« 私家版「記憶の残像」④~新宿騒乱 | トップページ | 私家版「記憶の残像」⑥~大学時代と自主制作映画「合言葉」 »

私家版「記憶の残像」⑤~グループポジポジと大島渚

昭和44年の冬、映像制作集団“グループポジポジ”による8㎜映画「天地衰弱説」の撮影は、新宿御苑を拠点に進められた。

カメラは、エルモ社製のスーパー8用を2台を使用、これは、ズーム付きで、コ マ落としやスローモーションの撮影もできた。

開始してすぐ、ヒロインが必要ということになり、ぼくは当時時々付き合っていた八百屋の娘、房江ちゃんを連れてきた。みんなの出演OKをとったものの、いざ撮影に入ると、彼女の演技はとてもぎこちなかった。極端なくらい演技ができなかった。予想に反して、彼女にはやむなく途中降板してもらうことになった。 このことは、作品中のナレーションにも正直にうたった。

「天地衰弱説」のストーリーは、

・少年Aの独白=高校に通う少年Aは、受験勉強に疑問をもつが、かといって、なにをしたらよいかもわからない自分にも疑問をもつようになる。

・少年Bの独白=道を歩きながら、8㎜カメラを手にする少年Bは、「カメラがあったから、映画を撮ろうと思う。バットがあったなら、野球をしてたな。」と語る。

・ひたすら池の回りを走り回っていた少年Aは、通りすがりの少女をナンパし、成功。

・その二人の姿を、追いかけながら、転げ回りながら、木の上から、と神出鬼没に8㎜カメラに収める少年B。

・撮影が終了し、ベンチに腰掛け、仲良くする三人。が、会話がうまくかみ合わない。

・ジャンケンに負けた少年Aは、三人の飲み物を買いに行くが、戻ってくると少年Bと少女はいない。

・広い草原から、哲学者風の男が登場し、詩を朗読。終わると悠然と去っていく。

・墓場にて、深刻な顔をしている少年A。突然、幽霊のように現れる少女にびっ くりし、気絶する。

・少女が、お供えの花を少年Aの胸に置くと、少年Aは目覚めるが、その顔は、殺意に満ちている。

・驚いた少女は逃げ出し、それを追いかける少年A。そのあとに続く撮影隊の面々。

・縄に結びつけたゴミ箱、電話機、タイヤ、流木、空き缶をひたすら引っ張る金太郎姿のサングラス男。大木に登ろうと何回も何回も挑戦するが、うまくいかない。今度は、縄を使ってよじ登る。たばこを一服すると、遠くに向かって「オーイ」と叫ぶ。

・ベンチに座っている少年Bの前を、逆立ちで歩いて行く人々。

・ベンチに座っている少年Aの前を、逆立ちで歩いていこうとする少年B。が、なかなかうまくいかない。目が合う少年AとB。さげすんだ表情で立ち去る少年A。それを必死で逆立ちで追いかけようとする少年B。

・子供用の三輪車を必死にこぐ少年A。思うように進まない。

・竹早高校(新宿)の屋上で、“竹早全闘委”の大旗を翻す高校生闘士。カメラに向かってくる。顔を覆っていたタオルをとると、それは少年B。少年Bは、声を荒 くして、「ぼくは、ヒマなんだよ、退屈なんだよ。(カメラに指さして)君だって、何もすることないから、映画なんか撮ってるんだろ。退屈だから、やってんだよ。(本当に)わかってんのかよ。」と再び旗を翻しながら、去っていく。(バックには、もの哀しいスィングル・スウィンガーズの「アルハンブラの想い出」が流れている)

・バリケード・スト(竹早高校)の風景。

・再び屋上。アジ演説をする学生闘士(金太郎姿のサングラス男)。最後に彼は空に向かって大声で「オーイ」と叫ぶ。

・ひたすら池の回りを走り回る少年A。カメラの頭上を飛び越えていくストップモーション。

・FINの文字。×が書き加えられる。

・撮影風景。編集風景。

・編集用に下げられた膨大な8㎜フィルムの束の中に、映像は溶けこんでいく。

 

ぼくらは、撮影を終えた後、編集と録音の作業にとりかかった。共に作業場は、メンバーの家のどこかだった。これらの作業においても全員が揃うことはまずなかったので、吹き替えを行なった。福田の声が橋本だったり、橋本の声が後藤だったりした。ぼくは、ほぼパーフェクトに参加していたので、自分の声のままだった。

8㎜フィルムの編集は、非常に簡単にできた。小さな編集機にフィルムのパーフォレーション(両脇の穴のこと)を合わせて、繋ぐ部分を、それぞれ互いに1㎜ほど薄く削り、接着剤を付けて重ねるだけだ。しかし、これも熟練の技が必要 とされた。すぐにはがれたり、映写中に接着部分が引っ掛かり、フィルムがストップし、焼けてしまうこともしばしばだった。

『断絶』というアメリカ映画があった。1971年の作品で、ぼくはこれを試写室で見た。当時人気だったミュージシャンのジェームズ・テイラーとビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンが主演のロード・ムービーで、アメリカン・ニュー・ シネマの傑作のひとつと言われていた。現在ビデオ化もDVDにもなっていない、残念な作品だ。

試写室の一番前で見ていたぼくは、どこまでも真っ直ぐなフリーウェイの白線を、走りながら延々と映し出すラスト・シーンの最後、思わず悲鳴をあげてしまった。それは、フィルムが焼けるシーンだった。フィルムが止まり、映写機の熱で画面の中央あたりから周辺に一気に焼け広がる、そういう映像だった。ぼくは、8㎜で、何度も何度も目にしていたので、映写中の事故と思って、大声を上げてしまったのだ。このシーンは、8㎜などフィルムを映写した実体験のある人には、とてもとても心臓にこたえる映像だった。

ちなみに、この映画でとてつもなくビックリしたことがあった。それは、友達のD・ウィルソンが行きずりの女と寝てる間、モーテルの外でしゃがみこんでいるJ・テイラーの孤独な姿だった。未だかつて、こんな光景にはお目にかかったことがないものを見た。なんと、しゃがみこんだJ・テイラーの膝小僧が頭を20センチほどもオーバーしているのである。長身であることは知っていたが、こんなにも身体の構造が違うのか、とあ然とした。

家に帰って、しゃがみこんでみると、ぼくの膝小僧は胸のあたりにあった。

 

ぼくらは、「天地衰弱説」を完成させると、講堂で行なわれる卒業式の後、上映することにした。当日、メンバーやぼくは映研の部室で上映のための準備をしていて、卒業式には出なかった。講堂から卒業証書授与のため、マイクで呼ばれる卒業生の名前が聞こえてくる。メンバーたちの名前が呼ばれていた。ぼくの名前も呼ばれていた。

上映は予想通り、20名ほどの、いわゆる身内だけで終了した。ぼくたちは、卒業と打ち上げを兼ねて、大塚に出向き、高校生最後の宴会をした。

事件が起こった。酔った同級生の木下が、当時付き合っていた1年の女とうまくいってないらし く、突然宴会場から飛び出し、大塚に家があったその女の名前を絶叫しながら、彼女の家を目指して走り出した。数名がそれを追いかけた。木下は女の名を叫びながら、一枚一枚洋服を脱ぎ捨てていく。駅前の繁華街にさしかかると、その中の寿司屋に木下は入った。追いかけていた友人たちがその寿司屋に入った時は、もう遅かった。木下は、座敷に上がりこむや、宴会をしていた人々の大きな寿司桶の中に、ゲロをした。

遅れてきた仲間たちと客や店の人と一悶着が始まった。仲間は事情を説明し、ひたすらみんなで謝った。そこに、「そのケンカ、おれに預からしてくれ」とひとりの男が名乗りでた。 名刺をみんなに配った。そこには、“大塚のジョー”とだけ書かれていた。ヤクザだった。  が、当の木下はそんな状況にもお構いなく、大声をあげて、また逃亡を開始した。数名が木下を追いかけ、残された者が交渉にあたった。

示談金は3万円。当然、みんなに持ち合わせはなく、集めて持ってくる、ということになったが、大塚のジョーは「金と引き換えだ」と仲間の頼子を人質に取ってしまった。みんなは、トルコ風呂に売られると思った。

一方、パンツまで脱ぎ捨てた木下は、彼女の家に到達し、石塀の上によじ登り、仁王立ちで「○○子~、オレはお前を本当に愛してるぞ~」と絶叫した。玄関から彼女の母親が出てきた。ものすごく怒っていた。

 

前年の秋に粉砕された草月フィルム・フェスティバルに出品しようとしていた高校生たちを中心に、昭和45年3月14日、台東区の上野高校講堂で高校生映画祭が開催され、「天地衰弱説」も出品した。権威主義の否定から、順位を決めず、 観客の拍手でその評価を判断するという主旨で進められた。

「天地衰弱説」は、全員に拍手された。会場には、大島渚監督が来ていた。全ての上映が終わり、ぼくたちと原(将人)くんは大島渚監督に呼ばれた。相談があるので、近いうちに事務所(創造社)に来てくれ、ということだった。

数日後、赤坂見附にある創造社に、ぼくたちは訪ねていくことにした。

昭和45年2月、8㎜映画を撮っている最中、ぼくたち“グループ・ポジポジ”の面々は、大学受験をした。それぞれ志望の大学は異なっていたが、共通した大学 が1校あった。ICUと呼ばれた国際基督教大学である。なぜみんながここを狙ったのか、簡潔な理由があった。それは試験が全国初のマーク・シート式だったからである。

受験のためにもらった内申書を無断で開封すると、3年時のほとんどが出席扱いになっていた。まともに授業を受けたのは、2週間くらいだったから、ぼくは留年を覚悟していた。学校側の親心というより、厄介者は追い出せ、ということ なのだと、ぼくは解釈した。

そして、結局、留年になった者はひとりもいなかった。

同じ頃、アルバイトもしていた。友人たちは夜、営業後の“イトー・ヨーカ堂” の清掃に出向いていたが、ぼくだけは午前中に新大久保にある“東京オート”のビル清掃をやっていた。明治通りと大久保通りの交差点そばにあるこのビルは、現在も“ネッツトヨタ東京”として健在である。朝早い時もあったので、ここに近い竹早高校の音楽室や家庭科室に寝泊りし通っていた時もあった。

1階の隅に8畳ほどの警務員用の部屋があり、座敷になっていた。たまに、アルバイトのオバさんがやってくるが、いつもは、清掃主任の森さんとぼくの二人きりであった。

朝と昼には、この部屋で森さんが御飯を炊いた。「堀越くん、お昼のおかず、買いに行こう」と2軒隣りのパチンコ屋に入った。缶詰やビン詰め、ソーセージ、焼のり、ふりかけの景品がおかずとなった。パチンコ代は自腹であった。時給160円の時代であったから、ぼくにとっては相当きつかった。しかも玉が出た時に、大量に仕入れていたので、何日も同じおかずの時が続いた。

ある日、ぼくは森さんに提案をした。さんまの蒲焼きを細かく砕いて、炊き込みごはんにしたらどうか、と。たれも濃く充分に味付けがされているので、何の調理の必要もないのだ、と。森さんはその仕上がりを想像できず、悩んでいたが、そのまま食べるのに、飽きていたので、渋々オッケーをした。

全面こげ茶色のものすごい炊き込みごはんが出来上がった。森さんはア然とした。ぼくもビックリしたが、3合も炊いてしまっているし、提案者として毅然とした態度を取らなくてはと、ごはんをかき混ぜ、お腕に盛り、横にあった焼き海苔の封をきり、ちぎってふりかけ、森さんにハイと渡した。一口、二口食べた森さんは、「なかなかいけるよ、堀越くん」と笑顔になった。「煎り卵なんかもかけるともっといけると思いますよ」と少々得意気になっていたぼくは、その後、このさんまの蒲焼き炊き込みごはんが毎日続くとは知る由もなかった。  

このビルの横には、整備工場があり、その2階には、整備員用の風呂場があった。セメントで固められた岩風呂に見せた作りで、2、30人は入れる大きな風呂だった。月に一度か二度、お湯を全部抜いて、風呂場全体の掃除があった。デッキブラシで、岩肌をこすり、きれいにした後、お湯をたっぷりと入れた。朝一番からの作業だったので、ちょうど朝日が窓から斜めに差し込み、湯気を照らしていた。

ぼくは、心の赴くまま、服を脱ぎ捨て、湯船につかった。幸せな気分であった。そしてそのまま、ぼくは眠ってしまった。

森さんに起こされたぼくは、その日、クビになった。

4月のある日、グループ・ポジポジは、大島渚監督に会いに、赤坂見附にある創造社を訪ねた。原(正孝)くんも呼ばれていた。オフィスには、大島組の錚々たる面々が揃っていた。俳優の佐藤慶、戸浦六宏、渡辺文雄、脚本家の田村孟、佐々木守。大島渚監督が話を切り出した。『映画で遺書を残して死んだ男の物語』を作りたいのだが、どう思うか、意見を聞かせてくれ、というのである。

数時間の意見交換をして、その日はポジポジと原くんとがそれぞれにストー リーのようなものを考えてくるということで落ち着いた。ぼくたちは帰路についた。福岡が「何で、大島にそんなすごい発想があるんだ。くやしいよな、そうだろ。」とみんなに問うた。みんなはそのとおりだ、とただただ黙って歩いていた。

ぼくたちは、ぼくたちなりの簡単なストーリーを考え、二回目の訪問をした。

結局、映画のシナリオは、原くんのシノプシスに、佐々木守さんが手を加えることで、進めることになった。

ぼくたちは、悔しさもあって、折角考えたシナリオをもっと詰めることにした。詰めるに従って、このテーマは自分たちそのもののような気がしてきた。やがて、自分たちでも撮ろう、という気運に変わっていった。

再び、大島渚監督から連絡が入った。今度は、出演の依頼だった。

本(シナリオ)を読みに、創造社へ行った。原正孝・佐々木守の共同脚本は、ぼくたちを意識した大学映研という設定になっていた。男6人と女2人の大学映研のメンバー、この中に主人公の男女がいた。

題名は『東京戦争戦後秘話』。

ぼくたち素人6人に、同じく初体験の岩崎恵美子と大島ともよの2名が加わり、 主役は後藤と岩崎がなった。主役の二人は30万円、その他はひとり5万円のギャ ラだった。当時の大学卒初任給が5万円位だったから、正味4、5日で撮影が終了してしまう、その他のぼくたちにとっては破格といえた。

これで、とりあえず、グループ・ポジポジの次の映画資金が確保できた。

『東京戦争~』クランク・インの前日、ポジポジの面々は、顔合わせをした助監督たちに新宿の飲み屋“ユニコーン”(今はなき新宿伝説の飲み屋。『新宿泥棒日記』で、佐藤慶らがエロ談義をする場所がここだったような気がする)に連れていってもらった。この上なく旨いこの店の名物ハンバーグを何十個もたいらげ、ホワイトを何本も開け、そのまま、朝その足で創造社に出向いた。助監督たちは、大島監督やプロデューサーの山口卓治に怒鳴りつけられていた。 ぼくたちと何万円もの飲み代を使ったからである。

撮影は、虎の門から始まった。撮影は前年『心中天網島』(近松門左衛門の浄瑠璃を映画化した昭和44年の 篠田正浩監督作品)を撮った成島東一郎(これまで「秋津温泉」などの吉田喜重監督作品、「紀ノ川」などの中村登監督作品を多く手掛けていた。以後、大島渚監督「儀式」「戦場のメリークリスマス」 の撮影を担当。自らも「青幻記」を監督。 「心中天網島」での白黒映像が高い評価を受けていたが、成島さん自身はカラー映像での撮影を主張していた。同じく白黒映像を望んでいた大島渚監督の考えを覆してカラーで撮った「儀式」の試写会後、篠田正浩が「やっぱりカラーにすべきだった」と後悔の弁を述べたが、成島さんは心の中で「ザマーみろ」と思っていたに違いない)で、この映画から日本映画史上初の“撮影監督”というポジションが誕生した。大柄で色白、長髪の大島渚監督とは対象的な、小柄で頭は角刈り、真っ黒で精悍な面構えのおじさんだった。

彼の大島監督との奇妙な駆け引きがとても面白かった。

普通、映画の撮影は、絵コンテなりがあり、それに基づいてカット割をしていく。つまり、監督が頭に描いた映像を撮るために、監督が撮影のポジションやサイズの感じをカメラマンに指示していくものなのだ。

大島渚監督も首からぶらさげたスコープ(画面サイズをある程度変えて覗ける小さな単眼レンズ)を使ったり、両手の親指と人差し指で四角いフレームを作って、成島カメラマンに、ここからこう撮ってという指示を出していた。

だが、成島さんは、監督の指図には全く耳をかさず、自分なりに考えた場所での撮影を助手たちに指示していた。つまり、大島監督の言うことを聞かないのである。これが“撮影監督”ということなのか、と漠然と思った。バツの悪そうな大島監督の姿。やり場のない怒りがいつか爆発するな、と現場のだれもがそう思っていた。

主演の後藤以外ポジポジの出演は、わずかだった。しかし、この本格的な映画撮影の現場はぼくにとって初めての経験で、ものすごく魅力のあるものだった。毎日が発見だらけで、楽しく、勉強になり、興奮もできた。ぼくは出番がなくて も、撮影隊や助監督の手伝いをすることにした。

成島東一郎の事務所“キャビネット・オブ・エヌ”は創造社のすぐ近くにあり、 若手のカメラマンが自由に出入りしていた。みんなは、成島さんのことを“トイチロー”と遊んで呼んでいた。

撮影に入って間もなく、ここで撮影準備の手伝いをしていたら、関西弁のカメ ラマンがぼくに声をかけてきた。みんなから“せんちゃん”と呼ばれていたこの男は、日本テレビのドキュメンタリー番組の“大島渚”を撮っていた。こっちを手伝わないかと声をかけてきたのだ。

そのカメラマンの名は、仙元誠三(「少年」(昭和44年大島渚監督)で共同撮影、同監督の「新宿泥棒日記」にてカメラマンとしてデビュー。この後、角川映画を中心に大ブレイク、日本を代表する名カメラマンのひとりとなる)といった。

カメラマン仙元誠三は、日本テレビのドキュメンタリー番組の“大島渚”を撮っていた。夜10時半からの30分番組で、“吉田喜重”と併せて放送された。現場にはディレクターらしき人はおらず、ひとりで『東京戦争戦後秘話』を監督する大島渚の姿を追っていた。カメラは、ドイツ製アリフレックスという当時のオーソ ドックスな16mmカメラだった。ぼくにとっては後で登場するボレックスとともに、初めて接する16mmカメラだったが、仙元さんについて、フイルムの装填や入れ替え、扱い方、現像の指示出しなど、一連の作業の仕方を学んだ。  しかし、最大の収穫は、パン(ニング)のタイミングや構える足の位置、ズー ミング、手持ち撮影の工夫など、プロのカメラマンのテクニックを身近で盗めたことだった。

『東京戦争戦後秘話』の撮影の昼休み、お弁当を食べながら、仙元さんが、 『栄光への5.000キロ』(*昭和44年、石原プロ製作作品。監督蔵原惟繕、主演石原裕次郎。サファリ・ラリー に挑む日本人レーサーを描いた大作)という映画の話をしてくれた。ぼくは、高校3年の時、通っていた耳鼻科の19歳の看護婦さんとデートで見ていた。つまらない映画であった。

仙元さんは、物語を撮るメイン・カメラ以外のカメラ・クルーのひとりとして参加し、苛酷なレースの模様を撮っていたのだ。 ぼくは、感想を正直に告げた。ただ、山の上から砂漠を俯瞰し、走る車は見えないが、砂塵がもくもくと舞い上がっていくシーンだけは、とても印象に残っていると話した。仙元さんはニヤッと笑った。「それ、おれが撮ったのよ。絶対に 使ってもらえると思っていた画(映像)だったんだ」

その後、仙元さんとは、ぼくが大学に入った翌年、再び出会うことになる。

『東京戦争戦後秘話』の撮影でも、大学映研のメンバーの役だったので、実際に16mmカメラを回す機会に恵まれた。

この頃、日本製の16mmカメラはまだなかった。ボレックスというスイス製の一番手軽で安価なカメラを使用した。本番でも待ちの状況でも、みんなで回して感触を覚えていった。このボレックスは弁当箱を縦にしたような形で、前部に付く 3個の単眼レンズを使い分けるものだったが、なんと動力はぜんまい式だった。つまり、本体横に付いているぜんまいを目一杯ぐるぐると回しておいて、スター ト・ボタンを押すとフィルムが回り始め、約30秒ほどで終了した。よく壊れるの で、“ボロックス”とも呼ばれていた。

ロケセットでのぼくたちの出番の時、大島監督が「泰子、ちょっと軍手してみようか」と映写機を回そうとしている主演の岩崎に指示した。みんな何で軍手をする必要があるのか、理解に苦しんでいた。ぼくは冗談まじりで「これがヌーベ ル・バーグなんだよ」と言った。みんなは大笑いした。その時、大島監督はぼくをキッと睨んでいた。

しばらくして、ぼくのアップの撮影があった。セリフは「元木、まあ、すわれよ」(*元木は主人公の名前)と言うわずか3秒程度の撮影なのに、何回やってもNGだった。何でなんですか、と大島監督や成島カメラマンに聞いても答えてく れない。パニックになった。あんな事、言わなきゃよかった、と後悔をした。よ うやくOKが出た。NGの理由は、ぼくがセリフを言う間、必ず1回瞬きをするからだった。

ぼくたちグループ・ポジポジは、『東京戦争戦後秘話』の撮影中、自分たちの撮る映画のシナリオを完成させた。そして、即撮影を開始した。

タイトルは『天地衰弱説第二章』。

ギャラの蓄えもあったので、覚えたての16mmフィルムで撮ることになった。新宿御苑旧新宿門の前にあった“新宿ムービー”(新宿御苑旧新宿門正面右、現在の堀内カラー新宿営業所のあたりにあった、小さな8mm・16mm専門のカメラ店。親父はいつもベレー帽をかぶっていた)で中古のボレックスをレンタルした。フィルムも購入したが、まだまだ足りないので、『東京戦争戦後秘話』で使った 16mmフィルムの残りをもらいに、成島さんの事務所“キャビネット・オブ・エヌ” に行った。

成島さんは、カメラ好きのぼくを可愛がってくれていたので、「16mmの余尺 (撮り残しの文字通り余ったフィルム。16mmは8mmのようにマガジン・タイプではないので、全部撮り切らず、今カメラに入っているフィルムでは、次のカットが撮れない(足りない)場合、新しいフィルムと交換し、別のカットの時使用する という、無駄のない使い方をした)をください。」と言うと快く、余尺や期限切れのフィルムを出してくれた。

そして、冗談半分に、うちにこないかと誘ってくれた。但し、条件があった。当時ぼくは、髪の毛を長く伸ばしていたが、スポーツ刈りにしなければだめだと言った。よく見ると成島さんの弟子たちは皆スポーツ刈りだった。これには、大きな 理由があった。フィルムにとって、髪の毛とフケは大敵なのだ。

結局、成島さんの世話になることはなかったが、その後も成島さんの事務所によく出入りしていた。ここの事務所には、101匹ワンちゃんのダルメシアンの子犬が一匹いた。

最初、テーブル上で見かけたぼくは、全く動かないこの子犬を置物だと思った。しかも、きちっと毛が生えていたので「よくできた置物ですね」と事務所の女の子に言った。そして、持とうと触れたとたん、無表情のまま、ぼくをチラッと見た。「ワァオー」ぼくはびっくりした。この子犬は、脳の手術をしたので、普通に動けなくなったのだそうだ。

成島さんに、「この犬、ください」と言ったが、 これはあっさり断られた。

“映画で遺書を残して死んだ男の物語”を主題にした『天地衰弱説第二章』は、思いつくままに撮っていった前作『天地衰弱説』とはかなり違い、シナリオが時間をかけて練られていたので、そのとおりに撮影は進められた。

「遺書」と書かれたフィルム缶を残して、映画制作仲間のひとりが首を吊り、死んだ。本当に死ぬつもりで撮ったのか、「遺書」という作品を撮っている最中の事故死なのか、何故(自分が)見れもしないものを撮ったのか、死を見せることの行為が真実への追及だったのか……、残された者たちの想像(推理)と“違う、違うんだよ”と唯一死んだ男の気持ちを知っている(かのような)少年との行動で、物語は進んでいった。

撮影はいつものように全員で回してはいたが、今回ぼくが多くを回すことになった。

ぼくは撮影に慎重だった。8mmとは違い、かなり難しかったからだ。フィルムも高いので、無駄にできず、なおさらだった。外の撮影は、太陽光線があるので、何とか誤魔化しはきくのだが、今回室内の撮影も多くあり、ライティング(照明)という新しい技術を要していた。勉強したわけではないので、見よう見真似でセッティングするしかなかった。しかも、ボレックスは、ファインダーが 直接レンズを通して見れる(一眼レフ)ようになっていなかったので、実際、出来上がった映像は、微妙に左右にズレるのだった。これは、一律したものではな く、カメラ一台一台で違っていたから、とてもやっかいだった。克服するには経験が必要だった。

後藤、橋本とともに“グループ・ポジポジ”の中心的存在だった福岡から、「さっさと撮れよ」「遅いよ、何してんだよ」「早くしろよ」としょっちゅう文句を言われた。挙げ句の果ては、「お前は撮影より被写体に向いているんだよ」とまで言われてしまった。

その日の撮影が終わると、六本木旧テレビ朝日の敷地内にあった横浜シネマ現像所に持っていった。翌日、現像されたフィルムを受け取り、ラッシュを見るが、満足いく出来ではないため、取り直しも多かった。

16mm映写機は区役所から借りてきたものだった。借りるには、映写免許が必要だったので、撮影の合間をぬって、磯貝が区役所での講習会に何日か出席し、免許をとり、ようやく借りることができた。

編集やダビングは、浦岡編集室に就職した大島ともよにも手伝ってもらい、浜町にあった東京テレビセンターで行なった。

こうして、『天地衰弱説第二章』は昭和45年夏に完成し、新宿・四谷公会堂で自主上映をした。

ぼくたちは、大島渚監督作品に出演をしたことで、テレビに出ることになった。番組は、森光子司会のフジテレビのワイドショー『3時のあなた』。ぼくたちは『3時のどなた』と茶化していた、この番組の討論会に出た。テーマは「18 歳は大人か?子供か?」。

ぼくたちは、“どっちでもいいじゃん”という結論だったが、進行役に加わっていた立川談志が「ガキはどこまでもガキだ」と一方的にしゃべりまくった。森光子にも止められる状況だった。彼は酔っ払っていたのだ。緊張していたぼくは、談志の大人気ない姿を見た安心感からか、こういう大人にはなりたくないな、とちょっとだけ思った。

昭和45年はまさに揺れ動く時代の真っ只中にあった。

揺れ動く時代、それはどこに向いているのか、全くの闇であった。ただ、既成の概念やしきたり、様々な決まり事、そして自分の回りに関わり合うもの、それら全てに対して、苛立ちを覚え、訳も分からず反発していた自分がいた。これといった確信を持てないまま、不安を抱きかかえながら…。それがぼくの18の時だった。

日本中がやんやのバカ騒ぎをした大阪万博が開催された。ぼくは全くの無関心であった。そして衝撃的な事件、よど号ハイジャックが起こり、善し悪しもわからず何かしなければ、といった意味のわからぬ焦りを感じていた。

映画『イージー・ライダー』で、自由とドラッグに憧れ、そしてそれらと背中合わせの死を知った。とてつもなく生きていくことがやるせなくなった。

自分の生き様を叫んだ吉田拓郎やRCサクセションを好んで聞いていた。新しいギターを買い、彼らの歌を一生懸命に覚えた。

どうしようもない明日を描いた漫画「銭ゲバ」(ジョージ秋山)や「光る風」(山上たつひこ)に夢中になっていた。

そしてその秋、目白にあった後藤の家で麻雀をしていた時、三島由紀夫の市ヶ谷自衛隊バルコニー占拠、そして割腹自殺をテレビで知った。ぼくたちはテレビを見ながら、事の成り行きを理解できず、心はうろたえていた。

 

ぼくたちグループ・ポジポジの面々は、賭け事が大好きだった。空いた時間があれば、必ず何か賭け事をしていた。麻雀にビリヤード、とりわけおいちょかぶやコイコイは人目がなければ、公園でも道端でもどこでもやっていた。ぼくたちにとって賭け事は、まるで憂さ晴らしのようだった。

もうひとつ熱中した、多分ぼくたちだけしかやってない遊びがあった。喫茶店に入れば必ずやったその遊びは、喫茶店のマッチ箱を各人が1個もち、1対1で行なうものだった。ルールは簡単、マッチ箱を指を使って弾き、自分のマッチ箱 を相手のマッチ箱の上に完全に乗せれば勝ちというものだった。1回ごとに交代 してプレイするのだが、結構テクニックが必要だった。マッチ箱の端を中指や人差し指で弾いて、回転させ、相手のマッチ箱に乗せるのだが、この時、他の指や指の腹、手の形、甲を利用していくのだ。

やがて、マイ・マッチが登場した。純喫茶プリンスの大きなマッチ箱を常に携帯していた福岡は、連戦連勝した。みんなは、同じプリンスのマッチ箱では能がないと思い、実戦向きの安定感のよいマッチ箱を探し始めた。

屋外では、10円玉のコインゲームをよくやった。これは、垂直に立った塀に向かってコインを投げ、塀に当てて(直接塀に当たらなければ負け)、より塀の近 くに落ちたものが勝ちとなるゲームだった。これは、映画『シンシナティ・ キッド』(65年・アメリカ。監督ノーマン・ジュイソン。自由奔放な若きギャンブラー、シンシナティ・キッド(スティーブ・マックィーン)がニューオリンズを舞台に、長年その世界のポーカーのチャンピオンに君臨しているザ・マン(エドワー ド・G・ロビンソン)に挑戦する、『ハスラー』と並ぶ男の勝負映画の大傑作)で覚えた遊びだった。

『シンシナティ・キッド』で、ぼくは大事なことを学んだ。それはテーブル・マナーであった。当時は、西洋料理のマナーをテレビや雑誌で盛んにレク チャーしていた時代で、特に結婚式の披露宴のテーブル・マナーだったが、魚料理用、肉料理用のフォークとナイフの違い、使う順番、食べ方、終わりの合図、ナプキンの使い方…。ぼくは右手にナイフ、左手にフォークを持ち、左手のフォークで食べ物を口に入れる、これがどうしても馴染めなかった。特にライスをフォークの背に乗せる曲芸のような食べ方は、ばかなことをやらせんなよ、と怒りにも似た気持ちでいた。できないことはなかったが、仕込まれた猿のような自分が嫌になるので、絶対にやらなかった。

ところが、この映画の主人公スティーブ・マックィーンに光明を見出した。師匠の家での安いステーキだったと思うが、左端から一口大に肉を切ると、ナイフを置き、右手にフォークを持ち替えて食べた。そして、また食べる分だけ切って、右手にフォークを持ち替えた。何の違和感もなく、ごくごく普通の仕草だった。ぼくは“これだ!”と思った。しかも人としゃべりながらのそのさりげなさが、ぼくにとってはとてもかっこよく思えた。今では、フォークとナイフなんて、当たり前の時代になっているが、その草創混迷期である当時、猿真似ではな いこの発見は、ぼくに多大なる影響を与えたと言ってもよかった。それは、ぼくにとって、“生き方”だったからだ。

 

『東京戦争戦後秘話』がATGで上映され、ぼくたちの『天地衰弱説第二章』も四谷公会堂などでの自主上映が終えた頃、佐々木守さんから電話が入った。何事かと思いきや、事務所の引っ越しを手伝ってくれ、という用件だった。

ぼくたちは暇を持て余していたので、笹塚駅前のマンションに手伝いに出掛けた。作業が終了すると、佐々木守さんは「いくらほしいんだ」と聞いた。みんなはためらっていた。ぼくは、心の中で、5千円くらいかな。でも佐々木守さんは金持ちだからな、なんて思っていたところに、「堀越くん、いくらよ」と不意打ちをくわされた。ぼくは瞬間「1万円!」と返答してしまった。佐々木守さんは、驚いた顔も嫌な顔もせず、ごく普通に財布を取り出し、みんなにそれぞれ1万円ずつ渡してくれた。

帰り際、一緒に手伝った原(将人)くんが、「堀越くん、よ く言った!」とうれしそうな顔で、ぼくの肩をぽんぽんぽんとたたいた。

この頃、佐々木守さんは、大島渚監督等の映画脚本だけでなく、『ウルトラマン』や『柔道一直線』などの人気TVドラマの脚本を書いていた。

そして、漫画の原作者としても活躍していた。大好きだった少年サンデーの『男どアホウ甲子園』(水島新司)の原作も佐々木守さんだった。

この連載が始まって間もない頃、佐々木守さんと野球の話をした。ぼくたちは驚いた。「フォアボールって、何?」「ヒット・アンド・ランって、何?」。野球を知らないのである。知っているのは、三振とホームランだけ。だから、あんな豪快な漫画になるのかと、と思い、同時にこんな世界がありか、と感心した。

ある日、再び笹塚の佐々木守さんの事務所に呼ばれた。漫画の原作の相談だった。当時、佐々木さんは、少年サンデーに高校生を主人公にした『高校生さすらい派』という漫画の原作を書いていて、その“高校生シリーズ”第二弾を、連載する予定であった。それで、高校生活のおもしろい話を聞かせてくれというものだった。ぼくたちは、自分たちの経験した学校の体質や出来事、学校の予備校化、教師のこと、男女関係、クラブ活動、近くの喫茶店、学生運動家の友人、“ 生徒権宣言”というものを掲げたこと、バリケード・ストなどの話をした。

佐々木守さんは、既に構想があったらしく、それにぼくたちの話を付け加えたりして、アッと言う間に、ストーリーを作り上げた。「主人公の女生徒の名前は何にしようか?」と佐々木さん。「竹早(高校)に、なんとか若葉って、女いたよね」と福岡。「よし、若葉にしよう」とさっさと決めてしまう佐々木さん。

こうして、できあがったのが、『ぼくたちの伝説』という前編・後編と2週に分かれた漫画だった(作品を見た時、想像以上に、学校等の建物や屋上の描写や教師のある人物像が現実に近いものだったので、とてもびっくりした。ストーリーは、奔放な女生徒・若葉の行動が、東大を目指す優秀な生徒からクラブ活動に熱中する生徒、学生運動に走る生徒、頭のちょっと弱い理事長の息子等と絡み合い、名門受験校である学校側との軋轢がエスカレートしていくもの。これらを通し、若葉は何かが違うと思い悩みながら自らの命を絶つ)。

漫画家はみやはら啓一という人だった。彼は、“ぼくたち” ではなく、“おれたち”にしたいと佐々木さんを通して言ってきた。ぼくたちは、 “おれたち”なんかではなく、絶対に “ぼくたち”だと主張した。佐々木さんも同調してくれた。

これは、ニュアンスの問題だった。“おれ”や“わたし”や“我”や“ 自分”でもなく、“ぼく”。ここで書いているエッセイにも自分自身の表現として“ ぼく”という主語を使っているが、他の表現よりも“ナイーブ”さを持ち合わせているためだ。

この後も、少年キング連載の佐々木守原作“高校生心中”シリーズのストーリーにも、各自プランを出してくれということになったが、橋本の鳥取砂丘で焼身自殺する話が採用された。

今思えば、すごい話だ。高校生がバンバン死んでいく漫画なのだから。(ちなみに『ぼくたちの伝説』のラストも主人公若葉が学校の焼却炉の中で自らの命を絶った)

そして、佐々木守さんは、この年の秋、“脱ドラマ”と称されたTVドラマの大傑作『お荷物小荷物』(*TBS制作。男尊女卑の塊のような男だけの家庭に、中山千夏扮するお手伝いさ んが入り込み、男どもを腑抜けにしていき、女権を勝ち取るストーリー。ドラマなのに、話を途中で分断したり、カメラに向かって話かけたり…、政治批判もなんでも盛り込んでしまう、当時では考えられない型破りな佐々木守の脚本が話題になった)を登場させた。

この頃、ぼくたちグループ・ポジポジの間でちょっとしたアイドルがいた。今で言えばカルト俳優とでも呼ぶのだろうか、バッド・コートというアメリカの男優だった。

感情を殺したかのような無表情、絶対に笑わない泣かない怒らないこの若者は、目のクリクリとした童顔に似合わず、胸毛がしっかりと生えていた。彼を初めて見たのは、『バード・シット』(70年アメリカ製作。監督ロバート・アルトマン。連続殺人事件が起こる。被害者には鳥の糞が落とされている。だれが、何のために…。一方、屋内野球場アス トロドームの地下では、鳥のように飛ぶための特訓に励む少年がいた。警察が追い詰めると、羽根を付けた少年は自由に向かって羽ばたき、飛び上がり、逃げようとするが、球場はまるで鳥籠のよう…)というロバート・アルトマン監督の、ブラック・ユーモアに満ち満ちた、ひたすら鳥になろうとする少年の不思議なコメディだった。

たて続けに、19歳の少年と80過ぎの老女の恋愛を描いた『少年は虹を渡る』(71年、アメリカ)を見た。これは、よくあるプラトニックものではなく、性交渉を行なった後の(ような)ベッドでの寝物語がしっかりと描かれていた。監督はハル・アシュビー。これもブラック満載の映画だった。

自殺願望(?)の強い少年ハロルドは、首吊り、焼身、腹切り…あらゆる自殺を試みて、お見合い相手をビックリさせているが(家族はもう慣れている)、何故か死なない、死ねない。一方、老女モードは元気いっぱいに、常識を無視した自由な生き方を満喫している。世間からは非道徳な女と見られながら。二人はひかれあい、愛し合う日々が続く。

そして、ある日、モードは死期が迫っていることをハロルドに伝える。ハロルドは一緒に死ぬと言うが、モードは生きることの大事さを教える。そして、静かに息をひきとる。傷心のハロルドは、死んだモードを追って、アクセルをいっぱいに踏みこんで、断崖絶壁から車ごと飛び込んだ…。

かつて、『キャリー』のオチをしゃべって、首を絞められたことがあるぼくだが、ビデオにもDVDにもなっていないし、時効と判断し、オチを言ってしまおう。

だれもが死んだと思ったハロルドは、断崖の上にたたずみ、落ちた車を見つめていた。しっかりと生きていたのだ。そして、キャット・スティーブンスの軽快な歌をバックに、スキップをしながら(だったような気がする)、家路へと向かうのだった。

傑作だった。人を食った話なのに、泣けて、そしてすがすがしい気分になった。

その後、彼が主演の映画はない。彼を見かけたのは、ビデオで『フェアリー・ テール・シアター』でのちょい役と未公開映画でのレインコートを羽織った観光客相手のチン見せ痴漢役だった。

『少年は虹を渡る』は、“ぼくの映画ベストテン”に入る作品だが、同時期に“ ベスト3”に入る素晴らしい大傑作を見た。『早春』(70年、イギリス・西ドイツ。監督イエジー・スコリモ フスキー)という映画だった。

公衆浴場で働く少年(15歳)は、そこの接待係の年上の女(23歳)に恋をする。が、女は裕福な恋人がいるにもかかわらず、水泳コーチをしている中年男の愛人でもあった。彼女は、中年女客からからかわれて逃げ惑う童貞であるその少年を見下していた。そして、少年は彼女に見立てたヌード・ダンサーの立て看板を水中で抱いたりの、屈折した日々を送る。それは妄想と錯綜する異常なるシー ンの連続で、それらのシュールな映像は死をイメージし、どうしようもない狂気をもはらんでいた。ある日、少年は思いを遂げる。ラスト、少年は、プールで血みどろになった裸の彼女を愛おしく抱きながら、一緒に水中にと沈んでいくのであった…。

これもなぜか、『少年は虹を渡る』と同様、キャット・スティーブンスの主題歌が流れた。が、こちらのは悲壮感に満ち満ちていた。かなり、やるせない映画ではあったが、ぼくには、その少年の気持ちや心情が痛いほど、よくわかったような気がした。表現力も素晴らしかった。監督はポーランド出身の作家イエジー・スコリモフスキー。ロマン・ポランスキーと友人であり、『水の中のナイフ』も共同で脚本を書いていた人物だ。

昭和45年には、偶然にも“巨匠老いたり”と評された映画を2本見た。

1本は、ジュリアン・ディビビエ監督の『並木道』(61年、フランス。監督ジュリアン・ディビビエ)というフランス映画で、TBSの深夜に放送された。

見始めて、オオッと身を乗り出した。トリュフォー作品によく登場する、ぼくの大好きな俳優ジャン・ピエール・レオーではないか。しかも子供だ。

アパートの屋根裏部屋にひとりで住んでいる身寄りのないレオー少年は、向かい部屋に住んでいるストリッパーに恋をしている。ある日、食べようとしたジャ ガイモが生煮えだったのに腹を立て、ジャガイモを窓から投げると、通行人のボクサーの頭に当たってしまう。怒ったボクサーは、レオーの部屋に怒鳴り込む。 レオーも抵抗するが、相手にならない。そこへ何事かと顔を出したストリッパーに、ボクサーは一目惚れ。ボクサーとストリッパーは懇ろになり、レオーにとっては踏んだり蹴ったりの事態となった。

「大人って、汚ねえや」とレオー少年は部屋に閉じこもってしまう。何日も何 日も出てこないレオー少年をアパートの住人や大家の娘でレオーを好きな、おませな少女たちが心配して訪ねると、何とレオー少年は、ストリッパーを取り返すために、部屋にサンドバッグをぶら下げ、ボクシングの特訓をやっていたのだ。

もう1本は、同じくフランス映画で、マルセル・カルネ監督の『若い狼たち』(68年、フランス・イタリア。監督マルセル・カルネ)。これは劇場で見た。お調子者の男に愛想をつかしている女との若いマンネリ・カップルと大富豪のプータラ息子の3人の青春もので、最新情報発信地であるパリのいろいろなロケーションが楽しめた作品だった。特に最先端のディスコティックの雰囲気、パリの黒人はかなり洗練されていることなどを知った。そして、気が遠くなるような大金持ちの邸宅の広さと何百着という洋服がぶらさがったプータラ息子のクローゼット、日本とは桁が違うなと感じた。このおかっぱ長髪のプータラ息子がなかなかいい奴で、故ブライアン・ジョーンズに似ていた。

こうして書いてきたぼくの青春時代の愛すべき映画たちは、不幸なことに、いずれもビデオにもDVDにもなっていない。(注・書いていた当時は、です)

続く

|

« 私家版「記憶の残像」④~新宿騒乱 | トップページ | 私家版「記憶の残像」⑥~大学時代と自主制作映画「合言葉」 »

自主制作映画、大学進学、アルバイト、創造社、撮影監督、16ミリカメラ、佐々木守、」カテゴリの記事

コメント

有馬記念 2010 過去のデータから共通する勝ち馬の法則!!注目馬や穴馬などの最新情報を随時公開!

投稿: 有馬記念 2010 | 2010年12月15日 (水) 21時51分

退屈な毎日から抜け出せるチャンスがここに!いろんな異性がいてるから確実に出会えること間違いない!中には芸能人も登録してるって噂だよ

投稿: デコログ | 2011年1月23日 (日) 06時15分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 私家版「記憶の残像」⑤~グループポジポジと大島渚:

» 指でシャシャシャ三時間してきました! [あわび本太郎]
肉棒より指攻めが好きなナースに三時間クチュクチュしてきましたw 後半は普通に肉棒いれて中に出してたけど失神して気付いてなかったwww それで39萬もらえるとかオイシすぎるwww... [続きを読む]

受信: 2009年3月 7日 (土) 04時28分

« 私家版「記憶の残像」④~新宿騒乱 | トップページ | 私家版「記憶の残像」⑥~大学時代と自主制作映画「合言葉」 »