都立竹早高校、都立新宿高校、名曲喫茶ウィーン、風月堂、ヒッピー、フーテン、草月フィルムアートフェスティバル、原正孝、学園紛争、東大安田講堂籠城、シネマ新宿、ATG、一千万円映画、グループポジポジ

私家版「記憶の残像」④~新宿騒乱

昭和43年、高校2年の後半から、竹早高校は校舎全面改築のため、都立新宿高校の校舎に間借りすることになった。
新宿高校の校舎は、明治通りと甲州街道の交差点近く、新宿御苑の新宿駅寄り方向隣り、内藤町に位置していた。古い木造2階立ての校舎は、風格があるとも言えぬオンボロ校舎だったが、理科室とか美術室にある備品関係は、いわゆるアンティークなものが多く、興味をそそられた。
周りに何もなかった文京区時代に比べると、多くは新宿駅南口から甲州街道沿いを歩いて登校していたが、別のルートである中央口を出て新宿中央通りを抜けて通う道すがらは、青少年たちへの誘惑そのものであった。
喫茶店、同伴喫茶、ラーメン屋、天丼屋、定食屋、パチンコ、スマートボール、居酒屋、キャバレー、バー、スナック、麻雀荘、撞球場、レコード店、本屋、洋服店……、種々雑多で魅力溢れる通りであった。普通に歩けば5分で抜けられるのに、30分も40分もかかって学校に着く有様だった。
やがて、トースト2枚とゆで玉子の喫茶店のモーニング・サービスに味をしめ、1、2時限目をさぼるようになるまで、時間はかからなかった。

喫茶店で、ぼくは8㎜(フィルム)で撮ろうとシナリオを書いていた。よく寄っていたのが、名曲喫茶『ウィーン』で、表も中も石レンガが露出する細長い建物は、地下1階から3階まであり、各フロアに3、4つのテーブル席と階段の折り返しの各中階に1テーブルがあった、とても狭いが落ち着く場所だった。
現在でいうと、中央通りの御苑に向って右側で、わが社の特定某社員が毎月1回打合わせ代と称して、お昼の特上ヒレカツ定食の領収書を出してくる、“とんかつ三太”のあたりにあった。ここは、のちに元ザ・タイガースの加橋かつみとミュージカル「ヘアー」の主演寺田稔が大麻所持で現行犯逮捕された場所でもある。
新宿中央通りには、現在のロッテリアと喫茶西武のビル、そして隣のパチンコ屋あたりの一画に世界的に有名な場所があった。喫茶『風月堂』である。ここは、世界の“ヒッピー”たちのガイドブックに紹介されていた、ヒッピーの溜まり場= 聖地だった。
この頃、日本では、とりわけ新宿で、ヒッピーに似た人種が生まれていた。“ フーテン”である。
ヒッピーは、反戦だの、ラブ&ピースだの、権力に対して自由な思想と言動を表現していた人種で、多くの芸術家や文化人等の支持があったのに対して、フーテンは高度経済成長の中、画一されていく若者世代の反抗の姿であり、何もしない自由をもつこと、つまり働かないで気ままにその日を暮すことが、世間から非難の対象になっていた。
彼らの行為で大きく違うのは、ヒッピーは大麻という麻薬なのかそうではないのかという法律、医学的観点からの論争を導き出したのに対して、フーテンはだれもが非を認めざるをえないシンナーを吸っていたことだ。彼らの聖地は、新宿東口駅前広場だった。

ぼくは、『ウィーン』でひとりの男と出会った。自分ひとりでは、どうにも映画が作れないことに焦りを感じていた時、竹早高校にも映画研究会が最近出来た事を知った。その代表に会いたいと伝言し、『ウィーン』で待ち合わせをした。
代表の名は、後藤和夫といった。同期生であった彼とは、高校1年の時、同じ赤羽出身の誼みで、帰りに美人姉妹がいる地元のあんみつ屋に連れて行った事があった。
彼は彼で、テニスクラブの練習中、ボール拾いで鉄棒に衝突し大怪我をしたドジなやつが、実はぼくであったことをこの時知り、大いに笑った。
ぼくは、自分の書いたシナリオを彼に見せた。彼はしばらくの間、それを読んでいたが、おもしろいね、と言った後、これから撮ろうとしている8mm映画があるのだけれど、一緒にやらないか、とぼくを誘った。
後藤たちには心強い仲間がいた。草月フィルムアート・フェスティバル68にて、「おかしさに彩られた悲しみのバラード」でグランプリを取った麻布高校の原将人(旧・正孝)だった。
一つ年上の彼は、よく新宿に来て、ぼくらと映画の話をした。場所は、『ウィーン』の3件隣の純喫茶『プリンス』(現在のシア ター・モリエールの場所)の2階に決まっていた。3階は同伴喫茶になっていたこの喫茶店は、とにかく広かった。大声で話すぼくたち、コーヒー一杯で6時間も7 時間も粘るぼくたちのことをやさしく放っておいてくれた。
彼はぼくたちに、「東京はもう砂漠だよ」と話し、その言葉のひとつひとつがぼくにとって難解であったこと、そして重みのあるヒントであったことを記憶している。

ぼくたちがこうして新しい映画を撮ろうとしていた頃、大学紛争が都市部を中心に勃発していた。大学へ進もうと思ってはいたものの、受験戦争とその教育、その環境について、いくらかの疑問を抱いていたぼくは、漠然とではあるが、“自分が自由でいるためには”という時代のテーマを体で感じとろうとしていた。
翌年に入ると、竹早高校の学園紛争が始まるのだが、その兆しは文京区時代にあった。 それは、2年の時に実施される修学旅行で、教師2名が下見に行ったことがきっかけだった。修学旅行の行き先は、京都とフェリーで小豆島に渡るものだった。 ところが、教師たちは、何と九州まで出掛けていたのだ。当時の3年生が見つけ出したのだが、どうやってこんな事を調べたのか。
その追及集会が講堂で開かれた。この中で、学校側が行っていないと一点ばりで、半ば水かけ論になっていた。その内だれかが、新幹線で行く予定を修学旅行専用列車に変更してほしい、と言い出した。みんなも、そうだそうだ、と騒ぎ出 した。教師の答弁は、「現在、その列車は走っていない」というものだった。即座に噛み付いたのは、どこの学校にもひとりはいる、鉄道マニアだった。「嘘を言うな。ちゃんと走っているぞ」と時刻表まで読みだし、証明をした。ここで、教師の嘘がはっきりと露呈されたものだから、生徒側は一気に攻め立てていった。 教師に対して「土下座しろ!」と言った奴もいた。こいつは、数年後、交通事故で死んだ。

ぼくは、この時点で、学校行事を運営している篁(たけむら)会という団体から脱会した。毎月、この会に授業料と一緒に500円の積立を払っていた。この500円が、例えば、同窓会の名簿作成の費用とかお知らせの郵送代、卒業アルバム製作の費用とかにあてがわれるもので、校舎とは別の、校門脇の小さな建物に事務局があり、文具関係の販売もしていた。ここに、卒業アルバムもいらない、同窓会にも出ないので知らせもいらない、だから、これまで積立てたお金を返してく れ、と嘆願に行った。教師との折衝もあったが、ぼくは、竹早高校に未練はない、の一点張りで押し通した。1万円足らずのお金が返ってきた。当時、アルバイトの時給が150~180円、ハイライトが80円だから、この1万円はでかかった。  

そして、ぼくたちが新宿に移る頃、大学紛争は一気に全国規模に拡大し、参加する学生たちの気運も高まり、増大していった。若者たちによる変革の熱は、ぼくたち高校生にも切実に伝わってくるようになった。

前回、竹早高校が新宿に移ったのは、昭和43年、ぼくが高校2年の時と書いたが、実は1年後の昭和44年、高校3年の時の出来事だった。
なぜ勘違いしたのか、思い出してみると、それには大きな理由があった。
新宿にいた時期が、高校2年から卒業するまでの1年半と思っていたのが、実は昭和44年秋から45年春までのわずか半年のことだったのだ。それほど多くのことを新宿で体験していた。

まだ、文京区の高校にいた昭和43年の10月には、俗にいう新宿騒乱があった。学生デモに民衆が加わり、新宿駅構内に乱入し、国電に火をつけ、線路づたいに投石をした。それをぼくは友だちの家で麻雀をやりながら、とても興奮してテレビを見ていた。
そして、翌昭和44年の1月、学生運動の象徴とも呼ぶべき出来事が起こった。東大全共闘を中心に、全国各派の学生たちが集結し、東大安田講堂に籠城した。機動隊との攻防の末、数日後、安田砦は落城した。食い入るように生中継を見ていたぼくは、胸が熱くなっていった。

学生運動は、いろいろな流行語を作った。「総括」「ナンセンス」「意義なー し」「ノンポリ」…。中でも、ぼくが気に入っていたのが、月日の言い方であった。10月21日を“じゅってん、にーいち”と呼ぶのである。ぼくは、何にでもこれを使って、言葉遊びをした。
そんな傍観の日々を経て、ぼくは新宿にやってきた。

新宿には、愛すべき映画館がたくさんあり、日々見まくっていた。
一番よく通ったのは、シネマ新宿。現在の伊勢丹向いの交番裏、明治通りに面したスエヒロの入ったビルで、1階が生地屋のちょうど地下1階にあった。ここでは、ゴダールやトリュフォー、パゾリーニやアントニオーニなど、ヨーロッパ系の映画を見ていた。
特にゴダールの映画は興味をひいた。躍動感に満ち溢れていた。ワクワクした。こんな映画を作りたいと思った。そのためには、理解しなければならなかった。が、字幕が4行も5行にもなることが多く、最後まで読めないので、やがて2回見るようになった。1回目は映像を見て、2回目は字幕を読むためだ。
ここで事件があった。それは場違いな(当時はそう思っていた)ビートルズの 「ヤァ!ヤァ!ヤァ!」が上映されたため、女の子たちによって占拠され、始まるや否や、彼女たちの凄まじい悲鳴とともに、スクリーンがバリバリと引き裂かれてしまったのだ。ぼくは、ここでしばらく見れなくなったことを恨んだ。女たちを恨み、ビートルズを恨んだ。

伊勢丹向いの新宿通りに面したマルイシティの2階あたりにあったのが、日活名画座。ここでは、オーソン・ウェルズの「審判」を1日中5回続けて見た。見終わった後、とてもすばらしい映画だったなあと思うのだが、どこかしらで、 眠ってしまうためだ。
ぼくはここで痴漢にあった。立ち見客はまばらな混み具合だった。ぼくは、左側の壁に寄り掛かった状態で、 映画を見ていた。そっと、お尻を撫でてくるやつがいた。ぼくはこの頃、髪を長 くしていたので、女と間違えられてたのかもしれない。
だんだんと積極的になってきた。ぼくは、さっと後ろを振り向き、館内に響き渡るほどの大声で、「ワッ!」と一声発した。痴漢はびっくりして、ヨロヨロと後ずさりしながら、倒れていって、頭をゴツンと座席の手摺りにぶつけた。

今も健在の昭和館にもよく行った。もちろん、任侠映画3本立てである。ここの一番前の席は手を伸ばせばスクリーンに届いた。真上を向いて見るようになるから、だれも好んで座らなかった。が、ぼくたちは、映画鑑賞の心構えとして、 “やっぱ映画を見終わった後は首が痛くならないようじゃないとなあ”とか妙な粋 がりをもっていた。だから、客がいなくても、いつも一番前に陣取って見ていた。(注・この後劇場は閉鎖となった)
ある日の昼間、がらがらの館内で、一番前の真ん中の、ぼくらの特等席にひとりのおやじが先取りしていた。“何だよ、あのおやじ、もっといい席あるのに”と 思いながら、ぼくは、彼の2つ隣りに座り、映画を見ることにした。しばらくすると、ガサガサと音が横からした。おやじを見ると、新聞紙にくるんでいたお弁当を食べ始めていた。
映画が終わり、館内が明るくなった。おやじの顔を見た。遠藤周作であった。
この後、何回もぼくらの特等席に座り、弁当を食べながらヤクザ映画を見ている彼の姿を見かけた。

ATG(日本アート・シアター・ギルド)の直営館であった新宿アート・シア ターとその裏の地下にあった蠍座の2館は、特に思い出深い場所だった。
新宿アート・シアターでは、初め、エイゼンシュテインの「アレキサンドル・ネフスキー」やアニエス・ヴァルダの「5時から7時までのクレオ」、アンジェイ・ ワイダの「夜の終りに」、トリュフォーの「ピアニストを撃て」、ブニュエルの 「ビリディアナ」など、海外の作品を上映していた。たしかオーソン・ウェルズの「市民ケーン」もここだった。
そのうち、独立プロと組んで作家性、芸術性の高い日本映画を作り始めた。“ 一千万円映画”と呼ばれる低予算映画だ。
大島渚の「新宿泥棒日記」、岡本喜八 の「肉弾」、羽仁進の「初恋・地獄篇」、寺山修司の「書を捨てよ町へ出よ う」…。傑作が次々と生まれていった。
蠍座は、アンダーグラウンド、通称“アングラ”映画を上映したり、前衛の芝居や即興演劇の実演などもやっていた。ここは床に真っ赤なじゅうたんが敷かれ、その上に折り畳みの椅子が並べられていて、靴を脱いで入った。だから、混んでいたり、疲れたりすると、最前列に行き、寝そべって見れた。
大和屋竺の「荒野 のダッチワイフ」、沖島勲の「ニュー・ジャック・アンド・ベティ」など、女の裸が ふんだんに出てくる若松プロの作品をよく見ていた。

新宿以外でも、以前から通っていたところがあった。青山の草月会館である。この中に草月アートセンターがあり、ここでしか見れない国内外の珍しい映画を“草月シネマテーク”と称して上映していたからだ。
主に実験映画が中心だったが、久里洋二の「殺人狂時代」などのアニメ作品も多かった。「アンダルシアの犬」やポランスキーの「太っちょと痩っぽ」、ジョン・レノンの「強姦」などをここで見た。
そして、67年から始まった“草月フィルム・アート・フェスティバル”では、68年に原くんがグランプリを受賞した。シンポジウムも盛んに行われ、大好きだっ たドナルド・リチーさんや松本俊夫等の話を聞きに行った。
この映画祭の運営のため、フィルムアート社が設立され、同時にここから『季刊フィルム』という雑誌が発刊された。粟津潔の装丁がいかにも先進的で素敵な雑誌だった。中身も批評や論文、シナリオが掲載され、映画の参考書のような感 じで、ぼくは読んでいた。
この雑誌で、中条省平という人が書いた投稿論文がよく載っていた。多分、同一人物と思うのだが、現在、日本経済新聞の映画評や週刊文春のコミックスのコラムを書いている人だ。びっくりしたのは、この時、彼は中学生であったことだ。世の中、すごい奴がいるものだ、と感心した。

この間、学校では、生徒会による全学ストに突入した。授業をボイコットし、 学校の在り方や望まれる授業とは、大学受験等について、全学年を通して毎日のように討論会が各クラス及び合同で自主的に開かれていた。

昭和44年、秋。 生徒会による全学ストは、無期限ストと呼ばれ、建て前として解決するまで続けるものだった。ストを推進した最上級生であるぼくたちは、何組かに分かれ、2年生と1年生のクラスに出向き、事情や状況の説明、討論に加わった。
この時の3年生は、つまりぼくは都立学校群制度の最初の生徒であった。
学校群制度とは、越境入学等による都立高校の格差をなくすために設けられた制度で、いくつかの近隣の区をひとつの学区にまとめ、さらに学力を考慮 したいくつかの高校でまとめた群に分け、その群の高校のどれかに割り振られる制度だ。
ぼくの場合、北区、豊島区、文京区、板橋区の第4学区で、この区に在住する生徒は、この学区の中から群を選ぶ仕組みになっていた。
例えば、第41群 が小石川高校と竹早高校、第42群が北園高校とどこかというように、第44群くらいまで、あったろうか。
中学生である受験生からすれば、これまで描いていた志望校へ行けないことになり、恨むものも多かった。
当時は、まだ東大幻想がはびこっていて、勉強のできる生徒は、目標として東大があった。彼らにとって大学は、東大かその他のふたつしかなかった。
であるから、ぼくも東大を目指すために、小石川高校に入りたかったのだ。この年竹早高校へ入学した生徒のほとんどは、小石川を望んでいた、というのが本当のところであろう。
それに反して、竹早高校の学校側もこれまでとは違う状況のため、異様にはりきってしまうことになった。教師たちの中には、特に男子に対して、優秀な人材が来たとばかりに、この中から20名は東大に入れてやると豪語するものもいた。
そして、東大や国立大学への進学率を向上させるだけの授業が始められていった。
当時の政治的、社会的状況もあったが、一例に過ぎない、こうした生徒と教師や学校側の思惑の違いが、次第に摩擦を生み、衝突となり、紛争とストという行為にまで発展していくことになった。
行動を起こしたのは、受験教育に疑問を持った生徒たちで、世間から見れば、受験戦争の脱落者と烙印を押された生徒たちであり、ぼくもそのひとりであった。
ある討論会で、ストを実行しているぼくたちに対して、「授業の邪魔をしないでくれ。おれは東大に行きたいんだ。勉強したいんだ。」と悲痛な声で訴える同級生の友人がいた。ぼくたちは、「そんなこと言ってるから、いつまで経っても変わらないんだよ。今、変えなくてはいけないんだということがわからないのか。」と反論したが、心の中で、ぼくたちは彼の気持ちが切ないほどよくわかっていた。それも正しいのだ、と。

討論会は各学年ごとや各クラスごとで盛んに開かれていたが、1日中やっているわけではないので、時間はたっぷりとあった。
その間、映画に行ったり、喫茶店で暇潰しをしたり、麻雀やビリヤードで遊んでいた。

ある日、行きつけの歌舞伎町“南風”で麻雀をしてた時、めしでも食おうということになった。店長を呼び、「ラーメン」「ラーメン」「ラーメン」と3人が注文したが、最後のひとりがなかなか決められずにいた。やっと注文したのが、「中華そば」。
店長は「ラーメン3つに、中華そば1つね」と戻っていった。みんなは麻雀に夢中になっているのか、ぼくだけが、おやっ、と感じていた。耳を澄まして聞いていると、電話での注文も同じであった。中華料理店は、このオー ダーを通したのである。
と、その電話をそばで聞いていた客が、「ラーメンと中華そばって、同じもんだろ」と店長に言った。店長は無言であった。
うーん、違うものなのか、どこが違うのか、ものすごく気になり始めた。海苔や鳴門のあるなしか、はたまた麺の違いなのか…。
ぼくは、ラーメン3つと中華そば1つが来るまで麻雀に集中できず、大きく負けてしまった。
ラーメン3つと中華そばがやってきた。みな同じであった。

明治公園や清水谷公園での全学連の集会やデモにも参加した。仲間で集会やデモに行く時は、役割分担があり、各自持ち回りでこなした。
デモの時は、荷物持ちという役割があり、参加者の荷物やカバンなどを5つも6 つも持って、車道を行進するデモの横を付き添うのである。デモが行われる道には、機動隊がずらーっと並び、監視している。その前を荷物持ちが通るのだが、暇を持て余しているのか、命じられているのか、機動隊は、長い警棒でちょっかいを出す。荷物持ちの足に引っ掛けるのだ。あちらこちらで、各校の荷物持ちたちが、転び、荷物を路上に散らし、拾ってまた歩いては、転ばされていた。
この陰険な行為に黙ってしか抵抗できない自分たちに腹がたった。
カンパ集めも大事な役割であった。あちらこちらで、アジ(アジテーション) 演説が響き渡る公園には、関心のある大人たちもたくさんいて、ベンチに腰掛けたり、遠目で見ていた。この中に、場違いな雰囲気をもつ人々何人かが散っていた。いわゆる7人の刑事風の人やいかにも変装したという人達である。彼らには 必ずカンパをお願いしに行く。なぜかといえば、彼らは見破られてはいけないので、100パーセント、カンパしてくれるからである。
ぼくは、いつもカンパ集金 NO.1だった。

2階立ての校舎は変形の“コ”の字形になっていて、1階の真ん中あたりに、中庭に向かって別棟の小さな掘っ建て小屋があり、これがいつしか映研の部室になっていた。
ぼくらは、いつもここにタムロしていた。映画の話だけでなく、トランプや花札などで賭け事をして遊んでいた。
ここには、映研の人間だけでなく、ぼくらの活動に関心がある下級生たちもよく遊びに来ていた。
その中に、いつもギターを弾いていた長い髪の男がいた。みんなから“タツロー”と呼ばれていた男の名は、山下達郎といった。
卒業してからも、まだ付き合いのあった頃、下火になった学生運動から文化活動に目を向けた竹早高校出身の面々による自費出版の雑誌に、タツローはロック論を展開していた。
そして、さらに数年後、シュガーベイブというグループを率いてデビューした。
当時は、知る由もなかったが、松井証券の松井道夫社長なども同じ校舎で学んでいた。  そして、すぐ隣りの新宿高校には、坂本龍一がいた。

全学ストに行き詰まりを感じた頃、バリケード・ストが決行された。バリ・ ストは学校封鎖とも呼ばれ、全国の大学を中心に、いくつかの高校でも始まっていた。
日曜の夜、警戒のため、これまで入ったことのない喫茶店に集合した。ぼくは、これからの生活の事を考え、ガスの通っている家庭科室の占拠を提案したが却下された。
みんな、長期戦を考えてないな、と思った。
まず用務員と親しいMが、用務員と将棋を指しながら、これから起こることの事情を説明し、同犯にならないよう、縄で縛った。
その間、2階に上がり、2つの階段を椅子や机で封鎖した。実行部隊は7、8人だったが、翌日、中には2、30人 もの同志と称する生徒たちが集まっていた。
この時、ぼくには学生運動の政治的、思想的な背景は全くなかった。
何かをしなければという時代的な気分の高揚と衝動、そして、どうもおかしいぞ的世界へ の意志表示であったと思う。
だから、ぼくにとって、バリ・ストは自由な空間であり、みんなにとってもそうあるべき所だと考えていた。
ところが、この中で、おいちょかぶをしていると、「こんな所でやるなよ」と注意され、女の子を連れてくると、「何、考えてるんだよ」と文句を言われた。
『おいおい、だれがそんなこと、決めたんだよ。ここでもルールかよ。そういうことをなくすための場所じゃないのか、ここは』とぼくは思った。
ある時、セクトに属していた同級生が、これから先のことを考えるために先輩 (大学生)を呼んでオルグしてもらおうと提案した。ぼくたち数人は大反対をした。他人にオルグしてもらったって、何の意味もないだろう。大切なのは、何をするのか、ここにいる自分たちで決めていくことだろうと考えていたからだ。
こうして、次第に熱はさめ、心は別なところに向いていった。

だれからともなく、映画撮ろうぜ、の声がかかった。よし、明日から撮影しよう、といった具合いで、きちっとした計画を持たぬまま、勢いでスタートした。
後藤和夫の書いたシノプシスに、ぼくらはアイデアを出し合い、肉付けをしていった。
タイトルは「天地衰弱説」。スタッフは後藤を筆頭に、福岡杉夫、橋本和夫、福田健一、磯貝浩、そしてぼくの6名だった。
この機に、竹早映研の名を捨て、映画制作集団“グループポジポジ”を名のることにした。
撮影は、主に隣りの新宿御苑で行われた。新宿御苑と高校との間にある金網が破れていて、自由に行き来ができた。以前から、生徒の何人かはこの穴を使っ て、新宿御苑で昼寝をしたり、デートをしていた。ぼくは毎日行っていた。
新宿御苑は、ロケ地としては最高の場所だった。平らで広い庭と巨大な木々、森の中の小道、フランス風のマロニエの並木、大きな池を囲む凹凸の激しい日本庭園…。様々な映画向きのロケーションがあった。
そして、時間にルーズなみんなだったから、集合に遅刻しても、探せばすぐに撮影に加われる利点もあった。
一応、監督は後藤、各自撮影、出演としていたが、その日の状況によって、役割はばらばらだった。実際、撮影が始まると、どんどんと内容も変わっていった。
8㎜には、カメラとフィルムによる制約が非常に多かった。
フィルムや現像代が高い。カメラはねじ式のため、1カット最大10数秒しか撮れない。フィルムは1 本3分弱しか撮れない。音やセリフは後からオープン・リールで入れる。しかも 映像と音の機械のスピードが違うため、ぴったりと合う保証がなく、合っても少しずつズレていく…。
しかし、ぼくたちは、それが当たり前だと思っていたから、それほど気にすることもなく、逆に稚拙なカメラ・ワークで、あれも撮ろう、これも撮ろうといった具合に、おもしろいようにフィルムを回していった。
こうして、映画を撮る、わくわくする日々が続いていった。

続く

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