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私家版「記憶の残像」①~テレビ熱狂時代

昭和26年の真夏にぼくは東京で生まれた。

昭和31年まで、東京の北に位置する袋町というところ(現在の赤羽北あたり)に住んでいた。日本色素という工場(現在は雪印乳業)の裏手に、焦げ茶の平坦な木造住宅が並らび、その中に我が家はあった。社宅のため、どの家も作りが同じで、小さな縁側が南向きに位置し、庭には必ず花壇や盆栽もどきの鉢がいくつも並んでいた。中には、公共である路地に棚を広げてしまう家もあったが、わずかながらの裕福の表現だったのかもしれない。 

日本色素の工場敷地には地下に下りる立派なコンクリート作りの防空壕があった。利用はされておらず、ぼくらの遊び場のひとつになっていた。こうした防空壕の跡はいたるところにあった。崖が多く、まだ土がむき出しになっていたので、ここに大きな横穴がいくつも残されていたのだ。入り口近辺には、ごみが散在したままで汚く、近所では中に人さらいが住んでいるといわれていた。

夏になると、近所の公園で、納涼映画大会があり、夕飯が済むと、どこも家族総出で見に出かけた。公園には、白い大きな幕が張られ、ゆらゆらと風にそよいでいた。それがスクリーンで、その前には、ゴザがしかれ、皆陣取りを開始する。映画は、たいがい怪談ものだった。夏の夜の屋外は、当然生暖かい風が吹き、スクリーンが揺れる。怖いお化けが歪んで更に怖さを増す。時々、冷気を帯びた風が吹きようものなら、辺りがざわつく。

映画が終わると、街灯のない月明かりだけの坂道をゾロゾロと歩いて帰るのだが、意地の悪い大人たちが、子供たちの後ろから、髪をなでたりするらしく、坂道のあちらこちらで、悲鳴が聞こえていた。

日本色素のはずれに、雪印乳業の工場があった。毎日何人かが工場見学に訪れていた。その人たちは、見学終了後に牛乳やヨーグルトのセットをお土産にもらっていた。この辺りの住人たちも、その土産ほしさに工場見学を何回もしていた。

ぼくはそこに隣接する大きな公園でよく遊んでいたので、工場の人から呼ばれ、余ったヨーグルトをもらった。当時、どこの家庭でも栓抜きと同様に、牛乳の蓋取り機が常備されていた。5センチくらいの平べったいプラスチックの先に、釘状のものが付いたもので、丸いボール紙で栓をした牛乳やヨーグルトの蓋をとるのである。家では、緑色のセロファンを手ではがし、蓋をとっていたのだが、ここの工場の人は、セロファンと蓋を、蓋取り機で一気に取っていた。子供心に玄人のテクニックを見た思いがし、すこぶる感心していた。  

ある時、この公園に、怪しげなバスが出没するようになった。母は、サーカスに売られてしまうから絶対に近づいてはだめだ、と念を押した。

そのバスは、夕方決まった時間に公園にやって来た。運転手と助手の窓以外は、黒い布でふさがれていて、中の様子は全く見えなかった。ランドセルをしょった小学 生たちがこのバスによく乗っていた。バスは、彼らを乗せると出発し、約30分く らいで元の場所に戻ってくるのである。降りてくる彼らはとても楽しそうだった。

ぼくはバスに乗る決心をした。バスに乗るには、お金が必要だった。母からもらった小遣い1円札10枚を払い、バスに乗りこんだ。真っ暗な車内に乗客はぼくひとり。バスが発車した。いきなり、アニメーションの映像と音響が流れた。それは、バックス・バニーやトム&ジェリーのような、アメリカのアニメだった。初めは、窓にかかった黒幕を少したくしあげ、注意深く道の確認をしていたが、そのうち完全にアニメにのめりこんでいった。

アニメが終了すると、公園の前で下ろされた。何事もなく済んだ怪しいバスの正体は、巡回移動上映のバスだったのだ。

ぼくは、この密かな楽しみを引越をするまで、続けた。


4歳の誕生日に、オモチャの幻燈機を父に買ってもらった。ブリキでできた幻燈機は、中央に100ワットの電球を吊るし、フィルムを手で回す手動式で、すぐに熱くなり、軽いやけどをよくした。フィルムは、35ミリ幅で1話 30~40コマ、長さにして、2メートルもなかった。すべてカラーのアニメで、外国作品と日本作品とがあった。いわゆるアニメ映画ではなく、1コマ1コマを じっくりと見るもので、フィルム版の漫画といったようなものだ。当然音が出るはずもなく、セリフは無声映画と同様、1コマの中に書かれていた。

作品のおもしろさもあったろうが、ぼくは、小さな白い画用紙を壁にセット し、これから見るフィルムを巻き、幻燈機に電球を取り付け、部屋の明かりを消 して、暗闇の中、1コマずつフィルムを回し、ながめるといった一連の行為そのものが、とても好きだった。

昭和31年、5歳の時、袋町から同じく北区の稲付町に移り住んだ。

この頃、世間を騒がせていたのは、テレビ放送だった。まだ放送開始直後、当時10万円以上もしたテレビをもっていることは金持ちの証で、だれの家にあるか、探偵ごっこようなことを大人たちも混じってやっていた。おもしろいことに、テレビ受像機を単にテレビと言わず、なぜか東芝テレビとか日立テレビとか、メーカーの名前も合わせて呼んでいた。 隣りの岩間さんちの人々は、みんな揃って、「今度、ITACHIテレビ買うのよ」って、自慢していた。

近所にその金持ちがいた。お父さんが有名製鉄会社のお偉方だった黒柳の京子ちゃんちである。我が家の借家は坂下にあったが、京子ちゃんちは同じ坂の一番上にあった。

小学1年か2年の時、ぼくは友達3人を連れて、坂を登りながら京子ちゃんちに行った。交渉するためである。もうじき、「月光仮面」が始まるのだった。「月光仮面」はテレビ映画の国産第一号で、見たくて見たくて、父に駄々をこねたが、当然、高級品であるテレビは買ってもらえなかった。そこで、意を決して、京子ちゃんとお母さんに「どうしても見せてほしい」と一同頭を下げてお願いをしにいったのだ。

こうして、毎日夜6時になると、京子ちゃんちの八畳間に上がり、友達3人と食い入るように、「月光仮面」を見るようになった (月~土曜夜6時~6時10分に放送されていた) 。

当時のテレビは4本足が付いており、どこの家も一番広い部屋(和室)の角に、中央に向けて置かれていた(ちなみに、狭い家では、床の間に置くこともあり、我が家の場合、床の間に置いた)。そして、家電製品というよりも高級家具として扱われていて、受像機を覆う布製カバーが付いていて、見ない時は、画面前に布を垂らし、それはそれは大切にしていた。そして、夜テレビを見る時は、必ず部屋の電気を消すのである。

この頃のテレビ画像は、まだモノクロだったが、しばらくするとオプション製品として、フィルターなるものが登場する。形や取付けは、現在のパソコン用フィルターに似て、ゴム製の吸盤で、固定した。色はブルー。テレビは目に悪いという風評に対して考えられたものらしいが、モノクロ画像よりかは、ブルー画像は幾分高級感があった。

明かりを消された八畳間で「月光仮面」を見ていると、京子ちゃんとお母さん、時々お父さんも入り、照明のついた明るいダイニングで夕食をとることが多かった。おいしそうな匂いがたちこめてくるが、母に夕飯までご馳走になっては絶対にいけない、と固く言われていたので、お腹が鳴りながらも画面をじっと見つめ続け、誘惑には負けなかった。

が、ある時、これまで嗅いだことのない、とてつもなくおいしい匂いに出くわ した。嗅いだことがないので、それはもう表現のしようもない。焼いている匂いはわかる。西洋料理らしいこともそれとなく感じる。
しかし、子供には複雑すぎるこの匂いは何だ。気になって気になって、とうと う、その日は「月光仮面」どころではなくなってきた。 家に戻ると、母に匂いの説明をしたが、結局食べ物の正体はわからなかった。

それから8年後、レストランで同じ匂いの食べ物に出会った。マカロニグラタンであった。

昭和33、34年。ぼくが小学2、3年の頃になると、大体近所のどの家に もテレビがいきわたっていた。

そして、テレビが子供たちに悪影響を及ぼすのではないかという世相のためか、学校で生徒がどんな番組を見ているのか、調査があった。ぼくは、職員室に連れていかれ、どうしてこんなにいっぱい(テレビ番組を)見ているのか、勉強はいつやっているのか、と先生にしかられた。ついでに母もしかられた。

我が家にも待望のテレビが入るや、ぼくは、夜になるとひっきりなしにチャンネルをひねって、何でも見ていたのだった。どれもこれも楽しいものばかりだった。

人形劇の傑作「チロリン村とくるみの木」、インディアンのトントを従え、白馬にまたがる黒マスクの正義の味方“ハイヨー、シルバー”「ローン・レンジャー」、若山弦蔵の吹替えが印象強い“渋い”西部劇「モーガン警部」、警視庁の新聞記者クラブを舞台にした“いつも将棋を指している”「事件記者」、ベレー帽のズッコケ大作が好きだった推理ドラマ「日真名氏飛び出す」、高橋圭三司会の“みんなマント姿”のクイズ番組「私の秘密」、大平透が吹替えで、夢中になっ た“空を見ろ、鳥だ、飛行機だ、いや”「スーパーマン」、退屈な日常を楽しく しゃべる、なんてことのない舞台コメディー「お笑い三人組」、寸劇の中にヒン トが潜む、犯人当てクイズ「私だけが知っている」(解答者に若き大島渚がいた)、月光仮面の大瀬康一主演の時代劇「隠密剣士」、同じく大瀬と助演牧冬吉の無国籍アクション「ジャガーの眼」、騎兵隊とシェパードの活躍を描いた「名犬リンチンチン」、母子家庭とコリーの愛情物語「名犬ラッシー」、落語家・柳家金語楼が割烹着姿のおばさん女装した「おトラさん」、初めて見たカーチェイス、アメリカのパトカーはかっこいい「ハイウェイ・パトロール」、今では考えられない、現実の事件に基づいた刑事ドラマ「ダイヤル110番」、オープニングのヒッチコックと熊倉一雄の声が抜群のマッチを見せたオムニバスのサスペンス 「ヒッチコック劇場」、見えない観客の大きな笑い声がとても気になった名作ホーム・コメディー「アイ・ラブ・ルーシー」、早撃ち女ガンマン「アニーよ銃をとれ」、ほのぼのしたホーム・ドラマ「パパは何でも知っている」、大村昆主演の上方喜劇「番頭はんと丁稚どん」、同じく鞍馬天狗のパロディ版「とんま天狗」、藤田まことと白木みのるのデカチビ・コンビ“あたり前田のクラッカー” 「てなもんや三度笠」(ひじょ~に、さみしぃ~の財津一郎が超大好きだった)、お昼のドタバタ・サラリーマン・ギャグ「スチャラカ社員」、ハミングだけの粋なテーマ曲で始まる「七人の刑事」、山城新伍の時代劇活劇「風小僧」、 訳のわからぬ主題歌“は~くばどぉ~じがや~ってくる、あ~、もっともだ、もっともだ”の「白馬童子」、東南アジアの暴れん冒険活劇「怪傑ハリマオ」、ぼくも入団したかった“ぼ、ぼ、ぼくらは”「少年探偵団」、スパンキー&アルファルファが主犯格、悪ガキたちの猿知恵ドタバタ・コメディー「ちびっこギャン グ」、ぶつ、ける、どつくのナンセンス・ドタバタ「三ばか大将」、こうもり傘を巧みに操るドジ男の危機脱出コメディー「ハイラム君に乾杯」、ライフルの名手の親子西部劇「ライフルマン」、カウボーイたちのリーダー、フェイバーさんと若きロディー“C・イーストウッド”の苦難の旅を描く人間西部劇「ローハイ ド」、ハゲ頭、口回りのヒゲ、ステテコ姿で首をふりふりしている、変なおじさんの元祖大宮敏充の大衆娯楽劇「デン助劇場」、クレージー・キャッツの5分間生時事コント「おとなの漫画」、何でも解決してしまう凄腕弁護士の法廷ドラマ 「ペリー・メイスン」、ライフルの銃身を短くした銃で賞金稼ぎ、嫌われ者故の哀愁の一匹狼“スティーブ・マックィーン”「拳銃無宿」、ザ・ピーナッツのオープニングとクレイジー・キャッツが絡むエンディング、バラエティー番組の元祖 「シャボン玉ホリデー」、助っ人色男ジェス・ハーパーことロバート・フラーの「ララミー牧場」、“男、女、誕生、死、そして∞”外科医「ベン・ケーシー」……。思い出すまま挙げてもきりがない。

この時代はアメリカ製ドラマが数多く放送され、多彩なジャンルながら、皆よくできていた。そして、その吹替え(当時は、口パクといった)のうまさのため、テレビを初めて見るおじいさん、おばあさんが、「あの外人さん、日本語がうまいねぇ」といった漫才も生まれた。

こんな沢山見ていた番組の中で特別楽しみだったのが、金曜の午後8時、日本テレビ“三菱ダイヤモンド・アワー”だった。

“チャーン、チャーチャ、チャチャチャン”のオープニング・テーマで始まるプロレス中継である。まず、試合前、マット上に掃除機をかけるのだが、掃除するには実にいい加減なのだ。早いもの見たさからか子供心に、そんなこと、テレビ が始まる前にさっさとやっておけよ、と思った。

日本陣営は、我らが力道山を筆頭に、吉村、豊登、遠藤幸吉、芳ノ里(始めはアメリカ帰りの超悪役)たち、レフリーは沖識名。ミスター珍(のちにレフリーに転向)というのもいたなぁ。

外国勢には、ルー・テーズ、シャープ兄弟、ジェス・オルテガ、グレート東郷、ユセフ・トルコ(後に日本側につく)あたりが定番だった。

ある日突然、強烈な悪役が登場し、興奮状態が最頂点に達する出来事が起こった。力道山の相手は、銀髪ブラッシー。特に技をもっているわけでもなく、いたって弱い。ところが、こいつが力道山の額に噛みつき始めた。離れられない力道山。ブラッシーが離れると力道山の額は血で真っ赤。多分、これが日本プロレス史上初の流血戦だ。そして、ヤスリで研いだ歯で、何度も何度も額を噛みつきにいく。「あー、力道山、痛いよぉ、もうだめだぁ」お腹がしくしく痛くなり、子供のくせに、なぜか股間がだるくなる。

この試合を見ていた老人が心臓マヒで亡くなったと、翌日の新聞で報じていた。

もうひとつ、忘れられない試合がある。ザ・デストロイヤーとの死闘だ。ザ・ デストロイヤーは元数学者という説を唱えたのが、当時の愛読書「少年マガジ ン」。来日する外人プロレスラーを紹介するページがあり、この中で、数学を駆使して生まれた必殺技が、四の字(四文字)固めだという。力道山の必殺技は空手チョップ。これを防いだのも、ザ・デストロイヤーが初めてだった。両手を体の前でクロスしたのである。数学のなせる技なのか。「あー、空手チョップがだめだぁ、負けちゃうよぉ」だんだん、お腹が痛くなってきた。

そして、必殺四の字固めが決まった。全く外れない。苦悶の表情の力道山。だが、力道山が必死に体を捻り、うつ伏せ状態で、腕をマットから突っぱねて、ザ・デストロイヤーよりも体が上位になると、ザ・デストロイヤーが逆に痛がるではないか。ザ・デストロイヤー敗れたり、と思いきや、いとも簡単に元に戻されてしまう。それから、延々とこの状態が続くことになる。結果はたしか、引き分けになった。レフリー以下、総出で、互いの足を外そうとするのだが、全く外れないほどに食い込んでいた。

やっと外された時、何とデストロイヤーと力道山のシューズの紐がボロボロに切れていたのだ。ぼくを含め、全国プロレス・ファンの子供たちは、この四の字固めこそ、プロレス最強の技と知った瞬間である。その後、子供たちの間で、四の字固めごっこが蔓延していく。

少年マガジンの来日プロレスラー紹介の記事は、試合のプログラムのように、テレビを見るぼくらにとって参考書だった。
この中で、最強といわれたのが、インドのなんとかシンというレスラーだった。カール・ゴッチに師事を受けた正統派レスラーなのだが、体の全てをヨガで鍛え上げたのだ。何と金玉までも。こいつは、力道山の空手チョップに敗れた。喉はヨガでも鍛錬できないと後日談にあった。あ~あ。
ぼくが最も怖がったレスラーが、全身を包帯でぐるぐる巻きにしたザ・マミーである。ミイラの呪いと腐臭で戦意を喪失させるのだ。これが、お話にならないくらい弱かった。
そういった意味で、記事のとおりだったのが、ボボ・ブラジル。貧しい家庭に育った彼は、小さい頃から殴られ屋として、金を稼いだ。頭突き一本で勝負する、わかりやすい、ぼくの大好きな黒人レスラーだった。
力道山を失神させた巨漢カルホーン、マネージャーのグレート東郷が首にチェーンを巻いて登場したグレート・アントニオ、“胃袋掴み”のキラー・コワルスキーなど、印象深いレスラーたちの登場に、ぼくは心を躍らされた。このプロレス中継は、野球中継同様に、力道山の活躍途中で放送終了になることがしばしばで、生中継と言えども、腑に落ちなかった。後で聞いたのだが、翌日のスポーツ新聞の売上げを上げるためだったらしい。

実は、このプロレス中継、隔週で放送されていた。
もうひとつの“三菱ダイヤモンド・アワー”は、ウォルト・ディズニーのドキュメンタリー仕立ての実写版作品の放送だった。
得意の動物ものはもちろん、ハリケーンのドキュメンタリーなどもあった。日本では、台風32号とかで呼ぶ熱帯性低気圧を、アメリカでは、マリアとかジュリアとか、女性の名で呼んでいた。

こんなに沢山の番組を見ているせいか、ひっきりなしにカチャカチャと回す (テレビの)ダイヤルが、ある日とれてしまった。元に戻そうとすると、鉄の芯棒があった。ここから外れたのだと、なぜか人差し指で、そぉ~っと触れてみる。 ビリリッと電気が流れる。
こうしたダイヤルがとれるのは、テレビの欠陥部分で、どの家も同じだった。
これが一種の度胸試しとして、子供たちの間で流行していくのである。
ビリリッとくる電気遊びに没頭するぼくたちは、以後どんどんと頭がいかれて いく。

続く

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