日大芸術学部映画学科、自主映画、大学、カメラマン、篠田昇、西が丘、三郷、ぴあ、原田芳雄、サッカーと野球、スバル360、富士山ロックフェス、卒業制作、ロマンポルノ

私家版「記憶の残像」⑥~大学時代と自主制作映画「合言葉」

グループポジポジの『天地衰弱説第二章』(16mm映画白黒)は、各地から上映の引き合いがあった。前作8mmの『天地衰弱説』とのカップリングでの要請だった。仙台には福田が、大阪には後藤と磯貝がそれぞれフィルム・ロールを抱えて出向いていった。特に大阪では自主映画を数多く集めたプログラムに組まれ、三越劇場で何日か連続で上映した。
その頃、自主映画というものは大変珍しく、また上映する場所も設備のある公民館などでその数はかなり限られていた。が、独立プロの記録映画や作品などと合わせて、それを精力的に上映する映研等のグループが地方都市を中心に多くあった。そういった若者たちに呼ばれ、シンポジウムのようなものも上映と合わせて開かれていた。
ただ、この大阪上映が、後にとんでもない人物を上京させることになった。

秋に入ると、グループポジポジの面々は、相変わらず会うには会っていたが、次の映画を撮る話もなく、みんな将来のこと、大学に進むことを意識し始めていた。ぼく自身も代々木ゼミナールに入り、時々授業を受け、試験に臨んだ。が、3年時に習うはずであった科目は全くわからず、その成績は惨憺たるものだった。
この代々木ゼミナールで、尊敬する独文学者・高橋義孝の講演があり、聞きにいった。「能」の話だった。その中で、目に見えるものと耳に聞こえるものとの時間差(つまり光と音の時間差)の表現の話があった。見世物として、本物らしく見せるには、人間が飛び上がって落ちた時に、ドンという音が同時に聞こえるのではなく、間があってドンと音がするのが、自然であり、これが能にも活かされているというような話だった。

昭和46年3月、福岡はICUに、福田は早稲田の政経に、磯貝は北大に、橋本は成城大(翌年都立大へ編入)へとそれぞれは散っていき、後藤は大学には進まなかった。
ぼくは、日大芸術学部映画学科に入学した。迷わず撮影録音コースを選択した。
自分の学力では、国立も私立のいい大学も無理だと悟ったせいもあったが、好きな撮影の勉強もいいかな、と思ったからだ。ここでは、撮影機材も豊富だし、施設も整っていたから、今後の自分たちの映画製作に何かと利用できるかもしれないという目論みもあった。
入学手続の時、寄付金というものがあった。一口15万円。裕福ではない我が家の父は何口くらいが妥当なのか、と聞いたが、ぼくは、もう入学したのだから、払う必要はない、と突っぱねた。
入学式には出られなかった。前の晩に飲んだ酒のせいで、行く途中、西武池袋線の駅で気持ち悪くなり、吐いてしまい、駅長室で寝ていたからだ。
何になりたいのかもわからず、このままこの大学へ進んでもいいのだろうかという精神的曖昧な苦悩と大したことではないくせに酒に侵されていく肉体の衰えの不安を大げさに交えて、この入学式に出られなかった様子を、“文学”の授業で書いたら、先生に呼ばれ、ほめられた。ただ、タイトルが文章と合っていないと注意された。そのタイトルは「わたしは老人」だった。
ぼくは作文の感想批評を受けたのは、多分小学校以来のことなので、新鮮に感じ、文を書くのもなかなかおもしろいものだ、とこの時思った。

撮影録音コースの授業は思っていた以上に楽しかった。
当時学長であった登川直樹の映画鑑賞後に感想を書く授業、ここで、かの傑作の声名高い『ラ・ジュテ』(62年、フランス。監督:クリス・マルケル。第三次世界大戦後のパリの地下にて、 人類存続の実験台にされた男の記憶が織りなす、全編静止画で構成されたSF映画 の傑作)や実験的映像技法を試みたソビエト大作 『戦争と平和』(66年、ソ連。監督:セルゲイ・ボンダルチュク。国を挙げての文芸大作ながら、らせん状に移動するクレーン撮影など、大掛かりな実験的撮影がすごい)、ジュリアン・ディビビエ監督の名作『舞踏会の手帖』(37年、フランス。監督:ジュリアン・ディビビエ。未亡人となったヒロインが、かつて華やかだった社交界の頃の手帖を見つけ、踊った男たちを訪ねて行く)、エイゼンシュテインの野心作『アレクサンドル・ネフスキー』(38年、ソ連。監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン。13世紀、他国の侵攻からロシアを守るため、勇猛果敢に戦った将軍の話。戦闘シーンを盛り上げるなどの映像と音楽の相関関係を実践した歴史的映画。湖の氷上を馬で横切るシーンで、 絶対に転ぶなと思っていたら、すってんころりんと転んだ。が、それを見せるとは、さすがエイゼンシュテイン)、ジャン・コクトーの幻想映像『美女と野獣』(46年、フランス。監督:ジャン・コクトー。ボーモンの童話をアレンジした幻想絵巻。主演のジャン・マレー日本初登場の映画)、そして、邦画では、阪東妻三郎唯一の現代ホーム・ドラマ『破れ太鼓』(49年。監督:木下恵介。成金土建屋で頑固親父とその家族とのやりとりをユーモアたっぷりに描いた喜劇。とにかく阪妻の演技はすごい)、同じく阪妻の『王将』(48年。監督:伊藤大輔。将棋の異端児、坂田三吉の半生を描いた人情喜劇。縁台将棋をしていた坂田が、関根七段との詰め方を閃いて、「わかった!」と叫び、立ち上がると、相手の男は縁台と将棋盤と駒ごと、ひっくりかえるシーンは大いに笑えた)、三船敏郎の『無法松の一生』(58年。監督:稲垣浩。北九州小倉を舞台に、喧嘩っ早い人力車夫の生涯を描いた傑作。稲垣浩は、戦前阪妻主演でも監督している)、『羅生門』(50年。監督:黒澤明。芥川龍之介の「薮の中」を原作にした、監督の名を世界に知らしめた名作)など古典的な名作が毎週楽しめた。
元カメラマンの撮影体験談、かつて活躍した監督の撮影所の話、実際にセットを組んでの撮影実技、8㎜による課題実習…、撮影と録音の理論技術面ばかりでない授業はこの上なくおもしろかった。
この頃、心中では漠然とだが、(映画の)カメラマンを目指そうと決意にも似た気持ちをもち始めていた。

初夏の頃、泰子(「東京戦争戦後秘話」の主演女優)から電話が入った。撮影の仕事があるから一緒に行かないか、と。
ぼくたちは成島東一郎さんの事務所“ キャビネット・オブ・エヌ”に出かけた。待っていたのは、カメラマン仙元誠三であった。泰子はちょい役で声をかけられていた。仙元さんは、その映画の撮影助手をやらないか、とぼくを誘った。食事と寝床は確保するがギャラはなし、という条件だった。ぼくは即OKをした。

映画は『空、見たか?』(72年。監督:田辺泰志。主演は若松孝二作品の新鋭吉沢健、脇役陣には、吉田日出子、草野大悟、殿山泰司などがいた。自由奔放に生きる男のセックスと放浪と家庭を描いた青春ロマン)、監督は新藤兼人の助監督をしていた田辺泰志という角刈りの太鼓腹おじさんだった。この映画は、岡山県倉敷のシネ・クラブの人たちを中心に、支援とボランティアで製作された、当時では(今でもか) 珍しい形態のものであった。 撮影は、田辺監督の地元倉敷と瀬戸内海を中心に、京都市内、丹後で行なわれた。
俳優さんの宿舎は田辺監督の実家のとんかつ屋の2階、撮影隊の宿舎は地元富豪の離れ、助監督等スタッフはミーティングに使われた広い一軒家に間借りした。助監督たちは、田辺監督の弟をチーフに、彼の早稲田大学の友人たちが集まった。みんな映画経験のないド素人たちであった。
一軒家は、宿舎やミーティングだけでなく、スタッフやキャストの朝食や夕食の場でもあった。スタッフ・キャストがほぼ揃った夕食の時、各自自己紹介をした。その時、出演者の吉田日出子が友人と称して、ひとりの若者をみんなに紹介した。写真では見たことがあったが、それが彼だとは気付かなかった。ぼくは興奮した。憧れの人物“はっぴいえんど”の松本隆であった。

普通、映画撮影のスタッフ構成は、カメラマン、主に露出を計るファースト、メジャーで距離を計るセカンド、フィルムの詰め替えをするサードと役割が決まっており、ぼくは普通の撮影では存在しないフォースという、その他使い走りのなんでも屋だった。しかも、この撮影隊は、照明も兼任していた。
セットを組んでいる時、セカンドで照明チーフの倉田さんから、「堀越、ケン ト紙買ってこい」と言われた。ケント紙なんて、倉敷で売っているのか。どこ行けばいいんだ、どれくらい必要なのか、一切は不明だ。聞き返したら絶対に怒鳴 られることはわかっていた。状況を見て判断するしかなかった。
しかし、状況を判断する力量すら、ぼくにはなかった。自転車に乗り、紙屋はどこですか、文房具屋はどこですか、と訪ねて回った。紙屋が見つかり、ケント紙はあったが、いろいろと重さがあり、その選別がわからない。何種類かを買って、現場に戻った。
戻るとすかさず、「ライト2つ、持って来い」と指示が出る。ライトはバッテリーと対になっており、このバッテリーがえらく重いのだ。両肩にバッテリーを担ぎ、手にライトと支柱を持ち、指定の場所に持っていく。この「持って来い」 は持っていくことだけの意味だけではなく、セッティングすることを含んでいる。それをしないとゲンコツや罵声が飛んだ。
とにかく、初めて本格的に参加した撮影現場は修羅場であった。
初日の撮影が終わり、遅い夕食をとり、カメラやレンズの掃除、フィルムの装着、フィルターの整理、今日撮影したフィルムのナンバーの整理、バッテリーの充電、機材の整頓、明日必要な機材を即運び出せるように準備……、へとへとにな りながら、深夜寝床についた。
午前4時起床。眠い目をこすりながら、小便に行く。ワァオー、チンチンが真っ赤赤だ。何をしても起きないくらい疲れ切って熟睡している新人に、マジックインクで塗りたくる、先輩たちの洗礼だった。
“お尻を掘られなくて、よかったよかった”と、ぼくは今日もまた元気な撮影に出かけていった。

昭和46年8月15日にクランク・インした『空、見たか?』の撮影は、岡山県倉敷市、瀬戸内海を中心に順調に進んだ。

時は1960年、物語は主人公が高校3年の夏に始まる。この主人公が、セックスに明け暮れ、放浪の旅に出、そして結婚してもなお心の赴くままに生きていく、そういう話の映画であった。
初日は、市郊外にあった倉敷東商業高校で、教室内から裏山まで、終日目一杯を使った。ここでぼくは、初めて“太陽”の担当になった。 映画というのは、いくつかのシーンで成立している。そのシーンはまたいくつ かのカットから成り立つ。
例えば、アウトドアでの向き合った男女の会話のシーンがあるとする。男がしゃべっているカットは晴れているのに、切り換えした女のカットが曇っていたのでは、同時間ではない違和感のある映像になってしまう。このため、晴れのシーンは、基本的にずっと晴れた状態で撮影しなければならない。
この日は、晴れてはいたけれど、雲の多い天気であった。そのため、雲の動きを予測して、雲の合間から太陽が顔を出すのが何秒後か、そして何秒くらい陽を差し続けるのかを、監督やカメラマンに大声で伝えるのだ。
楽しかった。すでに撮影や照明の準備は終わっているので、みんなはぼくの声を待っている状態だ。予想が外れると罵声が飛んだが、クランク・インしたばかりなので、みんなにも余裕があり、笑いながら進んでいった。
校庭では硬式野球部が練習をしており、ぼくも休憩の合い間、打たしてもらっ たりしていた。
まむしがいるという裏山では、いきなりのセックス・シーンがあり、ぼくは仙元さんが崖から落ちないように崖っぷちで支えたり、レフで俳優さんのお尻などを照らしたりした。
木ネジ2本5円の領収書をめぐり、金物屋のばばぁと喧嘩をしたり、苦しいながら撮影していることだけで毎日が充実していたのに、監督の実家のとんかつ屋でごちそうになったり、ボランティアの女の子とデートしたり…、泰子と喫茶店や美術館を回り、素晴らしい倉敷の町を堪能したり…、ぼくの二十歳の夏は、異郷の地で弾け飛んでいた。

仙元さんは、撮影の待機状態の時、撮影スタッフみんなに、「(セッティングされた)カメラ、覗いてもいいよ」と気を使ってくれた。ぼくは勉強になるため、お言葉に甘えてよく覗いた。が、他の撮影スタッフはだれも覗こうとしな かった。
撮影開始から、しばらく経ったある日、雨のため、撮影が中止になった。
スタッフ全員が集合し、田辺泰志監督を中心に、反省を含めた意見の交換会が開かれた。ぼくは、部分的な演出について、監督に尋ねたりした。演出陣からも撮影についての質問が出た。が、仙元さん以下撮影スタッフの面々は黙ったまま、返事をしないし、しゃべらない。余計なことは言わないという雰囲気だ。たまに仙元さんが一言二言、言葉を返すだけ。この時、共同で映画を作るという、 ぼくの思っていた映画作り、これまでぼくたちがやってきたものとは、かなり違うものを感じとった。
撮影スタッフは“プロの集団”であり、その技術を最大限活用してフィルムに残すこと、それが彼らの仕事であると、後になって気付いた。任された仕事をだれに指示されることなく、自分たちの力で全うしていく。それが俺たちプロの仕事なんだと。
すごい、と思った。が、同時にこういう映画作りでの撮影は正直つまらないな、とも当時若かったぼくは思った。
完全なる縦社会で構成されているプロの世界、将来漠然とだが映画カメラマンを目指そうと考えていたぼくは、この時多分自分にはなじめない世界かもしれない、と思い始めていた。

そして、しばらく経った頃、銭湯で一緒になった仙元さんがぼくの隣りに座り、神妙な顔をして、「ホリちゃん、髪、切らない?」とたずねてきた。
ぼくは、「何でですか?」と答えたものの、髪を切る気は微塵もなかった。話はとんかつ屋で働く少年の役で出演してほしい、ということだった。この役は、 主人公と結婚した奥さんの実家がとんかつ屋をやっており、主人公は店を継ぐ。その店で働く家出少年の役で、自分の彼女も主人公にとられてしまう、情けなく 悲しい役だった。ぼくは、興味はあったものの、「髪は切りません」と断った。
しかし、結果は、髪を切らなくても、出演することになった。
本番になると主演の吉沢健は、ぼくと目を合わせると必ず吹いてしまい、「お前、真面目にやれよ」とぼくに当たった。
撮影も終わりに近づき、残すは京都市内、丹後の撮影だけとなった。みんなが京都に出かけていった時、ぼくと助監督2名は倉敷に残り、荷造りや後片付けをやることになった。その2日間、時間に余裕が生まれ、ぼくはずっと考えていた。プロの世界で生きていくことを。そして、決めた。プロの世界に入り、撮影助手を経て、カメラマンになる夢は捨てようと。自分のやりたいことは、自分の撮りたい映画を撮っていくことだと、強く思ったからだ。
そんな思いを胸に秘め、助監督たちと、次の撮影地丹後へと向かった。

 /♪トマトやアンズやリンゴを買って  
   汽車に乗ったは良かったが
   明るい星に眠られず
   トマトを捨ててボトルを買った
   ここはどこ?  ここは火の河  ここを過ぎ……

   アンズやリンゴを小脇にかかえ  
   汽車を降りたは良かったが  
   空の底吹く風ばかり  
   アンズを捨ててボトルを開けた  
   ここはどこ?  ここは地の果て  ここを過ぎ……  

   トマトもアンズもリンゴも捨てて  
   激しい夢も醒めはてて  
   涙のような酒びたり  
   ボトルを捨てて、もう帰れない……  
   ここはどこ?  ここは地獄だ  ここを飛べ!
    / (『空、見たか?』の主題歌「長い長い旅の報告」清水哲男作詞)

(ちなみに映画は昭和47年2月、新宿蠍座で上映され、6週間を超えるロング・ランを記録した)

東京に戻ると、大学に進まなかった後藤は、できたてホヤホヤの日本映像学校、通称“原宿学校”に通い、映画の勉強をしていた。
ぼくは、時々彼と酒を飲み、『空、見たか?』で経験した本格的撮影の話をした。そして、ぼくの胸の思いを告げた。自分たちの映画を撮りたいのだ、と。
後藤もそう考えていた。この頃、ぼくたちは、自主制作(映画)で食っていくことを本気で考えていた。
ぼくは解散状態にあったグループポジポジを再結成すべく、大学にいた仲の良い二人の男をメンバーに誘った。
この二人とはいつも一緒に行動していた。授業が終わるとよく行ったのが、新宿紀伊國屋裏にあった喫茶店トップスの2Fだった。ここで、“紅茶”と“じゃがいもとソーセージ”を注文した。これがぼくたちの定番メニューであった。
ガリガリの長身でモデル顔、いつも女を連れていたジゴロのような平塚出身の岩城信行。 ビートルズの熱狂的ファンで、「来日した時、皇居のお堀を何人か泳いで捕まっただろ、あれおれの仲間」などと自慢していた都立白鴎高校出身の篠田昇。 彼は、カメラマンとして井筒和幸監督、相米慎二監督等の作品に関わり、現在主に岩井俊二監督作品の撮影監督として活躍している篠田昇、その人であった。


1、2年前の殺伐とした状況とは打って変わって、江古田という辺ぴな場所にあった日大芸術学部は実に平和的な雰囲気であった。当時の日芸の中庭は、その頃上映された映画『いちご白書』の舞台、コロンビア大学に何故か似た作りになっていた。腰の高さくらいに作られた壇がいくつもあり、その間に道があった。ぼくたちはその壇の上で、雑談をしたり、ギターを弾いたり、授業の合間の暇を潰していた。
ある日の昼休み、放送学科の企画で、中庭で本田竹曠トリオのジャズが催された。最後にビートルズの「ドント・レット・ミー・ダウン」の演奏になった。みんなはさびの部分にくると“ドン~・レッミー・ダ~ウン”を合唱し始めた。本田もそれを気に入ったのか、その部分だけを何度も何度も繰り返した。予定の終了時間を向かえたため、「昼休みは終わりましたので、すぐ演奏を中止しなさい」と構内放送が流れた。が、本田と学生たちは意地でこのエンドレス状態を続け、その後30分くらい演奏と合唱が続き、やがて自然消滅していった。  

篠田昇(以下、昇)はぼくと同じ撮影録音コース、岩城信行(以下、岩城)は監督コースで学んでいた。
ある日、顔の広い岩城がアルバイトをもってきた。TBSで放送になる早朝ヤング向け情報番組「ヤング720(セブンツーオー)」の“さくら”だった。岩城と昇とぼくの3人は、生番組のため(とは言っても収録15分後に放送された)、朝6時半頃にスタジオ入りし、簡単なリハーサルを行なった。本番は7時くらいから始まり(実際の放送は7時20分から)、ぼくたちは、スタジオに来た客を装い、テレビには後ろ姿や後頭部が映っていた。何ともないバイトだったが、テレビ局の雰囲気や仕組みが垣間見れることとギャラがとてもよかったので、しばらく続けた。3時間くらいで、5000円ももらえ、しかもタクシー代まで出た。放送終了後、ぼくたち3人はアマンドで食事をし、大学へと向かった。

ぼくらに共通していたのが、“アメリカかぶれ”であった。時間があれば、いつもアメ横で物色していた。守屋商会でリーバイスのジーパンを何枚も持って2階へ上がり、試着をした。その頃のリーバイスはまだアメリカ製の手作りであったから、自分に最もフィットするものを探すのである。約2000円で買ったリーバイスをしょっちゅう洗っていた。年季の入ったリーバイスは、左のサイド・ステッチが正面に向いてくるので、早くそれに近づけるためだった。
ある日、守屋商会の近くにあるブランド品のお店に、後光がさした品物を見つけた。当時日本では、コンバースのバスケット・シューズはまだ白と黒しかなかった。バスケットボール・マガジンでも白黒ページが多かったので、色モノがあるとは気付かなかった。燦然と輝いていたのは、オレンジ色のハイ・バスであった。値札はついていなかった。
ぼくは、お店のおばちゃんにいくらか聞いた。6800円だった。サイズは26センチ、ぼくの足は24.5センチ。これっぽっちの躊躇もなく、ぼくは絶対買いにくるから、だれにも売るな、しまっておいてくれ、と予約を入れた。

大学の授業では、現像の基本を学ぶため、写真を多く撮らせて、現像、焼付け等を行なう実習があった。だから、ぼくたちは、いつもカメラをかばんの中に入れ、何でもバチバチと撮っていた。昇はライカそっくりの偽物“ニッカ”を愛用していた。
アメリカかぶれのぼくたちは、よく米軍基地のハウスに出かけていった。まだ、東京や近郊には、成増、調布、府中、国立、飛田給、入間、福生、座 間、厚木…と基地周辺に数多くハウスが残っており、軍関係者の大部分はアメリ カに引き上げていった後であった。そこはぼくたちの被写体の絶好の場として、また、いつかそこに住もうと思っていたから、その下見として利用していた。
岩城は夜、六本木のディスコ“ズッケロ”でボーイのバイトをしていた。国道246と元テレ朝通りの交差点にある中国飯店のとなりの地下1、2階にあった。ここのマネージャーと話をつけ、店内にぼくたちの撮った“アメリカっぽい”写真を買ってもらい、スライドで流すことになった。
そんな彼らを、新宿トップスの2階で、後藤に会わせた。自分たちの映画を一緒に作ろう、と。彼らはすぐに打ち解けた。
前から書きためていたぼくのシナリオに、後藤が手直しをした。シナリオができ、それをガリ版印刷した。
ガリ版印刷とは、ロウを塗った方眼紙(原紙)をヤスリの上に置き、鉄筆で文字を書き、謄写版にインクを塗ったローラーをかけ、わら半紙に印刷するもので、ぼくは小学校から慣れ親しんでいたが、学生運動のビラで需要が急激に増えていった。なぜ、ガリ版と呼ぶかというと、鉄筆で文字を書く時、ガリガリと音がするからだ。

映画のタイトルは『合言葉』(あいことば)。
ぼくが監督、昇は撮影、岩城は主演、後藤は製作。昇や岩城の友人たちもスタッフに加わったが、もっと多くのスタッフが必要となり、当時の平凡パンチに “ナイス・ガイ”という恋人募集みたいな欄があり、そこにぼくのボカした顔写真を載せ、募集をした。おどろくほど沢山の応募があった。何人かに連絡をし、手伝ってもらうことにした。
準備は着々と進んでいった。そして、肝心のヒロインを探すため、新宿に繰り出した。スカウト(ナンパ)するためだ。

新宿東口でスカウト(ナンパ)してはみたものの、なかなか格好のヒロインを見つけることは難しかった。今みたいに勧誘やモデルのスカウトマンが通りに目立つほど立っている状況とは違い、見ず知らずの女性に声をかけるのは、完全にナンパ目的であったから、美形の女からは鼻から相手にされなかった。それでもモデル顔の岩城は、スカウトという使命を忘れ、ナンパした女とよく同伴喫茶に入っていた。
シナリオの修正やロケ・ハン(ロケーション・ハンティング)、フィルムの調達、など着々と準備を進めていく合い間に、ぼくはみんなに内緒で、平凡パンチで募集したスタッフの女一人とデートを繰り返していた。横浜・石川町の埼玉銀行に勤めるOLであった。埼玉銀行は“サイギン”と略していたが、ぼくは“タマギン”と呼び、彼女に嫌がられていた。
ぼくは、授業が終わると、関内まで出かけ、彼女が仕事を終えるのを、山下公園で待っていた。
ある時、ぼくの日々の行動を不審に思った岩城が、学校から山下公園まで付けてきたが、ぼくは友情を裏切り、うまく巻いた。
港の見える丘公園や外人墓地、山手の高級住宅地から“ゴールデン・カップス ”のデーヴ平尾の実家やマモル・マヌーの住んでいたアパートまで、彼女に案内されるまま、静かな所をひたすら歩き続けた。そして、遅い夕飯をとるため、中華街に向かった。
昔、身欠きにしんを“磨き”にしんと思っていたぼくは、中華街で、初めて“サ ンマーメン”なる食べ物を知った。さすがに秋刀魚の入ったラーメンと単純には思わなかったが、どんなものかは想像もつかなかった。これが美味であった。
今はメニューに少なくなったが、もやしそばというものが当時は流行っていた。もやしの他炒めた野菜が上に乗った、スープがとろみのラーメンで、ぼくはこのとろみの付いた感触が好きではなく、何故素直に野菜を炒めて乗せるだけのラーメンがないのだろうと以前から不思議に思っていた。それがこのサンマーメ ンだったのである。
ある日、中華街では珍しい厨房が見えるカウンターだけの店に入った。ぼくのすぐ前には、スープを作る大きな鍋がぐつぐつと煮立っており、対流によって下から野菜のへたや鳥がらやありとあらゆるものが浮いては沈んでいった。その中に、瞬間、疑わしきものを見つけたぼくは、彼女に告げた。「もうすぐ、もうすぐ見えるから、よーく見てて」と二人で凝視した。「ほら!」。ぼくたちは、見つめ合った。「ねっ」とぼく。うなずく彼女。ぼくたちは、お金だけ払って、店を出た。厨房の床をチョロチョロしている動物が、そのまんま、入っていたので ある。

帰りは決まって、赤羽まで京浜東北線の最終電車に乗った。人はまばらで、車内はとても汚なく、臭かった。新聞紙や紙くずが散らばり、たばこも吸い放題、小便もし放題だった。
車内には、“薬”の売人がいて、「にいちゃん、シャブいらない?」と声をかけてきた。始めは断り続けていたが、最終電車でぼくをよく見かけるせいか、その内、隣に座って、世間話をするようになった。
彼らは上野を中心に、薬を専門に売買するグループで、上野の店に来れば、いいブツを安く売ってくれるという。
そして、「これ、にいちゃん向きのおすすめ」と言って、一粒の錠剤をぼくに渡した。「これ、スピード(約20年前頃、ディスコで流行ったビンに入った液状で嗅ぐのとは違い、白い錠剤だった)っていうの。ビンビンだよ。500円だけど、300円でいいや、お試し価格ね」。
ぼくは、300円を渡した。「飲んでみな」と男。
ぼくは、今飲むと身体がおかしくなり、その隙に財布を取られるかもしれない、という警戒心から、あとで飲むからいいよ、と断った。男は上野で降りた。
ぼくは、スピードを飲んだ。ものの数秒で、脳天からケツの穴に、稲妻が走った。座っていたぼくは、勢いよく立ち上がり、吊革にぶら下がった。向かいの車窓から、過ぎ行く景色の光たちが、ぼくの目の中にどんどんと飛び込んできた。

相変わらず、ヒロイン探しは続けていた。
日芸でよくフォークロックのコンサートを開いていた同期生でセミプロ・ ミュージシャンの藤本あきらにも声をかけていた。その彼からいい子が見つかったという連絡が入った。藤本の女友達の妹らしい。
新宿のトップスの2階で待ち合わせをした。ぼくと昇と岩城と後藤とで待った。かなり遅れて藤本とその彼女が現れた。
真っ直ぐなロングへアーだが、カジュアルなジャンパーに足首まであるタイトなロングスカートの出で立ちは完全にヤンキー(当時はそんな言葉はなかった)だった。が、ぼくの大好き な女優ステファニア・サンドレッリを幼くしたカメラ映えする顔立ちだった。
ぼくらは“いいんじゃない”という暗黙の了解を目でかわしながら、彼女に映画の説明をしていった。
時々、冗談を交えるのだが、彼女は必死に笑いを堪えていた。ぼくは笑った顔も見たかったし、でも何故堪えているのかが不思議だった。
専門学校に通っていて、授業のない日や午前中、冬休みは参加できるという返事も、下を向いて、ぼそぼそとしていた。
ぼくは、次第にいらいらしてきて、「君が気にいったけど、そんなに小さな声じゃ、使えないよ」と彼女のおどおどした目を見据えた。しばらく、“にらめっこ”状態になった。彼女は堪え切れず「やーだぁー」と初めて笑った。
ぼくらは目が点になった。前歯が1本、まるまる欠けていた。
現在治療中で、じき差し歯が入ることを告げた彼女をぼくたちは採用することにした。彼女の名は、キッコといった。帰り際、ぼくは「差し歯が入るまで、撮影の時は、いつも白いガム、咬んでてね」と指示を出した。キッコは、思いっきり笑っていた。
こうして、難題のヒロインが決まり、昭和47年の冬、新生グループポジポジの映画『合言葉(あいことば)』の撮影がスタートした。

新生グループ・ポジポジによる16㎜映画『合言葉(あいことば)』を制作するにあたり、日大芸術学部の新入生であるぼくたちは、大学をフルに利用することにした。

まずは、機材の借用とフィルムの購入。16mmカメラでの実習は2年からであったが、特別に16mmカメラを貸してくれるように交渉し、撮影録音コースのぼくと (篠田)昇は、課題を撮るという名目で、時期をずらして交互にボレックスやアリフレックスを借り続けた。フィルムは、コダックや富士フィルムと比べ、かなり安価なベルギー製アグファの白黒フィルムを購入してもらった。 その他、レンズや三脚、ライトやバッテリー…、借りれるものは何でも借りた。撮影が済んだ後も、2年生以上でないと使えなかった16mmの現像タンクや編集室、アフレコ・サウンドトラックの収録に使うスタジオも、全てにわたって学校の施設を使わせてもらった。
先生や講師たちは、こんなに熱心な生徒はこれまでいなかったと喜んでいたはずだ。ぼくたちは、一番心配だった金銭的な負担が解消されていったことを喜んでいた。

『合言葉(あいことば)』の撮影は、ぼくが住んでいる赤羽と篠田昇の実家がある埼玉県三郷を拠点とし、その周辺と目白にある後藤和夫の家の近所の高級住宅街、明治神宮や代々木公園などで行なわれた。
初日はまず軽く、主人公タクマ(岩城信行)だけのシーンを撮ることにした。タクマの家と部屋の設定であったぼくの部屋の撮影から始めようと、午前9時に赤羽の実家に集合することにした。が、いくら待っても主演の岩城がこない。電話をしてもアパートにもいない。連絡もこない。
仕方なく、周辺の風景を撮り、時間を潰すが、午後になっても一向に連絡もない。昇がもしかしたら、ここにいるかも知れない、と一枚の紙切れをカバンの中から出した。何日か前に、連絡が取れなくなったら、ここに電話してくれ、と岩城からもらった電話番号が書いてあった。昇が電話をした。「岩城、いますか?」。岩城と連絡がとれた。女の所にいた。場所は青山だった。
今日の撮影は諦めて、ぼくらは撮影移動車である後藤(和夫)の中古のとてもぼろいコロナ(以下ボロナと呼ぶ)に乗って、会いにいった。ぼくは内心怒っていた。岩城にも女にも文句のひとつを言いたかった。
女は、30(歳)過ぎのショー・ダンサーで、ふたりとも今起きたばかりであった。「ごめんね」と言いながら、コーヒーを入れてくれた姐御肌のダンサーは、お詫びに夕飯をおごると、明治通りと表参道の交差点にあったイタリアン・レストランにぼくらを誘った。 ボロナの車中、後ろの席から彼女は、「あーら、扁平頭なのね」と運転する後藤の後頭部をぺんぺんと叩いた。ぼくらはその通りだと大笑いをした。

赤羽での撮影は、西が丘にあった広大なさら地を多く使った。ここは、元日本陸軍の兵器廠跡で、その昔、ぼくが中学3年の頃はレンガ作りの建物もまだ残されており、隣接していた我が母校の稲付中学校の3階から、授業中ピンク映画の撮影がよく見られた。遠くの方で、全裸の女が数人の男たちに追いかけられ、その後を撮影隊が追う姿を、みんなは授業そっちのけで眺めていた。そこは現在、西が丘国立サッカー場になっている。
ここは、サッカー場に決まる前、プロ野球パ・リーグ“ロッテ・オリオンズ”のフランチャイズの最有力候補地だった。この頃、東京生まれ、東京育ちであったぼくは、根っからの巨人ファンであったが、V9後半のジャイアンツには飽き飽きしていた。野球が面白くなくなってきていた。土井と黒江のコンビなんか、くそく らえぐらいに思っていた。 しかし、そのロッテ西が丘球場の誘致の署名はしなかった。
その頃、サッカーはまだ“三菱重工”“古河電工”“東洋工業”“ヤンマー・ディーゼル”などの社会人リーグで、NHK教育テレビで放送されていた。釜本、杉山という突出した選手はごくわずかで、試合運びも見てて飽きるくらい下手くそであった。
それは、当時来日した外国チームとのゲームを見れば、子供の目にも明らかであった。例えば、日本チームは、必ずオフェンスでの競り合いになると、ボールを外に蹴り出してしまうのである。つまり、守りのパスがろくにできなかったのだ。
全日本チームの対ソ連戦で、小城の蹴ったフリーキック。左サイドからの5,60メートルはあったフリーキックは大きく緩やかな弧を描き、とてつもなく長い滞空時間の後、ゴールキーパーの長く伸びた左手をかすめて、コーナーポストぎり ぎりに入った。
ぼくはこの光景を今でも忘れない。これっきゃない、これが日本のサッカーだと、確信した瞬間だった。
釜本率いるヤンマーに、日本に初めてブラジル人二世がやってきた。ネルソン吉村と名乗った華奢な身体の若者は、ケタ違いにパスやドリブルが巧かった。以後、多くのブラジル人二世たちがやってくることになるが、彼らにより、日本のサッカーは確実に面白くなっていくことは目に見えていた。
そう、その時ぼくは野球よりもサッカーに未来を託していたのだ。
そして、ロッテ・オリオンズは流浪の旅の始まりである仙台に行ってしまった。
ぼくは、このことを今では後悔している。もし、ロッテがこの時、西が丘に来ていたら、ぼくは多分、現在のクソ面白くもないプロ野球でも、地元ロッテ・ファンでいられることにより、プロ野球を愛し続けることができたかもしれないからだ。

三郷にも想い出の撮影場所があった。建設途中の武蔵野線三郷駅だった。まだ、電車も走っていないので、外から自由に入れた駅は、鉄筋の骨格だけでできた近未来的な雰囲気をもっていた。ここのホームで、タクマ(岩城)とミカ(キッ コ)とオメガ(ぼく)との延々と続くシュールな言葉の掛け合いを撮影した。

シナリオにセリフが書かれていたが、物足りなさを感じたぼくと後藤は、その場で言葉を付け足していった。

/●ミカ「何か考えているの?」

■タクマ「ん? うん。不思議な話さ。タクマという男がいたんだ。そして、ミ カという…」

◆オメガ「1951年からずっと僕は汽車が来るのを待っているんだ」

■タクマ「汽車の汽笛が聞こえてきたんだ。合言葉のように。そして、僕は…」

●ミカ「駅はどこもみんな閉ざされていたのよ。汽車は止まることができない で、さまよい続けているんだわ」 ……

◆オメガ「街で男を見たんだってさ。男は変わったカバンを持っていたんだ。大 事そうにカバンを抱え、おびえた目つきでウロウロしていたんだ」

■タクマ「少なくとも、今は始まりかもしれない」

◆オメガ「それを見ていた男がいたんだってさ。カバンの男を追いかけていった んだ」 ……/  

というようなかみ合ったような、そうでないような会話が続いていくものだった。

のちに、新宿の酒場で会った金井勝監督(60年代後半から70年代にかけて話題を呼んだ「無人列島」「GOOD-BYE」「王国」等を撮った自主製作&自主上映の先駆者的存在)に、名場面だとほめられた。

撮影の途中、大学の単位を取るため、体育の実習に参加しなければならなかった。冬はスキーかスケート、夏の水泳のどれかを選択するものだった。ぼくと岩城はスキー、昇は水泳を選択した。スキーの実習は、長野県美ヶ原スキー場で行なわれた。

ぼくはスキーに着ていこうと、なけなしの金をはたいて、西武(デパート)でセーターを買った。ブルーのトーンのグラデーションで雪と星の形があしらわれていた、とてもふっくらした高級なセーターだった。ぼくは、これを2,3回着て、我が家の洗濯物入れに入れてしまった。母はそのまま洗濯機で洗ってしまい、普通に干してしまった。洗い上がったセーターは、子供用セーターに変わっていた。怒りと傷心のぼくは、「ウール100%の洗い方も知らねぇのか!」と母をなじっ た。そして、罪滅ぼしにこういうセーターを編め!と命令した。それは赤、白、青、緑、橙、黄…、あらゆる原色を使った横縞のクール・ネックで、各色幅をわざと不規則にしたものだった。だれが見ても、同じものは2枚とないオリジナルだった。母は買ったばかりのシルバー編み機を使って、一生懸命に作ってくれた。外見の出来上がりは満足のいくものであったが、内側は色違いの毛糸の結び目がいたるところにあり、それがゴツゴツして、着心地はイマイチであった。

岩城は岩城で、神宮外苑の第一回フリーマーケットにて、プロ・スキーヤー用のド派手なつなぎのぴったりスーツを特別安く手に入れた。これは、何日かの交渉があったが、店主からはそんな値段じゃ譲れない、と断られ続けていた。そして、最終日の終了時間まで粘り、ついに岩城は奥の手を出した。お客もまばらになっていた店内で、「さあ、みんなで目をつぶりましょう。イッチニィーのサン」と声を掛けた。急にふられたみんなは反射的に目をつぶった。岩城は、店主に「今、目をつぶってくれましたね。ありがとう」と店主の手を握りしめた。始めはキョトンとしていた店主だが、この不意打ちの冗談に気付いた様子で、苦笑 しながら、「最後の最後までしつこい奴だなぁ。いいよ、もっていけよ」と念願のスーツを売ってくれた。

スキー実習では、母の編んでくれたセーターを着、その上からアメ横で買ったモスグリーンのウーマンズ・アーミーUSAのロング・コート、防寒用耳付き戦闘帽とゴム長靴というぼくの出で立ちは、まさにシベリア抑留部隊そのものであった。実習初日、スキー初級組に紛れ込んだ、片やまさにアルペン滑降のプロ・スキーヤー、片や極寒の八甲田山部隊。異様な格好のぼくたちふたりはスキー場で、やんややんやの喝采を浴びた。が、見てくれとは違って岩城もぼくもスキーの初心者であったから、ふたりの滑るへっぴり腰のボーゲンに、インストラクターたちとぼくらを奇異に見ていたスキー場の人々は、腹を抱えて笑っていた。

昭和47年、大学2年のある日、(篠田)昇の“スバル360”( ビートル・タイプのフォルクスワーゲンを真似た、360CCの軽小型車)に乗って、新宿 を通りがかった時、ラジオから、「カメラのさくらやで先着10名様にビートルズのアルバムを差し上げます」と流れていた。さくらやはちょうど目の前だったので、車を止め、ぼくと昇と岩城の3人は、さくらやに駆けつけた。すでに何人かが並んでいたが、ぼくたち3人は10人以内にいた。もらった袋を開けると、昇には「ホワイト・アルバム」、岩城には「ア・ハー ドデイズ・ナイト」、ぼくには「ラバーソウル」が入っていた。

この頃、三郷にある昇の実家によく泊りに行った。その主な目的は、バンドの練習をするためだった。昇はポールを気取って左ききのベース、岩城はドラム、ぼくはサイドギターやパーカッションだった。これに、昇の高校の友人であるリードギター“ウィーピング”百瀬やボーカル“ミック” 雨宮などが加わった。後藤(和夫)もよく歌っていた。当然ビートルズが主体であったが、ぼくや後藤は拓郎や陽水をレパートリーに加えてもらった。バンドの名は「ザ・ロック」。日芸のある江古田のスナックでライブをやったこともあった。

昇の実家は、古い一階立ての大きな木造であったが、米屋をやっていた祖父が、かなりハイカラな爺さんであったらしく、12畳くらいの昇の部屋は大きな出窓の付いた西洋風の作りで、入り口もドアになっていた。 数年後、昇の家は新築することになり、その解体作業を手伝ったことがあった。この時、初めて“大黒柱”の存在を知った。ぼくは、屋根に上がり、瓦や壁をはがす作業をやった。家の身ぐるみがはがれたところで、解体屋の棟梁が「これが大黒様や」としきりにある柱をポンポンと叩いていた。家の中心に位置していなかったので、大黒柱はわかったが、それがどうしたと思っていた。棟梁は手下に指示をし終わると、その大黒柱一本を倒す作業を始めた。驚いた。大黒柱が倒れると同時に家全体の柱たちも倒れていき、一気に全部潰れてしまった。大黒柱とは、こういうことを言うのだと、初めて理解した。

朝早く、昇の大きなダブルベッドにぼくと岩城の3人で寝ていると、俳優品川隆二(時代劇を中心に活躍した2枚目の名脇役)に似た昇の親父が勝手に入ってきて、柱に掛っている鏡を見ながら、薄くなった髪をとかし、ドライヤーをかけていた。いつもそうだった。ぼくたちが起きる頃には、昇の両親は働きに出てしまって、ばあちゃんが残されていた。しかし、このばあちゃんも神出鬼没で、居るのか居ないのかよくわからなかった。この家の人々は、ぼくのことを堀越と呼び、近所の人に対してもみんな姓で呼んでいた。

起きたぼくたちは、勝手に台所に行き、用意してくれたごはんと味噌汁、そして、おかずを食べるのだが、一番やせていた岩城の食欲はとても尋常ではなかった。まず、焼き海苔6枚でごはんを2杯、おかずで5杯、味噌汁で2杯を平らげてしまうのである。これを見ていた昇のばあちゃんの目は真ん丸になって固まっていた。 我が家に泊った時も、家族が食べる昼と夜用に炊いたごはんを、朝、岩城一人で食べてしまったのを、母は腰を抜かすくらいに驚いていた。 悲惨だったのは、岩城の彼女たちだった。岩城はもてるので、よく女を取り替えていたが、長く付き合った女もいた。彼女たちは、こんな食欲の男と付き合っているため、一緒にいて吊られてしまうのか、3ヶ月くらいすると、必ず太ってしまうのであった。一方の岩城は全く太らない体質でガリガリ状態を維持していた。

泊った翌日は、家から歩いて5分ほどのところにある、昇のお母さんがやっている“マチコ美容室”にかけたいパーマの写真をもって行き、パーマをかけてもらった。

昇の家に遊びに行く時は、亀有の駅からバスに乗った。ある時、そのバスの広告に“マチコ美容室”があり、そこには、“ヨーロッパ帰りの美容師来る!”とあった。それは、昇の兄のことだった。兄貴は、名古屋の美容院に勤務していたが、結婚して実家に戻ると聞いていた。マチコ美容室で働くわけだ。そして、新婚旅行はヨーロッパ。それで、広告のコピーになったという訳だ。ふざけた話だ。

『合言葉』の撮影中、ぼくたちは明治神宮で3匹の小犬を拾った。まだへその緒がついていて、目も閉じたままだった。後藤の家に連れて帰り、牛乳をスポイ トで与えたが全く飲もうともしなかった。口が全然開かないのだ。犬を飼っていそうな友達に電話して聞くが、だれにもどうやったらいいのかわからなかった。だれかが、へその緒のせいじゃないか、と言った。へそから栄養 をもらっている状態のままだから、口から飲もうとしないのだと。ぼくたちは、それを信じるしかなかった。へその緒の根元をひもでむすんで、ハサミで切ろうとするのだが、半信半疑のため、なかなかできない。ワァー ワァーと大声を出しながら、切ると血がピュッと出た。さらに大騒ぎになった。ガーゼでお腹の血を拭き、お腹を縛った。すると、口がパクパクし始めた。ミルクを飲み始めたのだ。この小犬たちは、引取り手がいないため、しばらくぼくたちで飼うことになった。家は後藤の車ボロナだった。だから、撮影にはこの小犬たちが常に随行して いた。

ある日、撮影の帰りに、神保町にあるパチンコ店“人生劇場”に寄った。この店の景品は、当時東京では最も豊富で、それは大学街であったからだ。食べ物や日用品、本などを揃えていた。2時間くらい遊んで、景品を抱えて、車に戻ると大変なことになっていた。

車の中が煙で充満していた。タバコの火が消えないで、燃えてしまったのだ。 しかも、完全に窓を閉め切っていたから、車内はもうもうとしていた。ドアを開け、煙を追い出して、箱の中にいた3匹の小犬を外に出した。死んでいた。カチンカチンになっていた。ぼくたちは、その足で明治神宮へ行き、拾った場所に、小犬たちを埋めた。

『合言葉』の撮影が終わると、映画学科のスタジオを借りて、アフレコやサウンドトラックの収録を開始した。音楽は、主役のキッコを紹介してくれた同級生でセミプロ・ミュージシャンの藤本あきらに頼んだ。彼は、“ゲッセマネ”という 4人のグループを連れて来た。彼らは、フルートを中心とするフリージャズというかフリーロックというか、ジャンルにとらわれないすばらしいグループだった。ドラマーは弱冠11歳の中学生で、ジャズ・ドラマー猪俣猛の弟子だった。

藤本には、前もって歌なしのメインテーマとぼくが作詞した曲を頼んでいた。10数分のメインテーマを何テイクか収録している時、録音担当の同級生森田が 「何か、人がしゃべっているよ」と何やら怪談めいたおかしな事を言い出した。録音室からガラス越しに見ると、彼らは真剣に演奏していた。「ほら、まただ」 と森田。ぼくと昇はそっとスタジオ内に入り、だれがしゃべっているのか確かめることにした。しばらくすると、昇が自分の口を押さえておかしさを堪えなが ら、ぼくを手招きした。犯人はフルート奏者だった。彼の演奏を近くに寄って聞いてみると、判読はできないが、何かをしゃべりながら吹いていたのだ。

ぼくが藤本に頼んだ詩は、“いつも いつも いつも だからいつも(このリ フレイン)”と至って簡単なものであった。まず藤本がゲッセマネの演奏で歌ってみせてから、ぼくらに案を出した。合図を出すから、そこからここにいるみんなも一緒に歌ってくれ、と。楽しかった。プロの連中と一緒に合唱するなんて、初めての経験だった。

この中に、スチルを担当したサブローというあだ名の仲間がいた。本名は長谷川潤。当時、日芸の生徒で、同じ学科を受けて浪人した人間はいなかった。現役か初めて受けてそのまま受かるケースがほとんどであった。サブローは、映画学科一本で3浪していた。このサブローは、その後、授業の課題制作などで、ぼくのよきパートナーとして付き合ってくれた、今でも忘れられない友人のひとりだった。ちなみに同じような理由で、イチローとあだ名を付けられた金子正博は、ある時期、カメラマン坂田栄一郎の弟子として、活躍していた。

同級生ではなかったが、昇が受験の時、昼飯のキッチンで知り会った男、杉山 “マッチョ”芳明とは、よく酒を飲んだり、カメラの話をよくした。彼は、その後、六本木のスタジオ・ボーイを経て、篠山紀信が「週刊プレイボーイ」のヌー ド・グラビアを辞めた後、その後釜として抜擢され、売れっ子カメラマンとなった。

ぼくの大学時代の同級生には、江藤潤主演の純情痴漢映画「純」(1980)を撮った横山博人、日本テレビのドラマ「桂三枝物語」の脚本を書き、実際に三枝の奥さんになってしまった女性、「まわるい緑の山の手線、真ん中通るは中央 線~」という有名なヨドバシカメラの曲を作った広告代理店の社長などがいた。

 

その頃、右翼系の学生たちが長髪の若者を捕まえ、髪を刈ってしまう“長髪狩り”が大阪で盛んに行なわれていた。難波の歩道橋で、数人の男たちに長髪の学生がハサミで髪を切られる事件など、連日新聞で騒がれていた。

『合言葉』を主演したキッコの友達にネコという女の子がいた。彼女は、小田急線の鶴川に住んでいた。この鶴川という街は、新興住宅地で大きな団地もあり、皆駅から遠い所に住まざるをえなかった。だから、夜、バスが終了すると、タクシーしか交通手段がなく、電車が駅に着くやいなや、男も女も、老人も子供も、皆一目散にホームを走り、階段を登り、降り、改札口を抜け、タクシー乗り場へ駆けつけた。これをネコは“鶴川競馬”と称していた。

彼女の家に遊びに行く機会があった。鶴川の駅に着くと、嫌な予感がした。この街に国士舘大学があったなんて、ぼくは知らなかった。別に左翼でもなく、対立する身分でもなかったが、“長髪狩り”のことが頭をよぎったのである。関西が中心であったこの事件は、つい数日前、初めて東京の三軒茶屋でも起こっていた。街へ出る度に右翼系学生たちとは出会いたくないな、と真剣に思っていた頃だった。その嫌な予感は的中した。ネコの家まで駅から歩いて30分、近くにきたところの登り坂の途中に小さな公園があり、その奥で学生服の男たちが数人でだれかを取り囲み、騒いでいた。直感で“やばい”と思った瞬間、そのうちの一人が 「あそこにもいるぞ!」とぼくを指差した。ぼくたちは必死に逃げ、細い階段の 上を登り、そこにあったネコの家の玄関の隙間から、彼らの様子を見た。通り過 ぎていった。

モデル顔の岩城は、女にもてるだけではなく、色々な人物とすぐ親しくなれる天才的な能力を持っていた。が、ぼくと昇は、岩城が連れてくるあまりにもいい加減な人々に会う状況に、少し辟易していた。

そして、また岩城が胡散臭い人間を連れて来て、昇やぼくに紹介した。ぼくらより、少し年上の西村と名乗る男は、プランナーという、当時のぼくたちにはよくわからない職業だった。岩城に言わせると、西村くんはアイデア・マンだから、何か自分たちのためになるかもしれない、とのことだった。彼の事務所は原宿にあり、当時の原宿はセントラル・アパートを中心に、文化人たちのオフィスが集結し、最先端の店が次々と出来上がっていく魅力的な街だった。女店員が全国各地の方言で応対するブティック“ミルク”、洋服を含む皮製品とシルバーのアクセサリーの店“グラス”、できたての“キディランド”、黒を基調にした、おそらく日本初のオープン・カフェ“シオン”などによく出入りして いた。

しばらく付き合った西村くんは、実際とてもユニークな人物だった。ぼくらの映画作りのこともよく理解していた。自主上映の戦略的なことも相談できた。ぼくらは、撮っていた『合言葉』の製作担当を彼にお願いした。それほど、製作資金も大層なものではなかったので、快く引き受けてくれた。

彼と一緒に渋谷西武デパートに行った時の事である。エスカレーターで、1階から2階に上がった所に、イベントや催し物を刷ったパンフレットが何種類か置いてあった。それを西村くんが手にして「これって、その場所に行かないとわからないんだよね。それをさ、雑誌にして配ってしまえば、便利だと思わない?」 とぼくに聞いた。そして「デパートのイベントや映画、コンサート、全部のさ、 街の遊びの情報を一冊にまとめた雑誌、今考えているんだ」と言った。今は当たり前になっている若者向けのイベント情報誌というわけだ。ぼくは便利だとは思ったが、その発想がまだいまいち理解できなかった。そんな折、その年の7月、“ぴあ”という雑誌が創刊された。西村くんと同じ事を考え、いち早く実行した人間たちがいたのだ。

ある日、驚くべき話を西村くんがもってきた。富士山の裾野に、ローリング・ ストーンズを呼ぶイベントが進行中だという。総合プロデューサーは、カルメ ン・マキの旦那の支那虎という人物。メインとサブのステージが作られ、それぞれに、日本を含む世界中のロックン・ローラーが集合し、24時間ぶっ続けに演奏、そしてトリをとるのが、ストーンズということだった。そのサブ・ステージの撮影をぼくたちでやらないか、という依頼だった。

興奮した。ぼくは、アルバイトが入っていた「大相撲ダイジェスト」の撮影を即断った。ぼくらは、西村くんから、ステージ配置図の青写真をもらい、撮影計画を連日ワイワイガヤガヤと練った。が、1ヵ月も経たない内に、中止になったと西村くんから連絡があった。その大きな理由は、麻薬絡みでストーンズの入国が全く無理であるということだったが、もっと他に理由がありそうな気配であった。

当時、岩城は、幡ヶ谷の、風呂なし、共同便所、共同洗面所という木造の超ボロアパートに姉さんと一緒に暮らしていた。入り口で、靴を脱ぎ、下駄箱にいれて、階段を上がった2階の6畳一間だった。大きなダブルベッドが部屋のほとんどを占めていた。ぼくと昇は、一緒に住んでいるのは、絶対に姉さんではないと思っていた。遊びに行くと、スリップ姿のその胸元から、こぼれんばかりの巨乳に目のやりばに困った。が、彼らの平塚の昔話を聞いているうちに、本当の姉さんであることが、わかってきた。

このアパートのすぐ側に火葬場があり、そのまたすぐ側に原田芳雄が住んでいた。調子のいい岩城は、多分道端で原田芳雄に会い、ずうずうしく話かけて知り合いになったんだと思う。当時の原田芳雄は、『赤い鳥逃げた?』等のアウトロー・スターとして、活躍し始めていた頃だったが、ぼくはそれ以前に、テレビの柔道ヒーロー・ドラマ(たしかTBSだった)の主人公で、黒の胴着を着ていたかっこいい人物という記憶があった。

ある日、ぼくらは原田さんの家に遊びに行くことになった。原田さんは、とても恥ずかしがり屋で、まともにぼくたちの目を見ないで話をしていた。“Mr.スリム”をおいしそうに吸いながら、大好きな山登りの話をしてくれた。ぼくらは、 たちまち原田さんの大ファンになってしまった。

そんな縁で、昭和47年の夏、原田芳雄主演のATG映画『竜馬暗殺』(原田芳雄“坂本竜馬”と石橋蓮司“中岡慎太郎”のホモ達関係に、デビューしたての 松田優作が絡む、当時の世相を反映させた時代劇。桃井かおりも初々しい)に、 岩城と昇が参加することになった。

監督は黒木和雄、脚本には奇しくも『空、見たか?』の監督であった田辺泰司が加わっていた。岩城は製作進行、昇は撮影助手だった。撮影は田村正毅(カメラマンのベテラン。代表的な作品では、石井聡互監督「逆噴射家族」、伊丹十三監督「タンポポ」など多数あり。最近では青山真治監督「EUREKAユリイカ」 が有名)、撮影チーフに川上皓市(東陽一監督「サード」でデビュー、東監督のほとんどの作品を担当、最近では、荒井晴彦監督「身も心も」、松井久子監督「折り梅」などを手掛けている)、セカ ンドに小林達比古(「たどんとちくわ」他、市川準監督作品を多く手掛け、最近では、同監督の「竜馬の妻とその夫と愛人」、月野木隆監督「白い犬とワルツを」、東陽一監督「わたしのグランパ」を撮った )、そして昇はサードに付いた。この映画が今ある彼の出発点となったのである。

京都に出かけていった彼らの後、東京に残ったぼくは、『合言葉』の最後の仕上げに取り掛かっていた。

完成した映画『合言葉』は、同じグループポジポジ16mm作品『天地衰弱説第二章』と併映した。当時、8mm映画を上映できる小スペースは都内各所に点々としてあったが、16mmとなると上映できる公共の場は限られていて、しかも多くの動員ができるところは東京23区内では、四谷公会堂、高円寺会館、豊島区民センターくらいだった。ぼくは、若者たちが集まる新宿、渋谷近辺で他にも安く借り られる場所がないか探した。原宿にあったできたての千駄ヶ谷区民会館が好条件で貸してくれることになった。自分たちで折り畳み椅子を並べること、片付けること。掃除をすること。消防署に届け出を出すこと。それで、貸出し料金は格別安く設定してくれた。詰めれば200席は作れるであろう体育館に、7、80席の椅子 を並べ、映写機とスクリーンをセッティングした。

グループポジポジは、映画を作っていく中で、スチル(白黒)をかなり多く撮った。これは、好きなこともあるが、大学で自由に現像や紙焼き、引伸ばしができたからだ。そのスチルは宣伝材料として活躍した。新聞社には、文化部、学芸部等に資料やシナリオ、上映日程とともに送った。文字のみだが、必ず載ったのは本屋で売っていた日本読書新聞や図書新聞で、一般新聞では、自主制作作品に対しては 東京新聞が熱心であった。ぼくたちは、映画の批評が掲載されることを狙っていたので、映画評論家や監督たちにも同様に発送していた。『合言葉』は、評論家 田原克拓氏が読書新聞に書いてくれた。

が、もっとも効果的だったと思われたのは、できたての若者向け情報誌“ぴあ” であった。当時の“ぴあ”の誌面は、情報が少なく、まだまだゆったりとしていて、「自主上映」のページは、2ページもあった。ぼくたちの豊富な写真材料は、ここで威力を発揮した。トップの位置に、写真も大きく掲載されたのだ。ぼ くたちの上映は、毎日、毎週ではなく、予算の関係で、隔週金曜夜とかの飛び飛びで何ヵ月も続けていたので、“ぴあ”が出る度に、違う写真を使ったトップ扱いになった。

昭和48年に入ると、原正孝が衝撃的な8㎜カラー作品『初国知所之天皇』(はつくにしらすめらみこと)を登場させ、ぼくを興奮させた。制作、演出、 脚本、撮影、主演、音楽、演奏、編集、(上映の際の)映写技師を原くんひとりで行なった。何故映写技師もやるのかというと、映写スピードをいろいろと変えて上映するからだ。上映時間は実に8時間。場所は、国道246沿いにあった渋谷ポーリエ(精力的に映画、演劇、評論等の講演や講座を展開していたグループであり、その 拠点となっていた場所)。毎週土曜の夜9時頃から上映開始、途中休みを挟んで、早朝に終了した。始めはぱらぱらだった客も、次第に回を重ねるごとに、口コミや新聞の影響で、超満員になっていった。そして、引き続き、新宿6丁目商店街にあった 画廊マト・グロッソでも上映されていった。

信州から関西、京都、奈良、山陽、山陰、九州をひとりで歩きながら撮ったゆったりとしたスローモーションの映像、特に自分の歩く黒い影がカタカタとたなびく映像は刺激的だった。それに原くんのナレーションや自作の歌が流れる不思議な映画だった。“豊穣さに、くーゆりくゆられ旅に出た”“とーぎれ、とぎれにたーどおる、私の…”…ユニークな詩に、オルガンやギターの演奏がつけられた、この映画の一連のサウンド・トラックは、東芝からレコード化された。買い取りで30万円だったギャラに、印税にしておけばよかったと原くんは悔しがっていた。何と1万枚以上も売れたのだった。その後、原くんは、16mm版や短縮版を掲げて、各所で上映やライブを精力的に行なっていた。

夏、監督コース岩城の課題を撮るために、みんなで伊豆に出かけていった。 監督岩城信行、撮影篠田昇、主演ぼく、製作後藤。岩城の彼女の由美子の別荘が熱川にあり、ここを拠点とし、赤沢温泉の廃墟で撮影をした。主演の女は、岩城が新宿でナンパしたモデルを職業にしていた赤沢朱美。何か辛い過去をもっていそうな、影のある美人だった。ぼくはこの役作りのために、眉毛を剃った。ちょっと頭の足りない役のためだ。

ぼくたちは、よく湘南の海に日帰りで遊びに出かけた。別にサーファーでもなく、ただただ海に行くことが好きだった。ぼくたちは、この暇な往復の間、とても楽しい遊びを覚えた。  車には、撮影で使う小道具が乗せてあった。その中のメガホンで、窓から外に向け、「ご町内の皆様、(ちり紙交換です)」とか「い~し焼きいも~」とかを言い始めた。車は気持ちよく5、60キロで走っていた。あることに気付いた。その声が通行人に届く時には、ぼくたちの車ははるか先を走っていて、通行人たちは、声の出所が分からず、狼狽えていたのだ。これはおもしろい。ぼくたちは交代で、思いついた言葉を窓からメガホンで怒鳴り始めた。その中で、後藤が 「バッフゥーン!」という傑作をやった。ハンナ・バーベラのアニメ「原始家 族」のパパが放つ、岩を砕く時の声だ。道を歩いていたばあさんは腰を落とすは、子供は自転車からこけるは、おばさんは買い物カゴを飛ばすは、数十メートル先を走るぼくたちは、後ろを振り向きながら腹の底から笑った。こうして、この「バッフゥーン!」を第一、第二京浜あたり、湘南に向かう道すがらで、何百回と放っていった。湘南に向かう街道付近の神奈川の皆様、30年前の「バッフゥーン!」の正体は、ぼくたちでした。ごめんなさい。

帰りは帰りで、渋滞にはまった時は、カセット・デッキを使って遊んだ。車2台の時、1台の中のだれかが歌うか、何人かで合唱した。それにメッセージを付けて、車から降り、後ろの車に手渡しする。すると、15分20分で、後ろのだれかが、またカセット・デッキをもってくる。そこには、後ろの車の人間たちの歌と メッセージが録音されている。これを延々と繰り返すわけだ。1台の時は、女の子たちの車を探し、ナンパにも使った。

ぼくたちには、最高に気に入った海があった。それは湘南ではなく、伊豆下田の少し先にある多々戸海岸だった。撮影のロケ・ハンで偶然見つけた場所で、地元の人しかしらない、隠れた場所だった。国道からの入り口は、ひとつしかな く、それもとても狭く、看板もないので見逃してしまうこともよくあった。崖の上に大きな下田大和館が立っていたこの海岸は、昔米軍の保養施設があった所で、海はきれいなだけでなく、大きな特徴があった。海の真ん中から、右側は大きな波が立つのに、左側は全く波が立たないのだった。何故か。米軍がサーフィ ンをするために、右側の海の中に、テトラポットや何かを埋めて、作り替えてしまったのだ。なんちゅうやつらだ。ぼくたちが見つけた時は、真夏でも海水浴客はまばらで、とてもくつろげた場所だったが、年が経つにつれ、主婦の友社の保養所などができはじめ、人が多く来るようになった。それでもぼくたちは、夏になると何度も何度も、思い出すように遊びに行った。

夏に岩城が伊豆で撮った映画学科の課題が終了したその秋から冬にかけて、ぼくは同じ撮影録音コースのサブローと組んで、『ELLE/彼女』という16mm の短篇の課題を撮った。街で見かけたハーフのモデルの卵の生活、彼女の生き方を撮っていくうちに、平気で遅刻はするわ、具合が悪いと言っては撮影に来ないわ、彼女のわがままな性格に、こちら(ぼくとサブロー)も次第に対抗していく様を描いたもので、最後、彼女が堪え切れず逃げていくのをずっとカメラで追いかけたまま、400 フィートのフィルムが落ちた(終わった)ところでエンドになるものだった。

ぼくは、この課題で、エクレールというフランス製の16mmカメラを使った。ドキュメンタリーであり、予測のつかない場の臨場感を伝えるため、どうしても同時録音に固執したからだ。このエクレールというカメラは、当時ぼくが大好きだった監督クロード・ルルーシュ愛用のカメラだった。ルルーシュと言えば、『男と女』(66年)、『白い恋人たち』(68年)で、映像と音楽のシンフォニーが醸し出す独特のスタイルを作った監督だが、彼は自主制作の出身であり、カメラも自身で回していた。

72年のミュンヘン・オリンピックの時、ヨーロッパの映画監督たちが結集して、そのドキュメンタリー映画を作った。その中で、ルルーシュはバレーボールを担当した。ぼくは、特に好きではなかったバレーボール中継を隈なく見た。日本のチームの試合なんて、どうでもよかった。ルルーシュの撮影風景を見るために、だ。期待に答えて、ルルーシュの姿は至る所で見られた。彼は、試合中、エクレールを肩にしょい、助手たち4人とひとかたまりになり、コートのあちらこちらに移動して、撮影していた。

完成した『ELLE/彼女』の審査は、上映後、5人の教授や講師たちとの質疑応答で行なわれた。かなり高い評価をもらった。この後、『ELLE/彼女』は、学校に内緒で、グループポジポジの自主上映会で上映した。どこでだったか忘れたが、当時新進映画評論家だったおすぎとピーコ にも見てもらった。その上映会に来ていた広告代理店の人間に勧められ、銀座三愛で、ある企業のイベントに、1/2インチにビデオ化した『ELLE/彼女』を流したこともあった。

ぼくは、映画学科の講師や助教授宛てに、授業に対する意見というか、不平不満というか、手紙をよく書いた。今、思い返してみるととても恥ずかしい気持ちになるが、当時は、高校時代の学生運動の延長にあったせいか、反発を含めて、自分の考えを述べ、カリキュラム等に対して文句を言っていた。

特に映画学科撮影録音コースでの課題は、短いながらも8mmや16mmを撮ることであった。機材や現像、録音の設備は学校内に用意されていたので、問題はなかったのだが、フィルムやロケの費用は自費で賄わなければならなかった。ほとんどの人間は、親から金を出してもらっていた。このことに、ぼくは疑問をもっ た。ぼくみたいに金のない人間、フィルム代や宿泊代をアルバイトで捻出しなければならない人間、親から出してもらうことに引け目を感じていた人間、そういった人間たちが回りに沢山いた。だから、時には映像を提出するかわりに、文章でも済むようにできないか、などを手紙にしたためていたのだ。

大学3年になると、映画学科のみんなの気持ちは卒業制作に向いていた。卒業制作は、監督コース、映像コース、撮影録音コースの各コースの人間たちが組んで制作する、いわば自分たちの集大成であり、その意気込みも半端ではなかった。大学4年の時にほぼ1年をかけて制作するため、フィルム代、ロケの費用、交通費、食事代とか、その予算は優に100万円を超えた。中には、親がポンと500万 の札束を出すやつもいた。

まず、ぼくは学校側に掛け合った。なぜ映画学科の卒業制作だけが高額を必要とし、他の学科は、原稿用紙の論文で済むのか。金のない映画学科の生徒の卒業論文を認めろ、と。が、その時、ぼくの気持ちは何とか撮るつもりでいたし、正直撮りたかった。だから、次に別件で掛け合うことにした。この卒業制作の作品は、こんなにも金をかけたのに、その著作権からネガ、プリントまで全て学校の所有になるという規定についてだった。ぼくは、撮った作品を自分たちの自主上映に使いたいし、プリントも焼き増ししたいし、著作権を持たせてほしいこととネガの貸し出しを自由にしてほしいと申し出た。そして、難題になろうと予測された営利目的の自主上映にも、条件付きで同意してほしい旨を告げた。

こうした、一見傲慢にも見える行動を何故とったかというと、以前、こういうことがあったからだ。2年時の課題作品『ELLE/彼女』が映像専攻のあるモスク ワ大学とかイタリアの大学の教材に使われていたのだ。ぼくは、全くこの事を知 らされていなかった。先輩から聞きつけ、学校に問い質した。答えは簡単。学校のものだからという理由で、ぼくに何も知らせず、教材の提供をしたのだった。 ぼくは教材に使われること自体、評価を得たこととして、正直うれしかった。が、作り手の意志も何も反映されないその仕組みに腹が立った。おかしいと思った。学校側の卒業制作に対する回答は、考えてくれるとは言ったものの、前例を作りたくないのか、ほとんど無理であることがわかった。大金を卒業のためにだけに使いたくない。自分の映画のために使うべきだ。それが絶対だと思った。ぼくは、退学を決意した。

この頃、後藤和夫は、足立正生、相倉久人、佐々木守、平岡正明、松田政男 の編集“批評戦線”による雑誌“映画批評”(途中から赤塚不二夫の表紙に変わった。シナリオや硬派の論文、そして公開論争も展開された、かなり難解な映画批評月刊誌。「映画批評という雑誌を知っていますか」と聞かれたある女優が「あぁ、あの写真が1枚もない雑誌ね」と答えたという。本当に写真が1枚も使われなかった)の編集スタッフとして働いていた。編集人は松田政男で、事務所は本郷にあった。ぼくも時々アルバイトに行った。アルバイトといっても、編集とは何かをまるで知らない頃だったから、留守番や電話番、お使い程度のものであった。

松田さんや足立さんは、少しでも時間ができると、「堀越くん、コイコイやろ」と座布団をもってきて、机の上に引いた。ぼくのわずかばかりのアルバイト代は、こうして、彼らに掠めとられていった。ここで、写真家アラーキーこと荒木経惟の存在を知った。彼はこの映画批評の編集部に、自分の作品をよく送ってきた。それは、女性のあそこに十字架をはめこんだりした、それはもう超過激な写真ばかりであった。

ぼくたちが、大島渚監督『東京戦争戦後秘話』(70年)に出た頃、吉田喜重監督作品『煉獄エロイカ』(70年)に、少年のような少女の役で出演していた、和美ちゃんという女性と知り合いになった。彼女は、その後しばらく、この“映画批評”の編集をやっていて、辞める時の後釜に、彼女の妹、妙子が入ってきた。後藤はその妙子と間もなく結婚をした。

仲人は大島渚、小山明子夫妻。ぼくは空色のロぺのサマー・スーツ、昇はピンクのダブルのスーツ、岩城はコートのように見える濃紺のナイト・ガウンという 出で立ちだった。式は、乾杯の音頭でブーイングにもめげず40分もしゃべっていた松田政男さんから、佐々木守さんたちによる、よく理解出来ない楽しそうな話を聞かされた。

赤坂見附のホテルで1泊することになっていた後藤と妙子、そしてぼくたち3人は、新宿に出かけ、夜遅くまで楽しい酒を飲んだ。

この頃、新宿でよく酒を飲むことが多かったひとりに、『空、見たか?』で助監督をやっていた鴨田好史がいた。みんなから“鴨ちゃん”と呼ばれていた彼は、しばらくして日活に入った。そして、神代辰巳監督の右腕として活躍し、神代監督の“濡れた”シリーズ第一弾『恋人たちは濡れた』(73年)では、脚本を書き、その年の賞を数々とった。

この鴨ちゃんが、ロマンポルノのオーディションを受けろと進めてくれた。神代監督の『四畳半襖の裏張り・しのび肌』(74年)の置屋の少年の役だった。ある日、オーディションを受けに調布の日活スタジオに出かけていった。神代監督に会い、いろいろ映画の話をした。最後に監督は、長髪のぼくに「丸坊主になってもらうよ」と言った。ぼくは「はい」と答えた。その夜、新宿の飲み屋“ 鼎(かなえ)”で祝杯をあげようと、鴨ちゃんと待ち合わせした。この頃、鼎はロ マンポルノの女優さんたちの溜まり場になっていて、宮下順子、芹明香などをよ く見かけた。遅くなって、へべれけになった神代監督がここに現れ、ぼくがだれなのかも忘れて、お前は生意気だとか、因縁をつけてきた。頭もぺんぺん叩かれた。困った ぼくの顔を見て、鴨ちゃんは酒を飲みながら笑っていた。結局、ぼくは丸坊主にならなかった。あの後、ある劇団の若手俳優に役が決まったからだ。

数年後、ぼくは実家を出ることになるが、それを知らない鴨ちゃんが田中登監督『女教師・童貞狩り』(76年)の出演依頼の電話を実家に入れたことがあった。電話に出たのは6歳年下の弟だった。ぼくと声がそっくりのため、鴨ちゃんはぼくだと思い、弟は弟で出演の依頼に「うん、うん、いいよ」なんて答え、ちゃっかりと映画に出演してしまった。このことは、大分後になってから知った。

続く

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