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私家版「記憶の残像」⑨~中村橋時代

路上アクセサリーを廃業しよう決意したぼくは、仕事を続けながら自分に向いた職業はなんなのかを模索していた。求人情報誌を眺めながら、世の中にはいろいろな職業があるものだと感心していた。その中に「フィニッシュ・ワーク」 という聞いたこともない職があり、気になったので電話をした。「フィニッ シュ・ワークって、何ですか」と聞いた。すると「そんなことも知らないで応募するな」と怒られてしまった。

この頃、ゴースト・ライターとして、漫画の原作を書いていた後藤和夫に相談した。ぼくも映画のシナリオをよく書いていたので、それを活かせる職業はないか、相談をしたのだ。後藤は“牛次郎事務所”というところで働いていた。牛次郎は、最近では“日刊ゲンダイ”の漫画「やる気まんまん」の原作者として知られているが、当時は超売れっ子であった。ぼくが読んでいた漫画は、「料理 の鉄人」対決の原型となった『包丁人味平』やあの手この手でやってくるパチプロたちとの闘いを描いた『釘師サブやん』などがあり、後藤は“週刊漫画ゴラク” の『パチンカー人別帳』の原作のゴーストをやっていた。

相談をしてから、数ヶ月経ったある日、後藤から連絡があった。牛次郎がシナリオ・ライターたちの事務所を開設するということでそこに入らないか、ということだった。「頼む」とお願いをした。

面接をするために、南青山にあった事務所を訪ねた。 応対したのは、名目上の代表であった佐藤さんという、色が黒く、体のガッシリした二枚目顔の男だった。ぼくは即採用となった。が、行き先が違っていた。ぼくはてっきりシナリオを書くものだと思っていたが、配属になったのは、同じ牛次郎が経営し、佐藤さんが社長の“ダックスハウス”という編集プロダクションだった。そこで編集をやれ、ということだった。給料は10万円。昭和53年、27歳の時であった。

編集の“へ”の字も知らないぼくにとって、毎日が驚きの連続であった。空いた時間に、編集の基礎は多少話してはくれるものの、みんな忙しいので、“編集ハンドブック”という本を渡され、後は自分で考えてやれ、ということだった。電話で交渉することなど、やったことがないため、きちんと答えられずとても恥ずかしかった。だから、回りに聞かれないよう、机の下に潜って電話をした。みんなは、それをやさしく無視してくれた。

最初の仕事らしい仕事は「猫」の単行本だった。猫好きな有名人に原稿を書いてもらったり、インタビューをして書き起こすものだった。佐良直美、皆川おさむ(「黒猫のタンゴ」)と順調に依頼を受けてくれたが、やなせたかしなど文筆家からは、ギャラが安いといとも簡単に断られた。

猫好きで有名な森茉莉を訪ねた。彼女は一匹の猫と同居していた。大好物はお寿司で、サビを抜いてもらうという。ぼくは、猫がお寿司を食べる時代になったのだ、と多少びっくりした。突然、彼女は、「素敵な方だけど、とても変な人なのよ」と美輪明宏の話をし始めた。美輪明宏は、普通の車もタクシーのように止めてしまうのだそうだ。中々止まってくれないと、道路にまで出て、両手を広げて、無理矢理止めて、どこどこまで行って頂戴と頼むという。「強引な人だけ ど、憎めないのよ」とやさしい笑みを浮かべ、語っていた。

ぼくにとって、胸踊る機会が訪れた。映画「伊豆の踊り子」を撮影中のアイドル林寛子が、砧の撮影所で化粧直しの30分、インタビューに応じてくれることになったのだ。

ぼくは早速「猫が大好きということですが…」と言いかけた時、「猫? 私が好きなのは犬よ」。頭が真っ白になった。話が違うじゃん、と思うより、どうこの場を取り繕ったらいいのか、皆目わからなくなった。数分間、冷や汗をかき続けた。ぼくは何が何だかわからないまま、あらかじめ聞く内容を書いておいたメモを読み始めた。犬でも猫でも聞く内容は同じだからと思って。そして化粧直しは15分くらいで終わってしまった。話もろくに聞けなかった。サインをもらうことすら忘れてしまった状態で、アポをとったマネージャーに、今聞いた話を猫に置き換えていいか、と訊ねた。返ってきた返事は「ダーメ」。お前が猫好きと言ったんだろう がぁ、このやろう。いかに芸能界というところがいい加減だと知った瞬間だった。  事務所に戻り、佐藤さんにこの報告をした。みんなは大笑いしていた。

事務所には、奥の部屋に社長の佐藤さん、牛次郎事務所の後藤和夫、手前の広い部屋に編集プロダクション“ダックスハウス”の社員がいた。後藤の奥さんの妙子、妙子の姉さんの和美ちゃん、そして、デザイナーの東幸見(現在は東幸央)、そしてぼくがいた。東幸見は「美術手帖」で新人賞をとるなどしていた寡黙な人物で、ぼくには「オレもホリちゃんと同じで、営業でここに入ったのになぁ…」と話した。現在カバー・デザイン、ブック・デザインでは著名で個展も開き、また自ら撮影した写真で、「空の本」(パルコ出版)や「北緯44度、その駅の名は北浜」(柏出版)等の本を出している。

事務所では、ふろふき大根やおでんなど、女性陣が料理を作ってくれた。「会社で料理すると、その会社は潰れる」と言われていた時代であったが、ぼくにとってはとても重宝なものであった。というのも、徹夜の連続であったからだ。 仕事が山ほどあった“いい時代”だったが、平日はほとんど事務所に泊っていた。机の下には寝袋があり、別の小さな部屋には二段ベッドが用意されていた。

そして、新天地を求めて、同棲していた女と別れることにした。直接女と話すと(包丁で)刺されることはわかっていたので、女が夜の仕事に出かけるのを待った。後藤と東くんに手伝ってもらい、慌てながら自分のものをトラックに積み、夜逃げを決行した。環状7号線を北上するトラックの積み荷から、家具を包んでいた毛布が1枚2枚と舞い上がり、すっと暗闇に消えていった。

新天地は練馬区の向山だった。あたりは大根畑がまだちらほら見られる所で、東京では珍しいプロパンガスの風呂付き6畳、4畳半のふた間、家賃は36.000円だった。西武池袋線中村橋駅から歩いて20分とやや遠かったが、当時4万円を超えないと風呂がなかった時代なので格安といえた。2階立て6世帯の1階角部屋で、東南向きで日当たりもよかった。ただ、引越してからわかったことなのだが、隣の住人が暴走族の頭だった。

ある日曜日、ぼくは昼間スーパーで買い出しをし、缶ビールを飲みながら本格的ミートソースを作っていた。空きっ腹の状態で、5~6時間煮込んでいたので、酔いはかなり回っていた。隣から、女の叫ぶ声が聞こえた。壁がドスンドスンと響いた。また喧嘩かな、と思った。だが、ものすごい喧嘩だ。また女の罵声が聞こえる。なんか変だ。暴走族の頭である男の声が全くない。ぼくは、ドアを開け、恐る恐る隣の様子を見に行こうとした。隣の玄関のドアは開いていた。

テーブルや椅子、食器棚が倒され、一面に割れたガラスが散在し、至るところにゲロらしきものが吐き出されていた。その中で女がひとり荒れ狂っていた。女はぼくに気付き、大声を出しながら、突進してきた。泣きじゃくっていた真っ赤なその眼は完全に飛んでいた。ぼくは、「隣の者です、隣の堀越です」と言いながら、彼女を捕まえ、落ち着かせようとした。彼女はお構いなしに、ぼくを叩き、腕や顔を長い爪で引っ掻いていた。ぼくは彼女の両腕ごと抱きしめ、ベッド まで運び暴れる体を押さえつけた。

しばらくすると落ち着いてきた。その飛んでいる眼で、じっとぼくを見つめ、ぼくが何者であるか確認しようとしているようだった。そのうち、「熱い、熱い」と言って、体を揺すり始めた。ぼくに危害を加える素振りではなかったので、手を離した。上着を脱ぎ始めた。まだ「熱い、熱い」と口走っている。そしてよろよろしながら、便所に入っていった。ぼくはベッドに腰掛けて彼女が出てくるのを待っていた。中から、また大声が始まり、便所のドアをドンドンと叩き始めた。ぼくはドアを開けようとしたが、中から鍵がかかっていたので、 開けられなかった。「鍵を開けて」と指示したが、狂った行為は続いた。ぼくは ドアのノブを思いっきり、ガシャガシャを左右にねじり、無理矢理こじ開けようとした。

開いた。女は上半身裸で、下半身もジーパンとパンティが足首まで下げられた状態になっていた。ぼくはまた彼女の上半身を抱きしめ、ベッドまで運んだ。この数メートルの移動中、彼女は自らのジーパンとパンティを脱いでしまっていた。全裸で横たわる女。その上から馬乗りになったぼく。やばいぞ、これは。旦那が帰ってきたら、これはレイプに間違われるぞ。そう思いながら、ぼくは彼女を 落ち着かせるように、彼女を上から抱きしめ、軽く揺することにした。もちろん、だれが来てもすぐに対応できるよう開いている玄関のドアを見つめながら。

彼女は眠った。ぼくは毛布をかけ、玄関にすわり、旦那の帰りを待った。1時間くらいたった頃だろうか、車の爆音が聞こえてきた。車から降りて来たのは、旦那ではなく、子分たちであった。中の様子を見せないようドアを閉め、その男に状況を説明した。薬でも飲んで暴れていたこと、部屋の中が目茶苦茶になっていること、そして全裸で寝ていること。男は他の男たちを玄関に残し、旦那を呼びにいった。爆音が闇に響きわたり、そして闇に吸い込まれていった。

ぼくは、自分の部屋に戻ったが、旦那がどんな態度でくるのか、それだけが気になってタバコを吸いながら待っているしかなかった。夜中近くに、旦那がやってきて、迷惑をかけて申し訳なかったと謝りにきた。ぼくはほっとして、冷たくなったミートソースを食べようと温め始めた。

ダックスハウスでの仕事は多忙を極めた。ただ新人だからというわけではなく、ベテラン連中もよく徹夜をしていた。青山通りを隔てた向かいには、深夜営業のスーパー“ユアーズ”があり、夜食には困らなかったが、何と言っても大助かりだったのは、青山学院大学のそ ばに24時間営業の牛丼の吉野屋ができたことだった。夜中の2時3時、毎夜吉野屋に通っていくのが日課となり、ささやかな息抜きの楽しみとなった。

ダックスハウスの名刺や原稿用紙には、ダックスフントのロゴが使われていた。ロゴを作ったのは、「同棲時代」や「修羅雪姫」で当時絶大なる人気を誇っていた漫画家上村一夫であった。ただ、名刺を見せると“ペットショップ” と間違えられたり、その手の問い合わせ電話も多く、対応に困ったものだった。

最初の頃の仕事は、主に単行本の編集だった。南長崎にある直販の出版社永岡書店の仕事で、「パズルの本」を作ることになり、あらかじめ決められていた著者に会いにいった。新小岩の駅から歩くこと20分、住所の場所は鉄工所であった。訪ねると中から出てきたのは、ランニング姿の鉄工所の親父で、差し出された名刺には、“パズル作家”の肩書きが付けられていた。こんな人間が作っているのだと、初めて知った。親父は古ぼけた学生用ノート3、4冊をぼくに渡し、「こん中から、適当に選んでね」と言った。ノートには、1頁1題パズルの問いと答え、そして図がぎっしりと書き加えられていた。

入って間もないある時期、社長の佐藤さんから企画を立てろとの指示があった。企画って何? というくらいの新人であったから、そのまま佐藤さんにたずねた。ダックスハウスでは、牛次郎の原作を中心にコミックスを手掛けていたので、佐藤さんは例えば単行本化されていないおもしろい漫画作品を見つけて、それをコミックスにする、とかというアイデアを話してくれた。早速、ぼくは大手出版社以外の2流3流の漫画雑誌を古本屋で漁った。ぼくの発掘した無名な気鋭たちの作品は、みんなエロ漫画ばかりであった。

ぼくは、高校の頃、女の子の手に触れるため“手相”の勉強を一生懸命したことがあった。結果、いとも簡単に手を握れたが、これが結構当たったのである。 「子供の頃、大きな病気、したでしょ?」「ぷっつん、する性格でしょ?」「豆、嫌いでしょ?」…、過去のことが当たるともうこっちのもの。「結婚は3回するよ」「芸術系に進むといいよ」「迷うタイプだから、はいかいいえかをはっきりしていくと運がひらけるよ」…、ぼくにとってどうでもいい未来の勝手なこ との言いたい放題。みんな、目が輝き、興味深く聞いてくる。こうやって、よく ナンパしていた。

ぼくは女の子たちがいい加減であっても、興味を示す占い、それも「血液型相性占い」の本の企画を出した。当時、能見正比古と鈴木達夫という二人の血液型の権威がいた。ぼくは、血液型研究会とかをでっち上げて、この二人のおいしいところを混ぜて書こうと企んだのである。佐藤さんはやってみろ、と言ってくれた。ぼくは、企画って、意外と簡単だなと思いつつ、参考文献を買ってきて、分析を始めた。何日かこの作業を続けていたが、あることに気付いた。

血液型の判断は、全てデータから成り立っていると二人の権威は謳っていた。つまり、二人それぞれ大量の人間たちのデータに基づいて発表しているということだ。細かいことは抜きに、A型B型O型AB型それぞれの性格については同じよう なものであったが、相性となると、全く正反対の判断をしていることがわかってきた。それがことごとくなのである。おいしいところの混ぜようがないのだ。二人の権威の反目し合っている構造がはっきりと出ていたのである。ぼくはこのことを佐藤さんに告げ、企画を断念した。

そんな忙しさの中で、ぼくには密かな楽しみがあった。それは月に1,2回、牛次郎の自宅がある熱海に、ものを届けたり、原稿を受け取る仕事だった。いわゆるお使いだ。東京駅から新幹線に乗り、熱海下車、タクシーで二宮の自宅まで行く。

牛次郎の家に着くと、20畳くらいの和室の仕事場に通される。奥さんがお茶を出してくれる。奥さんが去ると「堀越くん、ちょっとこっちへ来なさい」と牛次郎が手招きをする。嫌な予感だ。牛次郎は自分の座っていた座椅子と座布団をよけ、その下に敷いてあった2メートル四方の小さなカーペットに座りなさいと言う。寝かされるのかな、と不安を覚えつつ、座った。「へぇー、何ですか、こ れ?」とぼく。「すごいだろう」と自慢気な顔の牛次郎。それはぼくにとって初めての経験であり、こんなものがあるのだと知った瞬間であった。それはポカポ カのホットカーペットだったのである。

こんなお使いが楽しみになっていた。東京駅で缶ビールを買い、ボケーッと流れる風景を眺めながら飲む数十分間。これがぼくの数少ない憩いであった。特に快晴の午後早い時間に行く時は、もうこれ以上の幸せはない、無上の喜びをひたひたひたひたと感じていた。昭和53年、27歳の晩秋の頃であった。

 

番外編 追悼

これを読んでくれているみなさんも、新聞等でご存知かとは思いますが、ここに登場する(これからも登場します)我が友“篠田昇”ムービーカメラマンが亡くなりました。

6月22日午前4時のことでした。

その日の夜中にぼくは目が醒めました。目覚まし時計を見ると2時半を指していました。いつもは再び眠りにつくのですが、この日はなぜか完全に覚醒していたので、起き、氷水を飲み、テレビをつけ、眠たくなるまでボーッとすることにしました。テレビでは、昔のドラマ「赤い衝撃」をやっており、車椅子に乗った山口百恵の元から三浦友和が走り去っていく場面が映っていました。チャンネルを回すと、「プロポーズ」という、とてもくだらない映画が流れていました。

寝ている途中に起きて、眠れないのでテレビを見るなんてことは、ここ何年もないことでした。やがて明るくなり始めた東の空をボケーッと眺めていると、東北東の方向に低 く、星がひとつ輝いていました。そして、かなり明るくなってから、ぼくは再び眠りにつきました。    

昇の死を知ったのは、翌日23日の昼でした。友人からその旨の電話があり、通夜と告別式の日取りを伝えてきました。その時、死因はまだ不明でした。

その後、次々に彼を知る友人から電話がかかってきましたが、状況がよくわかっていないためか、しばらく会っていないせいか、極めて落ち着いて応対していました。そして、夕方近く、本庄という大学の同期の男から電話がかかってきました。

彼はCM制作に携わる仕事柄、昇とも親しくしていて、家も近くにあるため家族ぐるみの付き合いもしていました。彼はゆっくりと話すものの、話の内容と言い方で取り乱していることは感じとれました。彼は、昇の病状の経緯を刻々と語りました。始めの内はわかりにくい経緯に聞きかえしていましたが、次第に昇がその病魔“癌”と闘っていた状況が克明に思い描かれてきたとたん、涙がどっと溢れ出してきました。あとはもう、黙って本庄の話を聞くだけで精一杯でした。

本庄は最後に言いました。 「涙が枯れるまで泣くなんて、初めてだよぉ。初めての経験だよなぁ。堀越よぉー、お前も辛いだろぉー!」。

ぼくは思わず電話を切りました。嗚咽がいつまでもいつまでも続きました。いつ号泣に変わるかもしれないので、慌てて会社を飛び出しました。公園で気持ちを落ち着かせようとするのですが、涙は止まりませんでした。

翌日、石神井公園にある昇の家に初めて行きました。妻のいづみさんが出迎えてくれました。彼女とは、結婚式以来の再会で特に親しくしていたわけではありませんでした。彼女は昇のところに案内してくれました。彼を映した写真や映像では前髪で隠れてわからないと思いますが、もともと昇の顔は侍顔でりりしく、特に眉は太く10時10分だったのですが、その死に顔の眉は8時20分でした。巨漢だった割には、その棺はぼくが収まるくらいの小さな寸法に見えました。後で聞いてわかったのですが、かなり体重が減っていたそうです。

地下にある仕事部屋を見せてもらいました。ひんやりと空調のいきとどいた、コンクリートと鉄骨で組み立てられた間接照明のその部屋には、三脚に立てられた旧式の35mmカメラ、写真の現像装置と引伸し器、ヒッチコックなどの本数冊とビートルズ、ザ・バンドのLPレコード数枚、むき出しの古いレコードプレーヤー、自身で撮影した写真のファイル、そして一番奥には、それらが眺められるように二人掛けの大きなソファーがデーンと置かれていました。昔、大学時代に遊んだ昇の部屋を思い出すくらいに雰囲気がとても似ていました。

いづみさんがこれをどう整理したらいいのか、と大きな衣装ケースを見せてくれました。中は昔撮った様々な写真でいっぱいでした。それを一枚一枚見ていきました。大学時代、お互いに撮りあった写真が出てきました。後藤和夫の結婚式に出席した写真もありました。一緒に撮った映画の撮影中の写真もありました。マジック(インキ)で“kazuya’s box”と書かれた印画紙箱が出てきました。そこには、ぼくが課題で撮った赤羽の街の風景が何枚も入っていました。しょうもない写真なのに、そんなものまで残していました

思えば、昔から昇は撮影を楽しんでいました。工夫をしたりして遊んでいました。手持ち撮影が好きでした。乳母車での移動撮影もよくしました。パン(ニング)も変幻自在と言うか無茶苦茶でした。フィルターを重ねてどんな映像になるか実験もしていました。動く絵だけでなく写真を使った静止画の再撮影もよくしました。レンズに半分ポマードを塗ったり色セロハンを貼ったりして様々なソフ トフォーカスを作りました。また、当時タブーであったガラスに撮影中の自分の姿が映ろうが、全く気にしない図太さも持ち合わせていました。そんな創意工夫の遊び心が彼の持ち味となり、現在の地位を築いていったのだと思います。    

昇は、事あるごとに弟子や生徒(講師をしていた)たちに、自分の原点は、ぼくたちグループ・ポジポジの映画『ハードボイルド・ハネムーン』であると語っていたそうです。夏に撮ったせいか、随所に光(太陽)と影のシーンがありました。きらきらした波を撮った長回しのシーンもありました。低感度フィルムの写真で撮った、コンクリートに映るぼくたちのシルエットがラストシーンでした。

いづみさんの入れてくれた冷たいお茶が、食道を抜け胃に流れる何ともない感覚に、違和感を覚えながら、ぼくはしばらくぶりに会った我が友のことを振り返 りました。

『昇は、昇らしく生きていたんだ。』

帰り際にもう一回、別れを言おうと顔を覗きました。ぼくは、『なんてことはない、変わっちゃいないということじゃないか、昔のまんまじゃないか、おまえは、よ』と、心の中でつぶやいていました。

そしてそれは、ぼくにとって、とてもとても羨ましいことに思えてなりませんでした。

 

中村橋には、篠田昇夫妻(前の奥さん)も住んでいた。たまに晩飯をご馳走になったりしていたが、休日には近所の中学校の体育館解放によく一緒に出かけ、卓球をやった。しばらくするとその隣に区営のアスレチッククラブができ、今度はこちらに夫妻とよく通うようになった。区営のため利用料は200円と安く、サウナが別料金の500円であった。インストラクターに作ってもらった運動メニューをこなし、マッサージ機で筋肉をほぐし、仕上げにサウナに入る行程が通常であったが、 困った問題が発生した。

近所の主婦連中が体操着のまま運動もせずマッサージ機を占領し、井戸端会議を始めてしまうのだ。さらに、夜になると一杯やった後の酔っぱらいおやじたちでサウナが満杯になってしまい、運動をしていた人々が利用できなくなってしまうということも起きた。

中村橋には本当に休日でしか居なかったが、ぼくの数少ない通い店が2軒あった。北口商店街にあった、若者たちが経営していた□型のカウンターのやきとり屋で、ここには白土三平がひとりでよく来ていた。

もう一軒は“大三元”という老夫婦ふたりだけでやっていた中華料理屋で、南口仙川通り沿いにあった。ここは非常に変わったお店で、夜6時頃開店し、いつも満員なのに9時には閉めてしまうのだ。カウンター4人、3人掛けのテーブルひとつ、その間入る客数は14~15人程度だろうか。開店前には数人が並んでいて、すぐに7人の客で店は一杯になってしまうが、最後に注文した7番目の客の料理がでるのが、約1時間半後くらいになるのだ。

まな板は直径50㎝くらいの大きな切り株で、真ん中で半円ずつ5㎝ほどの段差が付いていた。この半分半分をじいさまとばあさまとで分けて使っていた。包丁もじいさま用が大きな中華包丁1本、ばあさま用が小さな野菜包丁1本。火は調理用のガスコンロなのだが、2つしかなかった。これで炒め物から揚げ物、麺類の茹で物、そして焼き餃子を賄うのだった。しかも、注文の順番通りに作っていく。定食の他に焼き餃子が1番の客と3番の客が注文しても1人前のみを焼いていく。つまり、ひとりの客が注文した料理すべて同時に出てくるように、じいさまは考えていた。時間はかかるが心憎い配慮である。

昔、ぼくはラーメン屋に入るとビールと餃子とラーメンを同時に注文した。ビールはすぐ出てくるが、次に出てくるのは決まってラーメンだった。ぼくは ビールを飲みながら、餃子をおかずに食べたいのに、必ず餃子は最後になった。 だれでもがそう願っているはずなのに、客への配慮がないのである。どのラーメ ン屋でも同じだった。それからぼくはビールと餃子を注文し、餃子が出てきてからラーメンを注文するようになった。

しかし、このお店の魅力は何といっても味にあった。中でもレバニラ炒めは絶品であった。しかも、ぼくにとって初めてのレバニラの味でもあった。それは、レバーに片栗粉をまぶし、油であげてからニラと一緒に炒めるものだった。料理にも手をかけ時間をかけていたのである。

中村橋を去ってから数年後に訪れる機会があったが、残念ながらその店はもうなかった。(注・駅よりの向かいのビルに移転したらしい)

中村橋には、憎めない変なお店が多かった。駅前のキッチンに入り、大好物のオムライスを注文した。左端から食べていくのだが、肉(チキン)が全く入っていない。それに代わるハムのようなものも全くない。次第に腹立たしくなってくると、最後の右端にチキン数個が固まりになって発見された。いつ頼んでもこの状態なのだ。多分間違ってはいるが作り方が一定なのだ。そしてだれも文句を言わないのだ。

女3姉妹で握る寿司屋。多分、始めは親父がやっていたのが、病気か何かで彼女たちが手伝いをしたのが、そのまま形になったのだろう。ここは時に、赤ちゃんをおんぶして「へい、いらっしゃい」と寿司を握っていた。

ある時、昇のカメラの師匠である川上晧市さんが昇に絨毯をあげると言ってきた。自分の家には新しい絨毯があるから堀越がもらわないか、と昇夫婦がすすめてくれた。貰えるものは何でも貰う主義のぼくはその話に喜び、3人で千葉県行徳市にある川上さんの家に行った。ぼくたちはびっくりした。どうせ大したことのない絨毯と思っていたからだ。6畳用の新品、しかもメイド・イ ン・イングランドのウール100%であった。柄も素敵だった。お礼を言って、昇の車に詰め込み帰路に立った。この車での攻防が大変だった。絨毯を欲しくなった夫妻は、うちのと交換しよう、でないと運んでやらない、ここで下ろす、ときた。ぼくは絶対に応じなかった。ぼくはこの絨毯を一生物として今でも家の6畳間に敷き、大事に使っている。

相変わらず仕事で徹夜は続いた。仕事ばかりしているものだから、金を使う時間がない。だから貯金ができた。しかも毎月少しずつ給料が上がっていった。入ってから半年後、10万円だったぼくの給料は15万円になっていた。 「プロテイン・ダイエット法」、「子供の恐い病気」などの単行本を作った後、 ぼくは初めてレギュラーの仕事をもつことになった。それは学研の受験生向け月刊誌“高3コース”の情報ページであった。映画、音楽、本、テレビ番組等を各見開きで紹介するもので、デザインはパターン化されていたので、写真に大小をつけたり、紹介する情報量によって、ぼくが多少手直しをした。今は廃れてしまった青1色の活版印刷で、文字の大きさは“ポイント”を使っていた。

映画と本の原稿は後藤に頼み、ぼくは音楽とテレビの原稿を書くことになった。レコード会社とテレビ局の番宣(番組宣伝の略)を1週間ほどで回り、材料を吟味し選択して原稿に取り掛かる。大変だったのは、レコード会社から貰うレコードの見本盤だった。その後、カセットテープに移行していくのだが、当時はまだサンプルもレコード盤であった。1日で数社回ると数十枚にもなり、手提げ袋が4~5個にいっぱいになる。これがえらく重く、腕が抜けるくらいなのだ。社長の佐藤さんからは、タクシーはダメと念押しされていた。

浜松町世界貿易センタービル内にあったキャニオンレコード(当時)の宣伝部に仲の良い女の子がいた。今月の情報を聞きに行き、北海道に松山千春という地元でのみ有名なすごい歌手がいる、というような話を一通り聞き、サンプルレ コードを貰い帰社しようとすると、「ね、ね、ちょっと待っててくれる」と彼女。数分後、紙包みを鷲掴みにしながら、「家まで送ってくれない?」ときた。彼女の家は高円寺にあった。理由はボーナスを現金で支給されたが、帰り道が心配なので送ってくれ、ということだった。厚さ10センチ以上はあったから、一体いくらなんだろう、すげーっ、と感心しつつ、さらに「家の近くで奢るから」と追い打ちをかけてきたが、ぼくはあっさりと断った。こんなおいしい誘惑にも負けないくらい、レコードが重かったという話である。

時代は、オフセット印刷中心に移っていくこの頃、ぼくには解せない出来事がダックスハウスで起こっていた。レイアウトと原稿を入稿し、初校(ゲラ)が出てきて、それに赤入れという文字直しの作業をする。原稿は当時手書きのため、読めない文字や修正する箇所は赤ペンできちんとした文字に書き換える。ゲラも同様な文字直しの作業を繰り返す。ところが、戻ってくるゲラや再校(第2番目のゲラ)は赤入れをした箇所が指定通りに直ってなかったり、余計な文字が入っていたりしていることが非常に多かった。ぼくは自分の字も下手だし、こういう ものだと思っていた。

ところが、向かいで仕事している和美ちゃんの仕事を手伝った時、見事にきちんと指定通りに直っているではないか。これは字のうまい下手だけではない、何かがあるぞ、と。

ぼくはそれを発見した。手紙であった。彼女はレポート用紙1枚に、「こちらは今、夜中の2時です。お互い大変な毎日が続きますね。……どうぞお身体を大切にしてください。和美」というような短文を添えていたのだ。ハハーン、相手(修正作業する人)は男だもんな。ぼくは真似をした。名前は堀越を使ったが、まるで女のように書いた。効果はテキメンであった。見事に赤字は指定通りに修正されていた。たった10分か20分の工夫で、何十時間もの労働時間の短縮ができたわけだ。ぼくはこれをだれにも教えなかった。

そして、このあと入社以来、初めての“地獄”を経験することになる。  

南青山にあったダックスハウスに、角川書店のW編集長と仲介役の映画評判家清水俊雄氏が訪ねてきた。映画情報誌『バラエティ』創刊号の話であった。

表紙と中身のデザイン全てと若干の原稿を引き受けることになったが、これがとんでもない仕事となった。まず、ぼくに振られたのは数ページに渡る映画館のスケジュール表だったが、ぼくにとってオフセット印刷でのレイアウトは全く初めての経験であった。だから、何からやったらいいのかもわからないでいた。他のスタッフもぼくに教える余裕もなく、即仕事に取り掛かっていった。ぼくはみんなの仕事のやり方をただただ横から眺めるだけだった。

最初の1日は本当に見るだけで終わった。ここで 写植フィルム、ピッチ、平体長体などの使い方が理解できた。翌日から表組みを作り始めた。ぼくはこの枠の中に、映画館名や上映タイトル等の文字数を数え、写植フィルムを使い、ひとつひとつはめ込んでいった。原稿には長体をかけた文字の送りの指定も入れた。ツメは1H(歯)、ツメツメは2H、 長体1は10%減というように、それぞれ計算をし指定していった。“文字なりゆき”と指定すれば、写植屋が適当に長体をかけたり、ツメてくれる ことは、大分後で知ることになる。

こうして会社での睡眠が1日1~2時間、これが2週間も続いていった。もちろん休みはなし。やってもやっても終わりがない。もうフラフラ状態である。版元でも編集長が過労で倒れてしまい、雑誌が出る前に編集長が交代する異例の事態となっていた。

ダックスハウスに入社して約1年が経った頃、オーナーの牛次郎と社長の佐藤さんとの間で衝突が起こり、突然の会社解散となった。

社長の佐藤さんは、親分肌のとても面倒見のいい人で、事あるたびに「オレたちは運命共同体なんだ」と力説していて、この時もオレについてくるかどうか決めてくれとぼくたち社員に問うた。ぼくは、気持ち的には佐藤さんの言うことを理解できたが、ついていかないことにした。もっとこの仕事をやりたいという気持ちと自分の可能性に賭けようという思いが強かったからだ。若さ故の判断だった。

佐藤さんはこの後、フリーアナウンサーの古舘伊知郎と組んで“古舘プロジェクト”という会社を起こし、現在も社長として活躍している。

ぼくは社員3人と、早稲田大学稲門そばにあった稲門堂書店の3階の一室を借り、共同事務所を立ち上げた。しかし、夏、冷房をばんばん掛ける男と片や寒すぎてストーブを焚く男とに挟まれたぼくは、どうにも耐えられなくなり、ここをすぐに去った。

ダックスハウスの裏手に、“ノヴァ”という事務所を構えていた映画評判家の清水俊雄に相談し、机を置いてもらうことにした。ここには、映画情報誌 『シティロード』の映画星取り表を書いていた後藤和夫や杉目(すぎのめ)小太郎もいて、映画中心の仕事をしていた事務所であった。

この“ノヴァ”がユニークな事務所として、雑誌『アンアン』に載った。それは当時まだ普及途上であった留守番電話をおもしろく活用していたことで紹介された。若い女の声で「もしもし、私、恵子。今ノヴァに来てるんですけど、おじさんたち、出かけちゃっているみたい。しょうがないから皆さんは留守番電話にメッセージを入れておいてください。それにしてもおじさんたち、早く帰ってこないかなぁ。恵子、さみしい。(ここで背後からノヴァの面々の大笑い声が入る)」とか「(パチンコ屋の音が流れる中)はい、今パチンコで忙しくて電話に出られません。~」。こういった録音を2~3日毎に吹き替えていた。アデランスのTVCMで初代男性モデルをやっていた男からは、「アデランスの南です。いやー傑作、傑作」「アデ ランスの南です。イマイチですな。ファンの気持ちをもっと考えてやってください」とか、知り合いでもないのに、その寸評を吹き込んでくれていた。

ある時、知り合いの編集者が、飲み屋の親父たちと客とで作った草野球のチームがあるのだが、試合をしないか、と持ちかけてきた。ノヴァの面々はこの話に盛り上がり、チーム作りが始まった。

形から入るのが好きな清水くんや後藤たちは、総監督に大林宣彦(映画監督)、現場監督に高田純(脚本家)を即決定させた。ぼくたちの呼び掛けに、大久保賢一(映画評論家)、長崎俊一(映画監督・一度も来なかった)、伴睦人(映画監督)、篠田昇(故人・撮影監督)、創造社の小西くん(ピッチャー要員として後でスカウトした)、腰山一生(故人・放送作家)、軽部兄弟(編集者)、杉目の友人の山田くん(職不明)、後藤の弟正夫(編集者)と信夫(イラストレーター)、菅野くん(編集者)、橋倉正信(フランス映画社・現編集プロ社長)と続々と集まってきた。マネージャーは後藤の奥さんの妙子、チアリーダーには直美(当時は女子大生、後に映画評論家となり、現在は泉麻人の奥さん)と彼女の友人たちが揃った。

対戦日が近くなったある日、打順と守備を決める会議を開いた。大変なことが発覚した。ピッチャーをできる人間がいないのである。思いたったぼくは、すぐに実家に電話を入れた。昔、欽ちゃんの夏恒例の特別番組で「もうひとつの甲子園」というのがあった。定時制高校の軟式野球の全国大会が夏、神宮球場で行なわれていた。これの地区予選から決勝までのドキュメントで、様々な職業をもつ人間(選手)たちに焦点が当てられた、ぼくの大好きな涙と感動の番組であった。これに東京代表と して赤羽商業が出場し、そのキャプテン、ショートを務めたのが、ぼくの弟であった。この時、弟は二十歳を超えていた。

彼をチームのピッチャーに立てた。これでいくらか形になったかな、と思いきや、清水くんと後藤は、「もうひとつ何か、相手を圧倒させるパンチがほしいな」と欲をかき始めた。何を思ったか、ふたりは六本木のディスコに出かけ、リ トルリーグ出身のカナダ人弁護士を助っ人外人として連れてきたのである。完璧であった。

チーム名は“FILMEX”。こうして、待ちに待った第一戦は大宮の健保球場で開かれた。驚いた。ぼくらのメンバーには、ろくにキャッチボールできない奴らがいる。試合前に土手から落ちてケガをしている奴もいる。試合開始直後、眼鏡の邪魔になるのでマスクをつけなかったキャッチャーの山田くんに、ファールチップのボールが直撃し、眼鏡が粉々に砕け飛んでしまった。前進してくる助っ人外人の頭上をはるかに越えていくライトライナー。プライドを傷つけられたとそそく さ帰ってしまう助っ人外人。散々な面子であったが、6対5で初戦に勝利した。

忘れることのできない特別な試合があった。それはかなり成績もよかったため、腰山が最強の草野球チーム法政大学OBを呼んでしまった時のことである。江川と同期の野球部出身で固められたチームだった。もう、キャッチボールや練習からして違っていた。見事なくらいのフォーメーションで練習をこなす姿を見て、ぼくたちのだれもが負けたと思っていた。

この日、ぼくは新宿で朝まで飲んでいて、その足で埼玉の球場までやってきた。途中、開いていたマクドナルドでハンバーガーとミルクを摂ったのが間違いで、後攻であるぼくらが守備位置に着いたとたん、ぼくは急に気持ち悪くなり、プレイボール前にタイムをとり、便所に駆け込んだ。オエッー、ブリブリ、ジョ ジョーと口、肛門、尿道の3つの穴から同時に嘔吐と排泄をした。嘔吐物を見な がら、ハンバーガーはさすがに出していないな、意地きたないぼくらしいや、と我ながら感心していると、心配したメンバーが呼びにきた。ぼくがセカンドの守備についたのは、タイムしてから20分は経っていた。相手のベンチを見ると、み んなイライラとして怒っている様子が露骨に見てとれた。相手の作戦はぼく狙いであった。ぼくはハーハーゼイゼイしながらも、セカンドゴロを2つとセカンドライナーをさばき、ふらふら状態で無事ベンチに向かった。ぼくのこの弱りきった身体での華麗なるプレイが相手を動揺させたのか、その後の打撃がちぐはぐになっていった。5回まで0対0の接戦となった。

6回裏のことだった。後藤和夫とぼくの連続ヒットで、ノーアウト1,2塁。大久保賢一がフォアボールを選び、満塁となった。

事件は突然やってきた。何と1塁ランナーの大久保が全力で2塁に向かってきたのである。ぼくは何が何だかわからぬままに、3塁に向かおうと走りかけた。3塁走者の後藤も3塁本塁間で右往左往している。これらはわずかの時間に同時に起こっている出来事である。全力疾走の大久保には、これっぽっちの躊躇もない。戸惑ったキャッチャーは、大久保の勢いに押され、2塁へ送球してしまった。これが大暴投になり、この回2点を取った。結果は2対1の思わぬ大勝利となった。

昭和54年、日本ヘラルド映画宣伝部から仕事の依頼がきた。今度公開になるジョージ・ハミルトン主演の映画『ドラキュラ都へ行く』の販売促進用の小冊子を作ってくれ、というものだった。予算は30万円。台割を考え、後藤和夫と清水俊雄は原稿を、ぼくはレイアウトをそれぞれ手掛けた。ひとり10万円のギャラである。

朝から仕事を開始し、その日の夜中に作業は完了した。しかし、サブタイトルを付けようと知恵を絞ることになった。これはというサブタイトルがなかなか出てこない。清水くんがアイデアを出した。この映画のテーマは“愛”、それに“吸血”という言葉を雑誌名に当てはめてみよう、と。ぼく たちはバンバン出し始めた。「愛の吸血エクスプレス」「愛の吸血時代」「愛の吸血コース」「愛の吸血自身」「愛の吸血王」「愛の吸血サンデー」「愛の吸血キング」「愛の吸血マガジ ン」「愛の吸血コミック」「愛の吸血丸」「愛の吸血小説」「愛の吸血宝石」 「愛の吸血ロードショー」「愛の吸血ボーイ」「愛の吸血パンチ」「愛の吸血生活」「愛の吸血画報」「愛の吸血クラブ」「愛の吸血族」「愛の吸血公論」「愛の吸血文春」「愛の吸血物語」「愛の吸血セブン」「愛の吸血読売」「愛の吸血ダイジェスト」「愛の吸血現代」「愛の吸血科学」「愛の吸血ランド」「愛の吸血宝島」「愛の吸血旬報」「愛の吸血ロード」「愛の吸血世界」「愛の吸血にっぽん」……。

タイトルが出るたびに、みんなで腹を抱えての大笑いが始まった。徹夜仕事のハイ状態である。こうして朝まで続き、なんてことのない「愛の吸血手帖」に決定した。

この徹夜のハイ状態は麻薬みたいな快感であった。苦しいながら、疲れながら、みんなでハイテンションになり、大笑いを共有する。これが楽しみでやってこられたみたいなところがあった。とにかくフラフラの極限に近い中での至福の時であった。

今でも思い出すのは、水中カメラマンのインタビューの記事だ。原稿を読んでいた編集のT君が、夜中の3時頃、突然大声で笑い出した。「知らねぇよ、誰も知 らねぇよ」と大声で叫びながら、大笑いしている。T君はここを読んでみろ、とぼくに原稿を差し出した。そのカメラマンはまだ無名で、水中撮影の難しさをインタビューしたものだった。その原稿には、カメラマンが「多分、ぼくが日本で初めて水中撮影をしたんじゃないかな」とあった。問題は、その後に続くインタ ビュアーの言葉だった。「へぇー、それは知らなかった」。ぼくも大爆笑モードに入った。

しばらくして、また日本ヘラルド映画から仕事が入った。大作 「愛と哀しみのボレロ」の小冊子の依頼であった。清水くんとぼく、それに年表が入るので、杉目小太郎に手伝ってもらうことにした。最終段階になって、ヘラルドのM部長から表紙のやり直しの電話がかかってき た。ふて腐れて聞いていたぼくは、無意識に返事で「うん」と言ってしまった。M部長は「うん、とは何だぁ、うん、とわぁ~。はい、と言え、はい、とぉ~」 と激怒して電話を切ってしまった。ぼくは、その足でヘラルドに行き、M部長に謝罪した。そして、表紙をやり直した。

デスクワークの多いこの仕事をしていると、いわゆる職業病というものを経験するようになる。ノヴァの面々が、熱川へテニスと温泉旅行に出かけた時、ぼくだけは大仕事が残っていた。遅れて、翌日に彼らに追い付くことになったぼくは、必死で朝まで仕事をした。朝日が上り始めた頃、終了したぼくは、「できたぁ」と声を上げ、 椅子から立ち上がった時、腰に激痛が走り、床に倒れ込んだ。初めて経験するギックリ腰だった。救急車を呼ぶ事態になったが、後にも先にもこの一回のみの経験で済んだ。

この頃から、ぼくは“痔”持ちになった。便をすると出血することが多くなったのだ。便をした後、あてがうものが必要となり、初めのうちはトイレットペーパーを使っていたが、トランクス派だったため、ずれるのが気になってしょうがなかった。そこで、ぼくは女性生理用ナプキンを買うことにした。

人が多い六本木に行き、大きな薬局に入った。店員は4、5人、客は予想に反して少なく3人ほどであった。生理用品は、当時、現在のような、かごに入れて自由に買えるようにはなってはおらず、コンドームと同様、カウンター内の店員の後ろに隠すように置かれていた恥ずかしい商品であった。

ぼくは意を決して、「ナプキンをください」と一番端の店員に声をかけた。店員は「何用ですか?」と聞いてきた。こんな事、聞かれるとは思ってもいなかったぼくの頭の中は、かつての彼女たちや大学、高校、中学、小学校時代の女友達たちとそのお母さん、母、親戚のおばさん、近所のおばさん…何十人という女の顔や姿が次々に巡っていった。その間、わずか0.8秒。ぼくの口から出た言葉は、「若い子用」。店内にいたみんなが同時にどっと笑った。ぼくもそんな訳ないよな、とつられて笑ってしまった。

仕事は映画関連だけでなく、学研の受験雑誌“高一コース”の正月号では、投稿記事でまとめるギャグ特集のようなバカバカしいこともやっていた。これは清水俊雄とふたりで受けていたが、そのままでは使えないのでかなりアレンジをしたり、自分たちでも勝手に作ったりしていた。絶対に上がれないスゴロクなんかも作った。

毎年好評でいつも読者人気投票で第一位の付録(これは定番)に続き、二位を獲得していた。これが、のちの若者向け雑誌「ボム!」の前身となった。

“ノヴァ”のリーダーであった清水俊雄は変わった性癖の持ち主だった。果物好きで、いつもみかんや柿を一袋(10個くらい)、買ってきては一気に全部平らげていた。たまに一個残っている事があり、もういらないんだと思い、だれかが黙って食べてしまうと、「だれだ、おれのみかん、食ったのは、だれだあ」と怒鳴り散らしていた。

こんなこともあった。清水くんは、仕事がら試写会に行くことが多かった。自分の原稿を書き終え、机のライトを消し、窓を閉め、部屋の照明をも消し、玄関のドアに鍵を掛けて出かけていく。部屋でぼくらが仕事をしているにも関わら ず、だ。

当時、市ヶ谷にある大日本印刷の中には、いくつかの企画会社が入っていて、ある日その中のひとつに呼ばれた。ぼくと同じ呼ばれたスタッフの中に、今は有 名になった中野翠さんもいた。

仕事は、明治製菓の子供用小冊子を作るもので、企画作りから始まった。しか し、ぼくが話す内容に、プロデューサーの浅香さんは「いいんでないかい」といつも人を小馬鹿にしたような返事をしていた。ぼくは、何だこいつは、と思っていた。浅香さんは北海道出身であった。清水くんもそうだし、この業界には意外 と北海道の人が多かった。この表現が北海道弁であることを知るのは、しばらく 経ってからのことである。

ぼくは漫画の原作を受けもつことになった。少年と大きなニワトリとの凸凹コンビが、事件を解決するナンセンスなものだった。一緒に組んだ漫画家は、御茶ノ水大学出身の湯田伸子という若い女性だった。彼女は、かの手塚治虫大先生に将来を期待される漫画家として名指しされていた人物であった。今はどうしているのか。

この仕事で、ぼくが大好きで没頭していたのは、小話を作ることだった。小話その一・オリンピック体操競技床運動会場からの実況中継「さあ、続いてはアフリカの秘密兵器、コンゴのウガンダ選手の登場です。 おっと、いきなり出ました超ウルトラCの大技、3回転半ひねり顔面倒~立!」(差別か!この頃、ウルトラCが最高級の技であった)。小話その二・オリンピック陸上競技槍投げ会場での実況中継「どうしたんでしょう、ニューギニアのアポ選手、全く投げようとしません。 なげやりです」(これも差別だな)てなものを、嬉々として考えていた。

その頃、よく通っていたお店が目白にあった。聖母病院の前を通り、目白通りにぶつかったところに酒屋があり、その裏手にあったスナックで、店の名は「ク リケット・ハウス」といった。人のいいマスターのアベちゃんと朝まで飲んだり、パーティもしょっちゅうだった。仲間と行くと貸し切り状態となり、駄じゃれ大会やダンス、芸の披露が始まった。山下洋輔の演奏会を口と身体で、延々1時間もするやつもいた。ぼくの芸 (?)は、ストリップであった。  

この近くに、落語家たちが通う有名なそばや“翁(おきな)”があった。東京で一番旨いそばやと言われていた。流行っていたにも関わらず、食通からお墨付きをもらっていたにも関わらず、ここの店主は自分でそばを作るといって、店をやめ、山梨県に引っ込んでしまい、そこで“そば民宿”を始めた。アベちゃんは、弟子としてこの店主に付いていき、「クリケット・ハウス」はなくなってしまった。

続く

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