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私家版「記憶の残像」③~都立高校

昭和42年、高校に入学。
この年から、都立高校の学校群制度が採用され、第41群を受けることになった。一応有名大学を目指していたため、志望校は前から小石川高校と決めていたが、次第に竹早高校に行きたいと心変わりしていった。
竹早は女子校で有名だったが、この学校群でも、入学者数女子200名、男子100名と、女子が倍いることを知ったからだ。
願いが叶って都立竹早高校に入学することになった。前後左右、女子に囲まれながらの授業に心は踊った。
ところが、入校して驚いた。なんと、全6クラスの内、男子が2クラス、女子が4クラスに分けられていた。何が男女共学だよ、詐欺に会ったような気持ちになった。
しかも、教師たちが異様に張りきっていた。これを機会に大学進学率を高めるためだ。  休み時間、ぼくは同じ中学出身の女子を呼んで、あの子を紹介してくれ、と画策をしていたら、「こら堀越、休み時間は何のためにあると思っているんだ」と担任の教師が注意をしにきた。「休むためです」とぼく。「休み時間というのは、次の授業の自習のためにあるんだ。廊下で無駄な時間を使うな」と訳のわからないことをいう。
ぼくのクラスに、いつもヘラヘラ顔の丸山という男がいた。ある日、国語の授業中、「何がおかしいんだぁ」と教師に張り手をくわされた。それから、時に殴られ、時にチョークを投げられ続けた。だれかが居たたまれなくなって、「丸山はおかしくて笑っているわけではありません。こういう顔なんです」といったが、一向に聞き入れてはくれなかった。
こうした環境に、ぼくはなかなかなじめなかった。

そんな矢先、中学で仲のよかった高橋秀太と偶然、地元赤羽で出会った。
秀太は、都立高校を受けず、甲子園を目指すべく、高校野球の名門日大三高に行った。彼は当然野球部に入部したが、即、挫折した。3年まで、レギュラーがすでに決まっていたのだ。退部して、日々ぶらぶらしていた時だった。
秀太は銀座のクラブに連れていってくれた。
そのクラブは、数寄屋橋近くのビルの2階にあった。銀座のクラブといっても、いわゆる高級クラブではなく、看板はスナックになっていた。が、当時純喫茶あたりで、180円のコーヒー一杯が600円もしたから、高いことは高かった。
夕方、店は開き、出勤してきた女の子たちは普段着で店の掃除やテーブルの整えなどをしたり、時間をつぶしていた。更衣室で休んでいる子もいた。夜7時になると、お揃いのチャイナ・ドレスで接客が始まる。秀太のボトルで、ぼくは、ウイスキーをコカ・コーラでわる“コーク・ハイ”を、いつも決まって飲んでいた。
ぼくは週に1、2度ここに訪れ、日大三高の金持ちボンボンたちと遊んだ。

この頃、都内では都電がいたるところで走っていた。ぼくは、池袋から都電に乗り換え、東池袋、護国寺を抜け、不忍通りから春日通りを右に折れ、茗荷谷駅前、小日向、春日二丁目と通学した。
この不忍通りと春日通りの交差点に“キクヤ”という大きな写真店があった。写真機材や写真に関する全てが用意された卸問屋の趣きで、今でいうヨドバシカメ ラなどの前身みたいなものだ。
品揃えは東京一で、全国から買いにくる客も多かったし、カメラ小僧たちの溜まり場でもあった。ぼくも学校の帰りに、ここに寄ることが多かった。
当時は、35mm(一般のカメラ)関連のものを見たり買ったりしていたが、次第に興味をひかれていったのが、8mmカメラだった。

8mmカメラは、エルモ、フジカ、ヤシカ、小西六(コニカ)、ニコン、チノン、 キヤノンなど沢山のメーカーが参入する、現在のビデオカメラ同様、ホーム・ ムービーの旗手であった。
フジカ・シングル8(エイト)のテレビCMで、「わたしにも写せます」と若き扇千景が宣伝をしていた頃である。
ぼくが最初に手にしたのは、“ダブル8”という幅16mmのフィルムを使う古いタイプのものだった。片側を写した後、ケースを反転させてもう片側を写し、現像で真中から半分にし、8mm状態にするものだった。当然、フィルムは白黒だった。
カラーフィルムも既に登場していて、主流になっていたのは、同じ8mmフィルムながら、一コマの面積を大きくとったフジカ系の“シングル8”とコダック系の“ スーパー8”というマガジン式のタイプだった。(白黒フィルムの需要もまだまだ高かった)
フィルムは、富士フィルムの“フジカラー”と小西六の“さくらカラー”の国内勢 と、コダックの“コダカラー”のアメリカ産とのシェアに分かれていた。
これらのフィルムには、それぞれ特徴があり、“フジカラー”はややブルーがかったトーン、“さくらカラー”はやや赤味がかったトーン、“コダカラー”は明るくはっきりとした色彩であった。
何故そんなに色の調子が違っていたのかというと、ぼくの勝手な推測だが、日本の四季のせいだと思う。富士フィルムも小西六も、日本の鮮やかな春の緑や満開の桜、秋の紅葉、深深 とした冬の雪景色…日本の四季の風景の美しさを表現するために、それぞれ青な り赤なりをやや強めることによって、わびなり、さびなりにいかに近づけるかを試みた結果だと、ぼくは解釈している。
その点、外国産のコダックは、見た目よりも、明るく原色に近いものだった。 おそらく燦燦とふりそそぐ太陽を前提にした能天気な撮影を設定のベースにしたのだろう。これは、のちに手がける16mmフィルムでも同様のことが言えた。
(この色味の感覚は、ビデオテープのVHS方式とベータ方式の違いにも現われていた)


高校になじめないでいることを他のことで紛らわしていたこの時期、相変わらず雑誌などの懸賞で、試写会に行くことは続けていた。
ある夜、有楽町の東宝劇場で行なわれた『オリバー!』(68年、イギリス。監督キャロル・リード。出演マーク・レスター/オリバー・リード。チャールズ・ディケンズ原作の「オリバー・ツイスト」をミュージカル映画化。マーク・レスターはこの後「小さな恋のメロディー」で人気者になる)の試写に行っ た。来日していた主演のマーク・レスターの挨拶もあり、試写が終わっても、会場出口には沢山の女の子たちがマーク・レスターを待っていた。

ぼくは帰り際、駅に向かって歩きながら考えた。マーク・レスターはまだ子供だ。とすると、劇場の裏手にあるゲーム・センターに遊びに行くかもしれない。そこは、ちんけで汚ないゲー・センで、夜遊ぶやつはひとりもいないところだった。この頃のゲーセンは現在と大分趣きが違い、ピン・ボール(※銀のボール(持ち玉は百円で3球)を、ゲーム盤に打ち込んで、左右のボタンを使って、はじきかえし、できるだけ長く、ボールを盤内に残し、得点を稼ぐゲー ム。沢山の種類があったが、ぼくは、「ストーンズのアンジェ」が大好きだった。ボールが秘密の穴に入ったり、高得点をクリアーすると、ミック・ジャガー の「アンジェ~」という歌声がひと声流れるもので、そのゲームの興をそぐ虚無的な感じが好きだった)が主流だった。

薄暗いあたりには、やはりだれもいなかった。しばらく、ピン・ボールをやっていたら、家族や通訳に連れられて、マーク・レスターが現われた。

ぼくは、かばんから、『オリバー!』のパンフレットを取りだし、「ハイ、マーク。プリーズ、ライト・ユア・サイン」と言って、小さな小さなマーク・レスターさんの前につきだした。サインの後、握手もしてくれた。なんて、いい奴なんだ、マークは。

しかし、マークはぼくをじろじろと見ている。離れたあとも、振り向きながら、ぼくの方を見て、通訳に何か聞いている。どうやら、ぼくの学生服が奇妙に映ったらしい。

それが気になってかどうかは別にして、ある日、ぼくは生徒手帳を取り出し、「服装」の項を読んだ。そこには、「原則として、学生服を着用すること」と書かれてあった。「原則として」かぁ。

次の日、ぼくはアメ横で買った黒の綿パンをはいて学校へ通った。だれも気付くものはいなかった。当時、学生服や制帽のほか、濃紺のレインコートも学校から強制的に購入させ られていた。ベージュのレインコートを着ていった。これも何も言われなかった。

こうして、良識ある友人らの暗黙の了解と協力で、少しずつではあるが着実に、“反学生服”というぼくの個人的ゲリラ活動が開始された。

文京区春日町にあった竹早高校に通っていた頃、都電での帰り道は、池袋からの行きとは違い、隣駅の大塚に寄ることがたまにあった。

それは友人が大塚あたりに多かったせいで、同級生の中には、3畳一間のアパートで悲惨な暮らしをしていたやつもいた。大塚の南口駅前に、よく寄るカレースタンドがあった。カウンター8席くらいの小さなお店で、ここのカレーライスは何と市販の“大塚のボンカレー”を使っていた。冗談ではなく、本当のことだ。カウンターに座ると、正面の棚には、大塚のボンカレーのパックが所狭しと積み上げられていた。ボンカレーはまだ出始めた頃だったが、大ヒットしていたため、だれでも家で手軽に食べられる味だった。

ところが、ここは客を引く巧妙な手を使って、客足を絶え間なくしていた。それは、当時1袋80円のボンカレーを2袋使い、120円で売っていたのだ。当たり前だがライス付きで、だ。カツカレーやエッグカレー、ハンバーグカ レーなどもメニューにあったが、それでも160円くらいだった。何とも得した気分になれたのだ。

 

とても変なやつがクラスにいた。勉強をまるでしないそいつは、いつもアメリカのバスケットボール・マガジンを読んでいた。

ある日、こいつが、その雑誌を見せながら、いかに黒人が素晴らしいかを、ぼくに説明し始めた。ぼくも黒人はカッコいいなとは漠然と思っていたが、彼の説明は、ぼくが思っていた以上に、論理的で説得力をもっていた。

黒人プレーヤーとコンバースのバスケット・シューズとの相性について。マンシングウェアのウィンド・ブレイカー(今のブルゾンに近い)をカッコよく見せたのは黒人であること。黒人に何故金歯が多いのか。挙句の果ては、体臭やお尻の形の話まで、延々と語った。

彼は熱心に聞いていたぼくに、「ジャズ、知ってっか?」と問うた。これが一番黒人をわかる方法だ、と言って、放課後、写真問屋“キクヤ”(前回紹介)の裏手の路地にあるジャズ喫茶“チータ”へ連れて行った。“チータ”はカウンター5席くらいの、小さな小さなジャズ喫茶だった。

ぼくは、ジャズに関心はなかったし、真剣に聞いたことはなかった。彼は、マスターに曲を注文をした。それは、とてつもなく美しい曲だった。ジョン・コルトレーンの「マイ・フェバリッド・スィングス」、それが、ぼくの初めて知ったジャズだった。

「ま、初歩だけど。いいだろ?」と得意そうに言いながら、ジン・ライムを、ちびっと飲んで、にやりと笑った。口の奥から、金歯がきらりと光った。

ぼくは、夏休みにひとりで行こうとしていた九州への無銭旅行に、そいつを誘った。

佐賀県鳥栖に着いた時、ぼくは誘ったことを後悔した。極力、無駄なものは持ってくるなと言っていたのに、やつのバッグの中は化粧水、日焼けクリーム、 コーヒー豆とその道具、生クリームの缶など、ぼくにとっては、いらないもので一杯だった。しかも、車を拾わない、ときた。

ぼくたちはヒッチハイクで、佐賀、大村、諫早、長崎、天草本渡から鹿児島県に入り、阿久根、西方、川内、串木野を抜け、伊集院という町にやってきた。どこか野宿できるところがないか、町の人に尋ねていたところ、東京からやってきたぼくたちの話を耳にした町長さんがいい所に案内すると、車に乗せてくれた。

着いたところは、浜辺のキャンプ場だった。そこは、これまで見たことのない、とてつもなく美しい浜辺だった。浜は、1、2センチ大の真っ白で均一なまん丸石で覆われ、海は真緑色だった。日本一美しい海と思っているが、今はどうなっているのだろうか。

ここで、ぼくたちは、のんびりと何もしないで2日間過ごした。この伊集院の駅から枕崎まで、単線2両編成の汽車で南下した。が、出発時間を過ぎても発車しない。10分、20分と過ぎていくが、みんな何も言わない。ぼくは、新聞を読んでいたとなりのおじさんに、何故出発しないのか、尋ねた。ひとり乗っていない人がいるので、待っているのだ、と言う。

枕崎から開聞岳を経て、指宿に向かう途中、山川という町に寄った。ここは、薩摩藩の忍者の町で、暗号のような日本一難解な方言を使う所であることは知っていた。

ここで、車を止めた。その車は、荷台が鉄格子になった大きなジープだった。 鉄格子の中には、スコップを持った男たちがいた。嫌な感じがした。指宿まで行きたいと説明したが、運転手の言葉が全然わからない。運転手は、後ろに回り、 鉄格子を開け、ぼくたちに乗れ、という仕草をした。乗った。走り出した。中にいた男たちが、あーあーだの、うーうーだのと言って、話かけてきた。あーあー だから、何を言っているのか、わからない。ぼくらは目を合わせないよう、下を向いていた。

しばらくすると、国道から左に折れ、山の中に入っていくではないか。ぼくらは、国道をまっすぐ指宿に行きたいと説明したはずだ。運転手に、指宿、指宿、と声をかけたが、戻ってくるのは、意味不明の方言。

着いた先は、真っ白な大きな建物だった。やばい。門に看板がかかっていた。そこは精神病院だった。入れられるかもしれないと、ぼくたちは、車を降りると少しずつ後ずさりをし、逃げる準備をしていた。白衣の院長さんが出てきて、笑いながら手招きをした。彼は、標準語で話した。運転手は、道路工事をしていた患者を病院に戻してから、指宿に連れていくつもりだった、と言った。

この頃、通っていた映画館は、赤羽台団地の入口にできた洋画3本立ての“赤羽オデオン座”。ここでは、007シリーズ、黄金の7人シリーズ、電撃フリント・ シリーズ、マカロニ・ウェスタンなどといった、いわゆる娯楽ものを見ていた。

しかし、学校の帰りに池袋で見ることが圧倒的に多かった。文芸座や文芸座地下、蔦のからまった風情ある人生座、ここらで見るのがほとんどだった。文芸色、芸術性の高いものがよく上映されていたからで、ぼくはそんな作品がどちらかというと好きだった。

文芸座で『卒業』(67年、アメリカ。 監督マイク・ニコルズ。 ダスティン・ホフマンの映画デビュー作で、「エレーーーヌ!」と叫ぶラスト・ シーンはとても痛快だった)を見た。サイモン&ガーファンクルの挿入歌がとても新鮮で、その手法に感心した。邦画やミュージカルは別として、歌が映画の中で流れるのは、ほとんどラストに、と決まっていた(ように思う)。だから、新しい映画の表現しとて、特別なインパクトを受けたのだ。

同時期に同じようなイギリス映画を見た。『茂みの中の欲望』(67年、イギリス。 監督クライブ・ドナー。童貞を捨てるため、女の子を探し求める高校生のある青春。「女なんて、もう懲 り懲りだ」と言って、再び女の子を追うラストがすがすがしい)である。 こちらは、トラフィックやスペンサー・デイビス・グループの軽快な歌とロッ ク・サウンドが、至る所に散りばめられていた。主人公の目が突然光ったり、ベッドやタンスの上をピョンピョンと飛び回るなど、サイケデリックな映像が楽 しい、『卒業』同様、童貞喪失ものだった(ちなみに、この映画は、ぼくの好きな映画ベスト10に入っている)。その後、テレビ朝日の深夜帯で、何度も何度も放映されていた。

洋画1本立て100円の日勝(にっしょう)地下にも、よく行った。東京で一番安い映画館だった。ここでは、裸系や際物が多く、とても変な映画ばかり見ていた。

出産シーンを初めて写した西ドイツの性教育セミ・ドキュメンタリー映画『女体の神秘』(67年、西ドイツ。 体内にマイクロ・レンズを入れ、受精の瞬間や胎児の成長を写した、当時では珍 しいドキュメンタリー。世界的にヒットしたらしい)、変態のぞき魔田舎青年の鬱積が暴行殺人を引き起こすギリシャ 映画『欲望の沼』(66年、ギリシャ。 監督コスタス・マヌサキス。 ギリシャ女優エレーナ・ナサナエルの美しさが格別だった。66年のカンヌ映画祭 出品作でもある)、ファッション・モデル(当時はカバー・ガールと言っ た)の生態を描いたフランス・イタリア合作映画『湖のもだえ』、第二次大戦下での若者たちの憤りを描いたスウェーデン映画『蛇』(66年、スウェーデン。 監督ハンス・アブラムソン。性の様様な形に喜びを見出そうとする女と無軌道な男との恋人同士が織り成す人間模様。男はナップサックに、いつも蛇を入れていた)などだ。

そして、“アメリカには絶対に行かないぞ”と心に決めた映画が『地獄の天使』(66年、アメリカ。 カルフォルニアの田舎町に、暴走族とひとりの青年との戦いを描いたものだが、“ヘルス・エンジェルス”の実態を浮き彫りにした作品として注目され、また、当時のカルチャー論などにも、よく引き合いに出された映画でもある)だった。ヘルス・エンジェルスのような想像を絶する恐い人々がいる国には、絶対行きたくないと純粋に思った。

ちなみにこの後、“アメリカにはもう行くまい”と追い討ちをかけたのが『羊たちの沈黙』だった。これもレクター博士が、ぼくにとって、想像を絶するとてつもない恐い人物だったからだ。

こんな風にして、映画を見ていたものだから、大学まで、ロード・ショー館へは全く入ったことがなかった。

そして、昭和43年、ぼくが高校2年の後半、竹早高校は校舎全面改築のため、新宿区新宿高校の校舎を間借りすることになった。

続く

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