能天気な撮影を設定のベースにしたのだろう。これは、のちに手がける16mmフィルムでも同様のことが言えた。
(この色味の感覚は、ビデオテープのVHS方式とベータ方式の違いにも現われていた)


高校になじめないでいることを他のことで紛らわしていたこの時期、相変わらず雑誌などの懸賞で、試写会に行くことは続けていた。
ある夜、有楽町の東宝劇場で行なわれた『オリバー!』(68年、イギリス。監督キャロル・リード。出演マーク・レスター/オリバー・リード。チャールズ・ディケンズ原作の「オリバー・ツイスト」をミュージカル映画化。マーク・レスターはこの後「小さな恋のメロディー」で人気者になる)の試写に行っ た。来日していた主演のマーク・レスターの挨拶もあり、試写が終わっても、会場出口には沢山の女の子たちがマーク・レスターを待っていた。

ぼくは帰り際、駅に向かって歩きながら考えた。マーク・レスターはまだ子供だ。とすると、劇場の裏手にあるゲーム・センターに遊びに行くかもしれない。そこは、ちんけで汚ないゲー・センで、夜遊ぶやつはひとりもいないところだった。この頃のゲーセンは現在と大分趣きが違い、ピン・ボール(※銀のボール(持ち玉は百円で3球)を、ゲーム盤に打ち込んで、左右のボタンを使って、はじきかえし、できるだけ長く、ボールを盤内に残し、得点を稼ぐゲー ム。沢山の種類があったが、ぼくは、「ストーンズのアンジェ」が大好きだった。ボールが秘密の穴に入ったり、高得点をクリアーすると、ミック・ジャガー の「アンジェ~」という歌声がひと声流れるもので、そのゲームの興をそぐ虚無的な感じが好きだった)が主流だった。

薄暗いあたりには、やはりだれもいなかった。しばらく、ピン・ボールをやっていたら、家族や通訳に連れられて、マーク・レスターが現われた。

ぼくは、かばんから、『オリバー!』のパンフレットを取りだし、「ハイ、マーク。プリーズ、ライト・ユア・サイン」と言って、小さな小さなマーク・レスターさんの前につきだした。サインの後、握手もしてくれた。なんて、いい奴なんだ、マークは。

しかし、マークはぼくをじろじろと見ている。離れたあとも、振り向きながら、ぼくの方を見て、通訳に何か聞いている。どうやら、ぼくの学生服が奇妙に映ったらしい。

それが気になってかどうかは別にして、ある日、ぼくは生徒手帳を取り出し、「服装」の項を読んだ。そこには、「原則として、学生服を着用すること」と書かれてあった。「原則として」かぁ。

次の日、ぼくはアメ横で買った黒の綿パンをはいて学校へ通った。だれも気付くものはいなかった。当時、学生服や制帽のほか、濃紺のレインコートも学校から強制的に購入させ られていた。ベージュのレインコートを着ていった。これも何も言われなかった。

こうして、良識ある友人らの暗黙の了解と協力で、少しずつではあるが着実に、“反学生服”というぼくの個人的ゲリラ活動が開始された。

文京区春日町にあった竹早高校に通っていた頃、都電での帰り道は、池袋からの行きとは違い、隣駅の大塚に寄ることがたまにあった。

それは友人が大塚あたりに多かったせいで、同級生の中には、3畳一間のアパートで悲惨な暮らしをしていたやつもいた。大塚の南口駅前に、よく寄るカレースタンドがあった。カウンター8席くらいの小さなお店で、ここのカレーライスは何と市販の“大塚のボンカレー”を使っていた。冗談ではなく、本当のことだ。カウンターに座ると、正面の棚には、大塚のボンカレーのパックが所狭しと積み上げられていた。ボンカレーはまだ出始めた頃だったが、大ヒットしていたため、だれでも家で手軽に食べられる味だった。

ところが、ここは客を引く巧妙な手を使って、客足を絶え間なくしていた。それは、当時1袋80円のボンカレーを2袋使い、120円で売っていたのだ。当たり前だがライス付きで、だ。カツカレーやエッグカレー、ハンバーグカ レーなどもメニューにあったが、それでも160円くらいだった。何とも得した気分になれたのだ。

 

とても変なやつがクラスにいた。勉強をまるでしないそいつは、いつもアメリカのバスケットボール・マガジンを読んでいた。

ある日、こいつが、その雑誌を見せながら、いかに黒人が素晴らしいかを、ぼくに説明し始めた。ぼくも黒人はカッコいいなとは漠然と思っていたが、彼の説明は、ぼくが思っていた以上に、論理的で説得力をもっていた。

黒人プレーヤーとコンバースのバスケット・シューズとの相性について。マンシングウェアのウィンド・ブレイカー(今のブルゾンに近い)をカッコよく見せたのは黒人であること。黒人に何故金歯が多いのか。挙句の果ては、体臭やお尻の形の話まで、延々と語った。

彼は熱心に聞いていたぼくに、「ジャズ、知ってっか?」と問うた。これが一番黒人をわかる方法だ、と言って、放課後、写真問屋“キクヤ”(前回紹介)の裏手の路地にあるジャズ喫茶“チータ”へ連れて行った。“チータ”はカウンター5席くらいの、小さな小さなジャズ喫茶だった。

ぼくは、ジャズに関心はなかったし、真剣に聞いたことはなかった。彼は、マスターに曲を注文をした。それは、とてつもなく美しい曲だった。ジョン・コルトレーンの「マイ・フェバリッド・スィングス」、それが、ぼくの初めて知ったジャズだった。

「ま、初歩だけど。いいだろ?」と得意そうに言いながら、ジン・ライムを、ちびっと飲んで、にやりと笑った。口の奥から、金歯がきらりと光った。

ぼくは、夏休みにひとりで行こうとしていた九州への無銭旅行に、そいつを誘った。

佐賀県鳥栖に着いた時、ぼくは誘ったことを後悔した。極力、無駄なものは持ってくるなと言っていたのに、やつのバッグの中は化粧水、日焼けクリーム、 コーヒー豆とその道具、生クリームの缶など、ぼくにとっては、いらないもので一杯だった。しかも、車を拾わない、ときた。

ぼくたちはヒッチハイクで、佐賀、大村、諫早、長崎、天草本渡から鹿児島県に入り、阿久根、西方、川内、串木野を抜け、伊集院という町にやってきた。どこか野宿できるところがないか、町の人に尋ねていたところ、東京からやってきたぼくたちの話を耳にした町長さんがいい所に案内すると、車に乗せてくれた。

着いたところは、浜辺のキャンプ場だった。そこは、これまで見たことのない、とてつもなく美しい浜辺だった。浜は、1、2センチ大の真っ白で均一なまん丸石で覆われ、海は真緑色だった。日本一美しい海と思っているが、今はどうなっているのだろうか。

ここで、ぼくたちは、のんびりと何もしないで2日間過ごした。この伊集院の駅から枕崎まで、単線2両編成の汽車で南下した。が、出発時間を過ぎても発車しない。10分、20分と過ぎていくが、みんな何も言わない。ぼくは、新聞を読んでいたとなりのおじさんに、何故出発しないのか、尋ねた。ひとり乗っていない人がいるので、待っているのだ、と言う。

枕崎から開聞岳を経て、指宿に向かう途中、山川という町に寄った。ここは、薩摩藩の忍者の町で、暗号のような日本一難解な方言を使う所であることは知っていた。

ここで、車を止めた。その車は、荷台が鉄格子になった大きなジープだった。 鉄格子の中には、スコップを持った男たちがいた。嫌な感じがした。指宿まで行きたいと説明したが、運転手の言葉が全然わからない。運転手は、後ろに回り、 鉄格子を開け、ぼくたちに乗れ、という仕草をした。乗った。走り出した。中にいた男たちが、あーあーだの、うーうーだのと言って、話かけてきた。あーあー だから、何を言っているのか、わからない。ぼくらは目を合わせないよう、下を向いていた。

しばらくすると、国道から左に折れ、山の中に入っていくではないか。ぼくらは、国道をまっすぐ指宿に行きたいと説明したはずだ。運転手に、指宿、指宿、と声をかけたが、戻ってくるのは、意味不明の方言。

着いた先は、真っ白な大きな建物だった。やばい。門に看板がかかっていた。そこは精神病院だった。入れられるかもしれないと、ぼくたちは、車を降りると少しずつ後ずさりをし、逃げる準備をしていた。白衣の院長さんが出てきて、笑いながら手招きをした。彼は、標準語で話した。運転手は、道路工事をしていた患者を病院に戻してから、指宿に連れていくつもりだった、と言った。

この頃、通っていた映画館は、赤羽台団地の入口にできた洋画3本立ての“赤羽オデオン座”。ここでは、007シリーズ、黄金の7人シリーズ、電撃フリント・ シリーズ、マカロニ・ウェスタンなどといった、いわゆる娯楽ものを見ていた。

しかし、学校の帰りに池袋で見ることが圧倒的に多かった。文芸座や文芸座地下、蔦のからまった風情ある人生座、ここらで見るのがほとんどだった。文芸色、芸術性の高いものがよく上映されていたからで、ぼくはそんな作品がどちらかというと好きだった。

文芸座で『卒業』(67年、アメリカ。 監督マイク・ニコルズ。 ダスティン・ホフマンの映画デビュー作で、「エレーーーヌ!」と叫ぶラスト・ シーンはとても痛快だった)を見た。サイモン&ガーファンクルの挿入歌がとても新鮮で、その手法に感心した。邦画やミュージカルは別として、歌が映画の中で流れるのは、ほとんどラストに、と決まっていた(ように思う)。だから、新しい映画の表現しとて、特別なインパクトを受けたのだ。

同時期に同じようなイギリス映画を見た。『茂みの中の欲望』(67年、イギリス。 監督クライブ・ドナー。童貞を捨てるため、女の子を探し求める高校生のある青春。「女なんて、もう懲 り懲りだ」と言って、再び女の子を追うラストがすがすがしい)である。 こちらは、トラフィックやスペンサー・デイビス・グループの軽快な歌とロッ ク・サウンドが、至る所に散りばめられていた。主人公の目が突然光ったり、ベッドやタンスの上をピョンピョンと飛び回るなど、サイケデリックな映像が楽 しい、『卒業』同様、童貞喪失ものだった(ちなみに、この映画は、ぼくの好きな映画ベスト10に入っている)。その後、テレビ朝日の深夜帯で、何度も何度も放映されていた。

洋画1本立て100円の日勝(にっしょう)地下にも、よく行った。東京で一番安い映画館だった。ここでは、裸系や際物が多く、とても変な映画ばかり見ていた。

出産シーンを初めて写した西ドイツの性教育セミ・ドキュメンタリー映画『女体の神秘』(67年、西ドイツ。 体内にマイクロ・レンズを入れ、受精の瞬間や胎児の成長を写した、当時では珍 しいドキュメンタリー。世界的にヒットしたらしい)、変態のぞき魔田舎青年の鬱積が暴行殺人を引き起こすギリシャ 映画『欲望の沼』(66年、ギリシャ。 監督コスタス・マヌサキス。 ギリシャ女優エレーナ・ナサナエルの美しさが格別だった。66年のカンヌ映画祭 出品作でもある)、ファッション・モデル(当時はカバー・ガールと言っ た)の生態を描いたフランス・イタリア合作映画『湖のもだえ』、第二次大戦下での若者たちの憤りを描いたスウェーデン映画『蛇』(66年、スウェーデン。 監督ハンス・アブラムソン。性の様様な形に喜びを見出そうとする女と無軌道な男との恋人同士が織り成す人間模様。男はナップサックに、いつも蛇を入れていた)などだ。

そして、“アメリカには絶対に行かないぞ”と心に決めた映画が『地獄の天使』(66年、アメリカ。 カルフォルニアの田舎町に、暴走族とひとりの青年との戦いを描いたものだが、“ヘルス・エンジェルス”の実態を浮き彫りにした作品として注目され、また、当時のカルチャー論などにも、よく引き合いに出された映画でもある)だった。ヘルス・エンジェルスのような想像を絶する恐い人々がいる国には、絶対行きたくないと純粋に思った。

ちなみにこの後、“アメリカにはもう行くまい”と追い討ちをかけたのが『羊たちの沈黙』だった。これもレクター博士が、ぼくにとって、想像を絶するとてつもない恐い人物だったからだ。

こんな風にして、映画を見ていたものだから、大学まで、ロード・ショー館へは全く入ったことがなかった。

そして、昭和43年、ぼくが高校2年の後半、竹早高校は校舎全面改築のため、新宿区新宿高校の校舎を間借りすることになった。

続く

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私家版「記憶の残像」②~高度成長期

ぼくが初めて“映画館”で映画を見たのは、昭和33年、小学2年生の時だった。場所は地元の赤羽東映で、作品は東映動画の劇場用長編の第1弾「白蛇伝」(58年製作。白蛇が人間の姿となり、人間を愛する話。後から知って驚いたのだが、森繁久弥と宮城まり子のふたりだけで、出演キャラ全員の声をやっていた)。
この頃は、カラー作品を“総天然色”、アニメーションを“動画”と呼んでいた。学校の授業の一環として、見せられたのだが、今でもこの総天然色動画の色鮮やかな映像は忘れていない。特に、夜の背景の明るく抜けるようなブルーがとてもきれいだった。

当時、赤羽の駅周辺には、西口に東映、大映、東口に洋画専門館があった。東宝は、駅から大分離れた岩渕という街にあった(大映の小屋は、日活になったり、合併してダイニチになったりしていた。松竹は記憶になし)。
中でも、東映は栄華を誇るごとく、他の小屋とは一線を画していた。入り口に入るまで、花道があった。つまり、鳥居のない神社のような風情で、石畳を歩いていくのだ。両脇の塀には、上映中、次週公開作品の看板、さらには時代劇スターの似顔絵がずらっと並んでいた。今のように写真技術が発達していない時代だから、全て“絵”だった。

そして、お正月や夏休みには、片岡千恵蔵、東千代之助、大川橋蔵、大友柳太朗など東映専属の主役級の俳優たちが勢揃いする、いわゆる“オールスター映画”と呼ばれるものが上映された。清水の次郎長や忠臣蔵などが定番で、その時には、桜の造花が花輪がわりにずらっと並木のように石畳の脇に立てられた。

洋画専門館は、「赤羽オリンピア劇場」といい、東口の元西友があった所で、 現在は1階が本屋になっているビルに位置していた。ここは2本立上映をしていたが、その組み合わせは、とてもいい加減なものだった。小学5年の頃だろうか、母に「ピーターパン」を見に行くと言って出かけたが、実は併映する「ソ ドムとゴモラ」(62年製作。ロバート・アルドリッチ監督による旧約聖書を題材にしたスペクタクル作品。「男と女」のアヌーク・エーメ、「黄金の七人」シリーズのロッサナ・ ポデスタの妖艶な女優陣が出演)が見たかったのだ。ヒロインの胸が大きく開いた衣装のポスターが目に焼き付いていて、どんな映画かも知らず、ただただきれいな西洋の女性のふくよかな胸を見に行くためだった。

その頃、映画の情報は、街の至る所に貼ってある“絵”のポスターで知るのみだった。とりわけ、女性の裸に近いものが描かれている作品が、ぼくの見たい候補作だった。
いつの頃かは忘れたが、「春のめざめ」「暗闇でどっきり」「何かいいことないか子猫チャン」「女狐」などを覚えている。

試写会も小学4年の頃、初めて経験した。父の応募したハガキが1枚当たったのだ。父はぼくに見るようすすめてくれた。場所は、有楽町の元そごうデパートの読売ホール。 映画は「素晴らしい風船旅行」(60年製作。「白い馬」や「赤い風船」のアルベール・ラモリス監督作品。老人と孫との気球による冒険で、美しい大自然を写した空撮が見事)。
午後6時くらいからの試写のため、父に連れられて会場までいった。父から母が作ってくれたサンドイッチを渡されると、 別れをいって受付を通った。父は映画が終わったら、また迎えにくると言った。
席に座ってサンドイッチを食べていると、父が紙袋を持って、ぼくの隣の席に座った。息子にお弁当を渡すと言って入ったのだそうだ。父はそのお弁当を食べながら、そのまま、ぼくと一緒に映画を見ていた。

中学1年の秋のある月曜日、ぼくら友達4人は、学校をさぼり、朝一番(この頃、10時半上映開始だった)で吉永小百合主演の日活映画「愛と死をみつめて」を見に行った。始まってすぐの頃だった。後ろの席に座っていたおじさんが、ぼくの背中をぽんぽんと叩き、「君ら、中学生だろ?」と声をかけてきた。ぼくは後ろを振り向き、おじさんを見た。顔はよく見えないが、トレンチコートにハンチング帽。瞬間、“七人の刑事だ”と思った。「はい」と小さく答えた。
ロビーに4人は連れ出され、2名2名に離された。おじさんは2人いた。学校はどうしたのか、と聞かれたので、ぼくは「昨日、運動会があって、今日はお休みなんです」と答えた。両親は知っているのか、と聞かれたので、「お父さんに愛とは何かを見てこいと言われました」と答えた。もちろん、でまかせだが、両親や学校に知られて、きっと怒られるな、とビクビク萎縮していた。
すると、ぼ くとは別の2人を質問していたおじさんが、もういい、中に入っていい、と解放 してくれたのである。ぼくたちは、中に入り、そのまま映画の続きを見た。見終わって、外に出たぼくらは泣きじゃくった後で眼は真っ赤、鼻はじゅるじゅる。
涙声で、「どうして許してくれたの?」とのぼくの問いに、内藤くんが、「お父さんがF警察署の署長をしていると言ったからさ」と自慢げな笑い顔で鼻をすすりながら言った。あとで、わかったのだが、内藤くんのお父さんは、名前を言っただけで、だれでも警察官や刑事なら知っている力のある人物だった。
ぼくらは、「吉永小百合ちゃんは相変わらずかわいいね、最高」「浜田光夫はいい男じゃないよね」などと映画の感想を言い合いながら帰り道を歩いていった。

ぼくには、赤羽で映画を見たあと、決まって買い食いするものがあった。それは、1個130円もするセキネの肉まんだった。セキネは大衆レストランで、浅草が有名だが、赤羽にもあり、肉まん、あんまん、シュウマイを店頭でも販売していた。
当時、東京で肉まんといえば、冬、パン屋やお菓子屋の軒先に、保温器に入れてある井村屋の肉まん(1個20円か30円)を指した。これだけだった。しかも寒い冬だけしか売っていない。多少ワラのような、絶対消化しないものも混じっていたが、これが肉まんの全てとして、ぼくは大変おいしく味わっていた。
ところが、日曜日によく赤羽に買い物に行く母が、夕飯のおかず代わりに、セキネの肉まん(現在は1個210円)を買ってきた。とてつもない味の違いだった。200倍も300倍もおいしいと思った。東京でのうまい肉まんの元祖だった。
それから、時代の進歩とともに、東京にも肉まんの名物店がどんどんと出現するようになる。ぼくの肉まんの旅が始まるのだった。

昭和39年10月、東京オリンピックが始まった。この年、東京オリンピックのために、東海道新幹線や首都高、羽田・浜松町間のモノレール、ホテル・ニューオータニ、日本武道館などが相次いで開通、開業、完成となった。
こうした ニュースが連日テレビから流れ、社会や経済が勢いよく発展していく様子が、子 供にもよくわかった。
晩酌をしながら、ほろ酔い気分でニュースを見ていた自民党嫌い巨人ファンの父は、珍しく、当時『所得倍増』を掲げていた池田勇人首相に向かって、「あんたはえらい」とつぶやいていた。

東京オリンピックには、いろいろと思い出があるが、若干13歳のぼくにとって、生涯忘れられないことがあった。
テレビに、信じられない光景が映し出されていたのだ。
それは、今はもうなくなった女子陸上近代五種の競技だった。近代五種というのは、砲丸投げやハードルなど、投げる、走る、飛ぶ、を総合的に競い合う、今で言う陸上のアイアンマンの競技だった。ソ連からタマラ・プレス、イリヤ・プ レスの姉妹が参加していた。新聞で見ると、小柄で丸々ながら、引き締まった体型で、姉のタマラ・プレスは優勝候補の筆頭に挙げられていた。
テレビに初登場したこいつらのアップを見て、ぼくはたまげた。ヒゲが生えていた、腋毛がボーボーだった。男か、こいつらは。童貞のぼくにとって、“女”は未知であり憧れだ。 憧れの対象ではない女が存在することの驚き。世界は広いことを知った。これは、これから大人へと成長していくぼくにとって、奥深い教訓となった。

ちょうどその頃、世間では、第一次ボーリング・ブームが始まっていた。
我が町赤羽にも、西口に赤羽国際ボール、東口には赤羽三恵ボールともう一軒、消防署裏の赤羽中央公園のそばにあったのだが、名前は忘れてしまった。ぼくはここへよく行った。赤羽というひとつの町に3軒もあったのだから、ブームの大きさがわかるだろう。子供から老人まで、みんなこの新しいスポーツに燃えていた。
当時、早朝ボーリングがあり、朝6時から、1ゲーム250円のところを180円位でできた。ぼくは、毎日、この早朝ボーリングをやってから学校へ通った。これだけ熱中していると、欲しくなるのが、マイ・ボールとマイ・シューズだ。結局、 手にすることがなかったが、とりわけ、シューズは魅力的だった。
その頃、学校の運動靴といえば、月星シューズが全シェアを占めていて、生地は白の綿製、ラインのゴムは水色、靴底は1センチ厚の固いスポンジでできていた、とても軽い運動靴だった。この靴をみんながみんな履いていたのだ。だから、ボーリング・シューズの皮製で、縦に真中から左右白と赤の色違いのツート ン・カラーは派手で珍しく、しかも縫い目まである。ぼくは、これを履いて町を歩きたい、という衝動にかられた。

もうひとつ、大きなブームが東京を騒がせていた。
札幌みそラーメンの襲来だ。現在は年もとり、味の好みも変遷したせいか、 種類が多いせいか、それほどこだわりはなくなっているが、初めて札幌みそラーメンを食べた時の衝撃はすごかった。東京に生まれたことを恨み、札幌の町を羨んだ。実は、ブームになったのは、それなりの理由があった。東京にデビューする前から、テレビのワイドショー番組で、札幌には独自のおいしいラーメンがあると、盛んに放送していたのだ。
ある店の現地実況では、店主が「うちのラーメ ンはスープが命だから、一滴でも残したら、次から(店に)入れないよ」とものすごい高飛車なことをのたまわっていた。こんなことをワイドショーで毎日放送していたから、東京の人々はこの代物を早く食べたいと飢えていた。ぼくもそのひとり だった。
そこへ、出店ラッシュが開始された。赤羽でも、狸小路とか石狩とか同 じチェーン店も含め、20~30軒があっという間にできた。

この頃、テレビでポップス系をやっていたのは、「ザ・ヒットパレード」と 「しゃぼん玉ホリデー」くらいだったので、洋楽を聴くためラジオを聞く機会も多かった。
聞いていたのが、一世を風靡した高級家具“一体型ステレオ”だ。
これも昔のテレビと同様に床の間に置かれることが多かった。我が家でも、床の間に置かれていた。幅2メートル、奥行き50センチ、高さ50センチの箱に、4本足を付けたもので、箱は3等分され、左右はスピーカー、真中は上部にふたがあり、レコードプレーヤーになっていた。もちろん、AMラジオ兼用だ。
いつも聞いていたのは、文化放送木曜夜放送の「ユア・ヒット・パレード」。 洋画のサントラが、いつもベストテンに入っていた。『世界残酷物語』の主題歌 「モア」(映画の題名は『ヤコペッティの世界残酷物語』にいつしかなってしまった。劇中ではインストルメントだが、アンディ・ウイリアムスの歌う「モア」が世界的に大ヒットした。A・Wは、日本で何回もの公演をしたが、吉原に寄るのが楽しみでと語っていた)や『アラモ』、『史上最大の作戦』のテーマ曲、『荒野の用心棒』 の口笛サウンドなどがトップにあがっていた。
この一体型ステレオで、ペレス・プラード楽団のレコードをかけ、父と母が、狭い8畳間でジルバやルンバの社交ダンスを踊っていたのを、ぼくは羨ましく眺めていた。父はよくひとりで、ハリー・ベラフォンテのLPを聞いていた。小林旭の「北帰行」をアメリカのテナーサックス奏者がアレンジしたジャズもあった。

当時、ソノシートというものがあった。レコードを安価にしたもので、大きさはシングル盤と同じ、色付きの透き通ったビニールでできた薄っぺらなものだ。よく付録とか通販(ヤマハのエア・メール通販で購入していた。フランキー・ア ヴァロンとかファビアンものがお気に入りだった。彼らはポール・アンカととも に映画『史上最大の作戦』に出演している。ツイストものが多かった) で利用されていた。
父は酒をよく飲むせいか、酒造メーカーの懸賞に当たり、景品はソノシートのセットだった。小島武雄ナレーションによる『酔っ払い収容所におけるトラの声収録』、『いびきの考察』、『おなら変幻自在』の3枚だ。
トラとは、酔っ払いのことで、昔、深夜帰れなくなった酔っ払いを収容する拘置所みたいなものがあったらしく、その中での笑い上戸、泣き上戸、怒り上戸、 説教上戸などを収録したもので、人間の喜怒哀楽が垣間見えて、非常に楽しいものだった。
『おなら変幻自在』は傑作だった。高音、低音、長時間、連続、瞬間、と大枠の説明のあと、さらに細かくマシンガン・タイプ、歩きっぺの基本、かわいっぺ とは、肛門によくない爆発型、痔のおなら、若者と年寄りの違いなど多岐にわたって、それはもう学術的だった。よくこんなものを収録したなと感心するのと 真面目に収録する人たちとその状況を想像すると、楽しさこの上なかった。
父はこれを聞き、腹を抱え大笑いし、涙を流しながら、おならをしていた。

ぼくが初めてひとりで電車に乗ったのは、小学2年の時だった。
当時のぼくには、どうしても欲しいものがあった。それは読売ジャイアンツのプラスチック製打席用ヘルメットだ。みんな普通の布製の帽子は当たり前に持っていたが、プラスチックのヘルメットはまだ だれも手が出せないでいた。父に誕生日プレゼントにとねだった。父は買ってやるが、自分で買ってきなさい、と言った。多分面倒くさかったのかもしれない。 でも、ぼくは困った。
このヘルメットは赤羽のオモチャ屋にはまだ置いていないのだ。あるのは、池袋の西武デパート。ここしかない。電車に乗らなくては行けない。
意を決して、お金を貰い、ひとりで西武デパートを目指した。
赤羽駅で、赤羽・池袋間の切符を買う。子供は大人の半額5円であった。池袋の駅を降りると、地下から丸物(まるぶつ)デパートに入る。この丸物デパートは、現在のパルコにあたるデパートだが、汚なく人もまばらで、しばらくした後、西武に押されて、撤退した。
当時、池袋には、東口に西武、丸物、三越。西口は東横の4つのデパートがあったが、西武の人気がダントツだった。品揃えが豊富だったのだろう。現に、ジャイアンツのヘルメットも西武にしかなかった。それに一番新しくできたせいできれいだった。ホームから見える東横の文字や壁ははげてくずれかかっていたし、丸物もそれに近いものがあった。
この西武と丸物も、現在の西武とパルコ同様、各階とも連絡通路でつながっていた。ぼくは、エスカレーターで6階に上がり、連絡通路を渡って、西武のオモチャ売り場へと向かった。

昭和40年か41年、ぼくが中学3年の頃、東横デパートも撤退し、新しく東武デパートができた(なんで東口に西武があり、西口に東横だとか東武なんだ!)。
この東武デパートの7階に、“東武100円シアター”という1本立て100円の映画館 ができた。
ここで、本邦初公開“性交場面”なる映画が上映された。スウェーデン映画 『太陽のかけら』(原題Kungsleden。この映画のサントラも非常にすばらしかったのだが、サントラ盤(輸入盤も)もビデオ化もされていない)であった。まだ、ファックとかセックスという言葉は使われていなかったが、当然18歳未満お断り(?)だった。
学校が終わるとすぐ、14歳のぼくは、私服に着替えて、友達の内室(うちむろ)くんと100円シアターに向かった。人がまばらな電車の中で、ふたりは高鳴る胸を抑えて、無言のまま、緊張して座っていた。
すると、離れたところから「ほり~こし~!!」という大きな掛け声が聞こえた。心臓が止まった。学校の先生が監視していたのか、先輩に見つかったのか、 映画が見れなくなるかもしれない、とにかくやばい状況だ、と考えた時間は、瞬間0.1秒。
ぼくはその声に瞬時に反応し、さっと立ちあがり、直立したまま「はいっ」と返事した。そして、その声の方を向くと、車掌がこちらへ向かってくるではないか。車掌はぼくの前で「どちらまで?」と問う。車掌が言ったのは、 「乗り~越し~(の方~)」だった。
まだ、その頃は、都内でも電車内に乗り越した乗客の切符を精算に回る車掌がいたのだ。

無事、100円シアターに入場したぼくたちは、席に着いた。7割程度の客がいた。そして、映画が始まった。
主人公の若い男は恋人と二人で、スウェーデンの山岳地帯を何日もトレッキン グしている。女は奔放な性格で、山で暮らしている遊牧民ラップ人の男性の前でも、平気で素っ裸で日光浴をしている。
ある日、主人公は恋人がラップ人の男と 親しげにしているのを遠くから目撃する。さらに、ひとりのスウェーデン人の若い登山者と出会う。その男とも恋人は親しげに振舞う。
嫉妬した主人公は、ある夜、嫌がる恋人に性交渉をしかける。
ここが、本邦初公開の性交場面だ。
二人が絡む構図の中に、無理矢理テーブルとか花瓶とかが、ど真ん中に入り、とても“性交するところを俺は見たぞ”とは言える代物ではなかった。もっともっと具体的なやり方を学習したかったのだが、 残念無念。
ところが、意外にもぼくはすっかりこの映画そのものにのめりこんでいた。
女は殺された(?)。渓流の中に死んでいる女。自殺か、はたまた男が殺したのか、ラップ人に殺されたのか、登山者に殺されたのか、不明である。
10年後、主人公は恋人の忘れられぬ面影を追って、同じ山道を歩く。
数々の思い出が甦る。やがて、主人公は恋人を殺した(彼がそう思っている)登山者が死ぬのを見る(主人公の幻想かもしれない…)。そして、男はこれまでの自分の過去に見切りをつけて、山を降りていくのだった。
ここまで、話を整理して書いたのだが、映画はこんな単純なものではなかった。現在と10年前の過去と、男の幻想と思い出と現実とがゴチャゴチャになった、何が何だかわからない構成だった。
だが、ぼくは、この映画に魅了された。それは、いろいろな事を考える面白さだった。フラッシュ・バックなどの映像技法にもびっくりした。
そして、この後、その表現方法がどのように使われているのか、自分なりに分析する面白さも知った。カメラワークや編集、そして映像テクニック。
ぼくは高校に入り、8ミ リ映画を撮ることになるが、そのきっかけとなった映画、それが、この『太陽のかけら』なのである。

映画が終わり、場内が明るくなった。超満員になっていた。たまげた。なんと、あちらこちらに、中学の同級生、先輩、後輩、知っている顔ぶれ2、30名く らいが4、5人のグループになって、散らばっていた。女生徒たちのグループもいた。みんなみんな、性交を見にきていたのだった。

そして、翌年、ぼくは、将来の映画制作に確信をもつ映画に出会った。
夏休みのある日、ぼくは池袋東口のピンク映画3本立てを見に行った。その映画が始まったとたん、いつものピンクとは、全く異質の雰囲気を感じた。
大学受験を目指す若者たちの葛藤する姿、当然そこには性もある。が、社会の中に存在する自分と個をこれほどまでに見つめた映画を見たことがなかった。こんな凄い日本映画があるのだ、と驚いた。

映画の題名は、「日本春歌考」(67年創造社・松竹。大学受験のため田舎から出てきた受験生の悶々とした日々を描く。朝鮮問題にも深く触れている。出演、荒木一郎、伊丹十三、吉田日出子。監督は大島渚という人だった。この頃の伊丹十三は、ぼくにとって人生の師匠であった。「女たちよ!」 「ヨーロッパ退屈日記」など、彼の本はすべてぼくの血となり肉となっていった。知性とアイロニーと独自の探求心、そして心のゆとりの大切さを教えてくれた。伊丹の先生は作家の山口瞳、山口の師匠はドイツ文学者高橋義孝。ぼくは彼 らの書物を読破していくことで、様様なことを学んだ。

タイトルだけで、ピンクにされてしまう実情には笑ってしまうが、ともかく出会えたことに感謝した。映像も素晴らしかった。荒木一郎らが、上智大学のグラウンドを雪降る中、真っ黒な学ランで、時折ひらひらと真っ赤な裏地をひるがえ しながら、歩いていく望遠のシーンは、ぼくにとって、忘れられない名場面のひとつとなった。

それから2年後、ぼくは、大島渚の映画に出演することになる。

 

中学3年の頃、放課後のクラブ活動(軟式テニス部)をサボり、授業が終わると、一目散に家に帰った。テレビを見るためだ。それは、フジテレビ『3時の名画座』だった。昔の地味な映画ばかりやっていて、フランス映画が多かった。

中でも、フランソワーズ・アルヌールという女優の映画がぼくのお目当てで、 いつも胸の大きく開いた衣装を着ていた、この肉感的な女優に憧れていた。出演していた映画も『肉体の怒り』『寝台の秘密』『女猫』など、童貞中学生には毒のようなタイトルばかりだった。  もっとも、彼女は、ジャン・ギャバンとの共演の名作『ヘッド・ライト』や 『フレンチ・カンカン』、アラン・ドロンとの『学生たちの道』などで、日本人好みの小柄なセクシー派女優としてすでに有名ではあった。

この『3時の名画座』で、『墓にツバをかけろ』(仏、60年、 監督:ミシェル・ガスト。弟が白人少女を犯したという理由で、リンチに合い殺される。その復讐のため、それほど黒人とはわからない色男の兄が、白人女をたぶらかしつつ、リンチの首謀者を探っていく)という映画を見た。アメ リカを舞台に黒人が白人娘を次々に誘惑し、犯しまくる、凄いフランス映画だった。この白人対黒人という人種問題のテーマは、当時のアメリカでは作れないので、フランスで作られたということらしい。

ぼくの記憶では、この人種問題に深く触れた初めてのアメリカ映画は、ノーマ ン・ジェイソンの『夜の大捜査線』(米、67年。 監督:ノーマン・ジェイソン、主演:シドニー・ポワチエ、ロッド・スタイガー。アメリカ南部の町で起こった殺人事件を巡り、偶然居合せた黒人エリート刑事 と町の白人保安官との確執と友情を描いた犯罪推理映画の傑作。レイ・チャール ズの主題歌もすばらしい)になるのだろうか。

この『墓にツバをかけろ』の中で、全裸の女性が、沼で泳いでいて、それを山の上から、主人公が見ているシーンがあったが、これがぼくの初めて見た、陰毛らしきものが見えるスッポンポン・シーンだった。 (これを書き終えた後、偶然この作品のDVDを手に入れたので、早速見てみた。そうしたら、沼ではなく川であり、何と全裸ではなくビキニのパンティをはいていた。女は星柄のパンティを付けていたのだ! 何といういい加減な記憶。 記憶は、人のパンツまでも脱がせてしまうのか!!)

陰毛といえば、思い出すのが、『土曜イレブン』というTV番組だ。昔、日本テレビの平日深夜帯で大橋巨泉司会の『11PM』(イレブン・ピーエム)という有名な番組があったが、高校の頃には、土曜にも関西制作の『11PM』があり、これを『土曜イレブン』と称し、曾我廼家明蝶あたりが司会をしていた。

『土曜イレブン』も‘生’番組を謳い文句にしていたが、ある落語家がスタジオ内に設置された五右衛門風呂に入り、その回りに全裸のモデルが2名、お尻を向けていた。落語家のしゃべりが終わり、しばらく間があった。突然、右側の女が終わったと思い、こちらに振り向いてしまった。約1秒、その女のたわしのような陰毛が全国へ流れてしまったのだ。

ぼくは、ピンク映画などで、裸になる女優さんはみんな‘貼りバタ’(貼るバタ フライの略。陰毛や性器を隠すため、ガーゼとガムテープであてがったもので、女性だけでなく、男性も同様だった。これは隠すだけでなく、大きくなって、絡みに支障をきたす演技をさせないためでもあった)をしているものだと知っていたから、驚きだった。よくここまで、開放されたものだと感心もした。将来はテレビ局に勤めようかとも思った。

巨泉といえば思い出すのが、ぼくが中学の頃、土曜の午後4時からフジテレビで音楽情報番組『ビート・ポップス』の司会をしていたのが、巨泉。全米キャッシュボックスのランキングとか、アメリカの最新音楽情報を紹介する、その頃では先端を行く異色の若者番組だった。

当時、巷ではゴーゴーダンスが流行っていた。司会の巨泉のバックには、四角いジャングルジムのような箱台が無造作に並べられ、そこにミニスカートのゴー ゴーガールズの面々が踊っていた。

その中心が、小山るみ&初代ゴールデン・ハーフの5人だった。小山るみは、スタイル抜群で会話も山田まりやのように明るく快活、短期間だがアイドルとして一世を風靡した女の子で、のちに加藤茶と噂になり、芸能界を去っていった。

この番組の中で、ゴーゴーダンスの振りとステップを教えるコーナーがあった。パラパラなどと同様に、曲によって決まった振りとステップがあり、最新の ヒット・ナンバーを使っていたため、ゴーゴー喫茶で自慢のステップを披露しよ うと意気込むダンス好きなやつらは、これを見て熱心に練習をしていた。

ここで、腰にスカーフを巻き、ぴったりしたタイツ姿で、振りとステップを教えていたのが、今はダンディーでちょっと変な中年紳士でうけている藤村俊二であった。

ゴーゴー喫茶は、赤羽にも4、5軒はあった。1ドリンク付で男性800円。ダンサーと称している女の子と知り合いになり、500円で入れてもらった。ぼくは、このみんなで揃って踊ることが大嫌いで、ひとり片隅でツイストみたいなものを 自分勝手に踊っていた。

有楽町や上野、池袋、新宿などの大きな街の店には、生バンド演奏も多く、がそのほとんどはフィリピン・バンドだった。

ゴーゴー喫茶のメッカは赤坂の“MUGEN”で、ここは入場料1500円と超高級だった。現在のクラブの元祖みたいな造りで、ドレス・アップした女の子や外国人が多く、来日したミュージシャンは必ずここに顔を出す名所スポットだった。

午後5時開場で入った。始めの内、お客の日本人はシャイであるためか、みんな席に座ったり、立ったりして、かかっているミュージックにリズムをとったり しつつ、ドリンクを飲んでいるだけ。一向にフロアで踊ろうとしない。1時間く らい、小康状態が続く。すると、頃を見計らって、岡田真澄のようなロマンスグレイのおじさんが、ある時は白人の男女がフロアに登場し、踊り始める。実はこの最初に踊る人たちは “さくら”なのだ。

すると、とたんにみんながみんなフロアに出ていき、一斉に踊り始めるのだ。ここでもやはり黒人たちのダンスはずば抜けていた。いつの時代でも変わらぬことなのだが、どの黒人も皆々すばらしいリズム感で、躍動していた。

彼らのダンスを2階から見下しながら、いつも彼らに憧れていた。ついでにぼくは、妄想をした。踊りのヘタな黒人の姿を。これが実に滑稽な想像になり、いつか本当にリズム感のない黒人のダンスを見てみたいものだと思うようになった。

ダンスといえば、高校時代に、東京12チャンネルで、深夜『ナイト・スポット』という番組があった。両親が寝静まった頃、真っ暗な部屋(家族で食事をする部屋で、テレビはまだ一家に一台の時代であった)で、そっとテレビを付けた。当然、イヤホンを付けてだ。10分間だけのこの番組は、日劇ミュージック・ホールのヌード・ダンサーたちが踊る番組だった。ベテラン殿岡はつ江、アンジェラ浅丘、新人ベルベルなど、 実に官能的なストリップ・ティーズを披露していた。

基本的には、乳首は見せない振付けになっていたが、プロである彼女たちは興に乗ってか、時々サービスをしてくれた。乳首が見えるたびに、ぼくは 「うぉー」という声をもらしていた(らしい)。

ある時、ぼくの大好きな豊満な肉体のベルベルが特別サービスをしてくれ、 「うぉー」「うぉー」「うぉー」と連発したため、不信に思った父が起きてきて、襖を開け、「うるさい、何してる、早く寝ろ」と怒られてしまった。

続く

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私家版「記憶の残像」①~テレビ熱狂時代

昭和26年の真夏にぼくは東京で生まれた。

昭和31年まで、東京の北に位置する袋町というところ(現在の赤羽北あたり)に住んでいた。日本色素という工場(現在は雪印乳業)の裏手に、焦げ茶の平坦な木造住宅が並らび、その中に我が家はあった。社宅のため、どの家も作りが同じで、小さな縁側が南向きに位置し、庭には必ず花壇や盆栽もどきの鉢がいくつも並んでいた。中には、公共である路地に棚を広げてしまう家もあったが、わずかながらの裕福の表現だったのかもしれない。 

日本色素の工場敷地には地下に下りる立派なコンクリート作りの防空壕があった。利用はされておらず、ぼくらの遊び場のひとつになっていた。こうした防空壕の跡はいたるところにあった。崖が多く、まだ土がむき出しになっていたので、ここに大きな横穴がいくつも残されていたのだ。入り口近辺には、ごみが散在したままで汚く、近所では中に人さらいが住んでいるといわれていた。

夏になると、近所の公園で、納涼映画大会があり、夕飯が済むと、どこも家族総出で見に出かけた。公園には、白い大きな幕が張られ、ゆらゆらと風にそよいでいた。それがスクリーンで、その前には、ゴザがしかれ、皆陣取りを開始する。映画は、たいがい怪談ものだった。夏の夜の屋外は、当然生暖かい風が吹き、スクリーンが揺れる。怖いお化けが歪んで更に怖さを増す。時々、冷気を帯びた風が吹きようものなら、辺りがざわつく。

映画が終わると、街灯のない月明かりだけの坂道をゾロゾロと歩いて帰るのだが、意地の悪い大人たちが、子供たちの後ろから、髪をなでたりするらしく、坂道のあちらこちらで、悲鳴が聞こえていた。

日本色素のはずれに、雪印乳業の工場があった。毎日何人かが工場見学に訪れていた。その人たちは、見学終了後に牛乳やヨーグルトのセットをお土産にもらっていた。この辺りの住人たちも、その土産ほしさに工場見学を何回もしていた。

ぼくはそこに隣接する大きな公園でよく遊んでいたので、工場の人から呼ばれ、余ったヨーグルトをもらった。当時、どこの家庭でも栓抜きと同様に、牛乳の蓋取り機が常備されていた。5センチくらいの平べったいプラスチックの先に、釘状のものが付いたもので、丸いボール紙で栓をした牛乳やヨーグルトの蓋をとるのである。家では、緑色のセロファンを手ではがし、蓋をとっていたのだが、ここの工場の人は、セロファンと蓋を、蓋取り機で一気に取っていた。子供心に玄人のテクニックを見た思いがし、すこぶる感心していた。  

ある時、この公園に、怪しげなバスが出没するようになった。母は、サーカスに売られてしまうから絶対に近づいてはだめだ、と念を押した。

そのバスは、夕方決まった時間に公園にやって来た。運転手と助手の窓以外は、黒い布でふさがれていて、中の様子は全く見えなかった。ランドセルをしょった小学 生たちがこのバスによく乗っていた。バスは、彼らを乗せると出発し、約30分く らいで元の場所に戻ってくるのである。降りてくる彼らはとても楽しそうだった。

ぼくはバスに乗る決心をした。バスに乗るには、お金が必要だった。母からもらった小遣い1円札10枚を払い、バスに乗りこんだ。真っ暗な車内に乗客はぼくひとり。バスが発車した。いきなり、アニメーションの映像と音響が流れた。それは、バックス・バニーやトム&ジェリーのような、アメリカのアニメだった。初めは、窓にかかった黒幕を少したくしあげ、注意深く道の確認をしていたが、そのうち完全にアニメにのめりこんでいった。

アニメが終了すると、公園の前で下ろされた。何事もなく済んだ怪しいバスの正体は、巡回移動上映のバスだったのだ。

ぼくは、この密かな楽しみを引越をするまで、続けた。


4歳の誕生日に、オモチャの幻燈機を父に買ってもらった。ブリキでできた幻燈機は、中央に100ワットの電球を吊るし、フィルムを手で回す手動式で、すぐに熱くなり、軽いやけどをよくした。フィルムは、35ミリ幅で1話 30~40コマ、長さにして、2メートルもなかった。すべてカラーのアニメで、外国作品と日本作品とがあった。いわゆるアニメ映画ではなく、1コマ1コマを じっくりと見るもので、フィルム版の漫画といったようなものだ。当然音が出るはずもなく、セリフは無声映画と同様、1コマの中に書かれていた。

作品のおもしろさもあったろうが、ぼくは、小さな白い画用紙を壁にセット し、これから見るフィルムを巻き、幻燈機に電球を取り付け、部屋の明かりを消 して、暗闇の中、1コマずつフィルムを回し、ながめるといった一連の行為そのものが、とても好きだった。

昭和31年、5歳の時、袋町から同じく北区の稲付町に移り住んだ。

この頃、世間を騒がせていたのは、テレビ放送だった。まだ放送開始直後、当時10万円以上もしたテレビをもっていることは金持ちの証で、だれの家にあるか、探偵ごっこようなことを大人たちも混じってやっていた。おもしろいことに、テレビ受像機を単にテレビと言わず、なぜか東芝テレビとか日立テレビとか、メーカーの名前も合わせて呼んでいた。 隣りの岩間さんちの人々は、みんな揃って、「今度、ITACHIテレビ買うのよ」って、自慢していた。

近所にその金持ちがいた。お父さんが有名製鉄会社のお偉方だった黒柳の京子ちゃんちである。我が家の借家は坂下にあったが、京子ちゃんちは同じ坂の一番上にあった。

小学1年か2年の時、ぼくは友達3人を連れて、坂を登りながら京子ちゃんちに行った。交渉するためである。もうじき、「月光仮面」が始まるのだった。「月光仮面」はテレビ映画の国産第一号で、見たくて見たくて、父に駄々をこねたが、当然、高級品であるテレビは買ってもらえなかった。そこで、意を決して、京子ちゃんとお母さんに「どうしても見せてほしい」と一同頭を下げてお願いをしにいったのだ。

こうして、毎日夜6時になると、京子ちゃんちの八畳間に上がり、友達3人と食い入るように、「月光仮面」を見るようになった (月~土曜夜6時~6時10分に放送されていた) 。

当時のテレビは4本足が付いており、どこの家も一番広い部屋(和室)の角に、中央に向けて置かれていた(ちなみに、狭い家では、床の間に置くこともあり、我が家の場合、床の間に置いた)。そして、家電製品というよりも高級家具として扱われていて、受像機を覆う布製カバーが付いていて、見ない時は、画面前に布を垂らし、それはそれは大切にしていた。そして、夜テレビを見る時は、必ず部屋の電気を消すのである。

この頃のテレビ画像は、まだモノクロだったが、しばらくするとオプション製品として、フィルターなるものが登場する。形や取付けは、現在のパソコン用フィルターに似て、ゴム製の吸盤で、固定した。色はブルー。テレビは目に悪いという風評に対して考えられたものらしいが、モノクロ画像よりかは、ブルー画像は幾分高級感があった。

明かりを消された八畳間で「月光仮面」を見ていると、京子ちゃんとお母さん、時々お父さんも入り、照明のついた明るいダイニングで夕食をとることが多かった。おいしそうな匂いがたちこめてくるが、母に夕飯までご馳走になっては絶対にいけない、と固く言われていたので、お腹が鳴りながらも画面をじっと見つめ続け、誘惑には負けなかった。

が、ある時、これまで嗅いだことのない、とてつもなくおいしい匂いに出くわ した。嗅いだことがないので、それはもう表現のしようもない。焼いている匂いはわかる。西洋料理らしいこともそれとなく感じる。
しかし、子供には複雑すぎるこの匂いは何だ。気になって気になって、とうと う、その日は「月光仮面」どころではなくなってきた。 家に戻ると、母に匂いの説明をしたが、結局食べ物の正体はわからなかった。

それから8年後、レストランで同じ匂いの食べ物に出会った。マカロニグラタンであった。

昭和33、34年。ぼくが小学2、3年の頃になると、大体近所のどの家に もテレビがいきわたっていた。

そして、テレビが子供たちに悪影響を及ぼすのではないかという世相のためか、学校で生徒がどんな番組を見ているのか、調査があった。ぼくは、職員室に連れていかれ、どうしてこんなにいっぱい(テレビ番組を)見ているのか、勉強はいつやっているのか、と先生にしかられた。ついでに母もしかられた。

我が家にも待望のテレビが入るや、ぼくは、夜になるとひっきりなしにチャンネルをひねって、何でも見ていたのだった。どれもこれも楽しいものばかりだった。

人形劇の傑作「チロリン村とくるみの木」、インディアンのトントを従え、白馬にまたがる黒マスクの正義の味方“ハイヨー、シルバー”「ローン・レンジャー」、若山弦蔵の吹替えが印象強い“渋い”西部劇「モーガン警部」、警視庁の新聞記者クラブを舞台にした“いつも将棋を指している”「事件記者」、ベレー帽のズッコケ大作が好きだった推理ドラマ「日真名氏飛び出す」、高橋圭三司会の“みんなマント姿”のクイズ番組「私の秘密」、大平透が吹替えで、夢中になっ た“空を見ろ、鳥だ、飛行機だ、いや”「スーパーマン」、退屈な日常を楽しく しゃべる、なんてことのない舞台コメディー「お笑い三人組」、寸劇の中にヒン トが潜む、犯人当てクイズ「私だけが知っている」(解答者に若き大島渚がいた)、月光仮面の大瀬康一主演の時代劇「隠密剣士」、同じく大瀬と助演牧冬吉の無国籍アクション「ジャガーの眼」、騎兵隊とシェパードの活躍を描いた「名犬リンチンチン」、母子家庭とコリーの愛情物語「名犬ラッシー」、落語家・柳家金語楼が割烹着姿のおばさん女装した「おトラさん」、初めて見たカーチェイス、アメリカのパトカーはかっこいい「ハイウェイ・パトロール」、今では考えられない、現実の事件に基づいた刑事ドラマ「ダイヤル110番」、オープニングのヒッチコックと熊倉一雄の声が抜群のマッチを見せたオムニバスのサスペンス 「ヒッチコック劇場」、見えない観客の大きな笑い声がとても気になった名作ホーム・コメディー「アイ・ラブ・ルーシー」、早撃ち女ガンマン「アニーよ銃をとれ」、ほのぼのしたホーム・ドラマ「パパは何でも知っている」、大村昆主演の上方喜劇「番頭はんと丁稚どん」、同じく鞍馬天狗のパロディ版「とんま天狗」、藤田まことと白木みのるのデカチビ・コンビ“あたり前田のクラッカー” 「てなもんや三度笠」(ひじょ~に、さみしぃ~の財津一郎が超大好きだった)、お昼のドタバタ・サラリーマン・ギャグ「スチャラカ社員」、ハミングだけの粋なテーマ曲で始まる「七人の刑事」、山城新伍の時代劇活劇「風小僧」、 訳のわからぬ主題歌“は~くばどぉ~じがや~ってくる、あ~、もっともだ、もっともだ”の「白馬童子」、東南アジアの暴れん冒険活劇「怪傑ハリマオ」、ぼくも入団したかった“ぼ、ぼ、ぼくらは”「少年探偵団」、スパンキー&アルファルファが主犯格、悪ガキたちの猿知恵ドタバタ・コメディー「ちびっこギャン グ」、ぶつ、ける、どつくのナンセンス・ドタバタ「三ばか大将」、こうもり傘を巧みに操るドジ男の危機脱出コメディー「ハイラム君に乾杯」、ライフルの名手の親子西部劇「ライフルマン」、カウボーイたちのリーダー、フェイバーさんと若きロディー“C・イーストウッド”の苦難の旅を描く人間西部劇「ローハイ ド」、ハゲ頭、口回りのヒゲ、ステテコ姿で首をふりふりしている、変なおじさんの元祖大宮敏充の大衆娯楽劇「デン助劇場」、クレージー・キャッツの5分間生時事コント「おとなの漫画」、何でも解決してしまう凄腕弁護士の法廷ドラマ 「ペリー・メイスン」、ライフルの銃身を短くした銃で賞金稼ぎ、嫌われ者故の哀愁の一匹狼“スティーブ・マックィーン”「拳銃無宿」、ザ・ピーナッツのオープニングとクレイジー・キャッツが絡むエンディング、バラエティー番組の元祖 「シャボン玉ホリデー」、助っ人色男ジェス・ハーパーことロバート・フラーの「ララミー牧場」、“男、女、誕生、死、そして∞”外科医「ベン・ケーシー」……。思い出すまま挙げてもきりがない。

この時代はアメリカ製ドラマが数多く放送され、多彩なジャンルながら、皆よくできていた。そして、その吹替え(当時は、口パクといった)のうまさのため、テレビを初めて見るおじいさん、おばあさんが、「あの外人さん、日本語がうまいねぇ」といった漫才も生まれた。

こんな沢山見ていた番組の中で特別楽しみだったのが、金曜の午後8時、日本テレビ“三菱ダイヤモンド・アワー”だった。

“チャーン、チャーチャ、チャチャチャン”のオープニング・テーマで始まるプロレス中継である。まず、試合前、マット上に掃除機をかけるのだが、掃除するには実にいい加減なのだ。早いもの見たさからか子供心に、そんなこと、テレビ が始まる前にさっさとやっておけよ、と思った。

日本陣営は、我らが力道山を筆頭に、吉村、豊登、遠藤幸吉、芳ノ里(始めはアメリカ帰りの超悪役)たち、レフリーは沖識名。ミスター珍(のちにレフリーに転向)というのもいたなぁ。

外国勢には、ルー・テーズ、シャープ兄弟、ジェス・オルテガ、グレート東郷、ユセフ・トルコ(後に日本側につく)あたりが定番だった。

ある日突然、強烈な悪役が登場し、興奮状態が最頂点に達する出来事が起こった。力道山の相手は、銀髪ブラッシー。特に技をもっているわけでもなく、いたって弱い。ところが、こいつが力道山の額に噛みつき始めた。離れられない力道山。ブラッシーが離れると力道山の額は血で真っ赤。多分、これが日本プロレス史上初の流血戦だ。そして、ヤスリで研いだ歯で、何度も何度も額を噛みつきにいく。「あー、力道山、痛いよぉ、もうだめだぁ」お腹がしくしく痛くなり、子供のくせに、なぜか股間がだるくなる。

この試合を見ていた老人が心臓マヒで亡くなったと、翌日の新聞で報じていた。

もうひとつ、忘れられない試合がある。ザ・デストロイヤーとの死闘だ。ザ・ デストロイヤーは元数学者という説を唱えたのが、当時の愛読書「少年マガジ ン」。来日する外人プロレスラーを紹介するページがあり、この中で、数学を駆使して生まれた必殺技が、四の字(四文字)固めだという。力道山の必殺技は空手チョップ。これを防いだのも、ザ・デストロイヤーが初めてだった。両手を体の前でクロスしたのである。数学のなせる技なのか。「あー、空手チョップがだめだぁ、負けちゃうよぉ」だんだん、お腹が痛くなってきた。

そして、必殺四の字固めが決まった。全く外れない。苦悶の表情の力道山。だが、力道山が必死に体を捻り、うつ伏せ状態で、腕をマットから突っぱねて、ザ・デストロイヤーよりも体が上位になると、ザ・デストロイヤーが逆に痛がるではないか。ザ・デストロイヤー敗れたり、と思いきや、いとも簡単に元に戻されてしまう。それから、延々とこの状態が続くことになる。結果はたしか、引き分けになった。レフリー以下、総出で、互いの足を外そうとするのだが、全く外れないほどに食い込んでいた。

やっと外された時、何とデストロイヤーと力道山のシューズの紐がボロボロに切れていたのだ。ぼくを含め、全国プロレス・ファンの子供たちは、この四の字固めこそ、プロレス最強の技と知った瞬間である。その後、子供たちの間で、四の字固めごっこが蔓延していく。

少年マガジンの来日プロレスラー紹介の記事は、試合のプログラムのように、テレビを見るぼくらにとって参考書だった。
この中で、最強といわれたのが、インドのなんとかシンというレスラーだった。カール・ゴッチに師事を受けた正統派レスラーなのだが、体の全てをヨガで鍛え上げたのだ。何と金玉までも。こいつは、力道山の空手チョップに敗れた。喉はヨガでも鍛錬できないと後日談にあった。あ~あ。
ぼくが最も怖がったレスラーが、全身を包帯でぐるぐる巻きにしたザ・マミーである。ミイラの呪いと腐臭で戦意を喪失させるのだ。これが、お話にならないくらい弱かった。
そういった意味で、記事のとおりだったのが、ボボ・ブラジル。貧しい家庭に育った彼は、小さい頃から殴られ屋として、金を稼いだ。頭突き一本で勝負する、わかりやすい、ぼくの大好きな黒人レスラーだった。
力道山を失神させた巨漢カルホーン、マネージャーのグレート東郷が首にチェーンを巻いて登場したグレート・アントニオ、“胃袋掴み”のキラー・コワルスキーなど、印象深いレスラーたちの登場に、ぼくは心を躍らされた。このプロレス中継は、野球中継同様に、力道山の活躍途中で放送終了になることがしばしばで、生中継と言えども、腑に落ちなかった。後で聞いたのだが、翌日のスポーツ新聞の売上げを上げるためだったらしい。

実は、このプロレス中継、隔週で放送されていた。
もうひとつの“三菱ダイヤモンド・アワー”は、ウォルト・ディズニーのドキュメンタリー仕立ての実写版作品の放送だった。
得意の動物ものはもちろん、ハリケーンのドキュメンタリーなどもあった。日本では、台風32号とかで呼ぶ熱帯性低気圧を、アメリカでは、マリアとかジュリアとか、女性の名で呼んでいた。

こんなに沢山の番組を見ているせいか、ひっきりなしにカチャカチャと回す (テレビの)ダイヤルが、ある日とれてしまった。元に戻そうとすると、鉄の芯棒があった。ここから外れたのだと、なぜか人差し指で、そぉ~っと触れてみる。 ビリリッと電気が流れる。
こうしたダイヤルがとれるのは、テレビの欠陥部分で、どの家も同じだった。
これが一種の度胸試しとして、子供たちの間で流行していくのである。
ビリリッとくる電気遊びに没頭するぼくたちは、以後どんどんと頭がいかれて いく。

続く

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