ゴールデンゲイト、新宿歌舞伎町、三上寛、モダンアート、ストリップ、ジョウジ川上、青山ユアーズ、石倉三郎、佐藤慶、奥成達、太田篤哉

私家版「記憶の残像」⑦~「ハードボイルド・ハネムーン」

この頃、ぼくらが毎日のように通っていた飲み屋が、新宿歌舞伎町裏手にあった。ゴールデン街のようなこじんまりとしたたたずまいと違い、地下1階に降りると、50畳くらいのだだっ広いスペースに、黒の内装や赤い絨毯、豪勢なシャンデリア、テーブルとクッションのきいたソファーなど、前のキャバレーそのままの状態になっていた。その店の名は、“ゴールデンゲイト”(歌舞伎町二丁目のキャバレーやクラブが入ったビルが乱立する中、映画演劇音楽芸術関係の文化人や若者たちが出入りしていた伝説の店。夜7時くらいから始ま り、朝の10時くらいまで飲んでいたこともあった。おみっちゃんは、そんな馬鹿でわがままな若者の行為を黙って許してくれた)といい、今では伝説のお店となった。

いつもジーパンをはいていたママの名は“おみっちゃん”、年齢不祥の気さくな女性で、新宿3大ママのひとりと言われていた。店内では、和製のロックやポップス、フォークが流れ、ぼくらはホワイト(ウイ スキー)を1本入れては、何時間もここで盛り上がっていた。あまりにも大きなお店なので、出入りは自由で、ラーメンを食べに出ては、また戻って酒を飲んでいた。ここで朝の5時6時まで飲んでは学校に出向いたり、家に帰るのが日常だった。新宿の駅に向かう途中、通勤する大勢のサラリーマンたちとすれちがった。退学してからも、毎日のように入り浸っていたぼくは、彼らのその姿を眺めながら、将来サラリーマンにはなれないな、とふと思った。

ここでいろいろな人達に出会い、遊んだ。奥にあるカウンターの中で店の人が酒やつまみを作っていたが、その前に踊り場があり、ここでみんなは興に乗るとゴーゴーを踊った。  ある時、大勢の人が踊り始めた。ぼくは知り合いの女の子に、泥酔状態の三上寛(藤圭子(宇多田ひかるの母)の大ヒット曲「夢は夜ひらく」を自らアレンジした曲は、精液をカルピスに例えたセンセーショナルなもので、これで有名になったフォーク歌手。フォークといえば、さわやかなイメージがあるが、彼の歌はこぶ しをきかせた演歌に近く、その怨念のこもった三上ワールドはかなり恐く、切な く、救いがなかった)と一緒に踊って一枚一枚服を脱がせ、と頼んだ。おみっちゃんには、彼がパンツを脱いだら、チークの曲をかけてくれ、と頼んだ。女は、上着、ズボンと次々に脱がせていった。最後に白いブリーフを脱がせた。これまでの激しい曲から、静かな静かな曲に変わった。踊っていたみんなは席に戻っていく。踊り場には、頭に白いブリーフを被ったすっぽんぽんの三上寛ただひとりが残されていた。三上寛はここの常連で、たまにギターの弾き語りを聞かせてくれた。彼は、物真似も巧く、寺山修司は特に有名だったが、最高の物真似を披露してくれたことがあった。それは、だれも見たこともない、聞いたこともない人物の物真似であった。出身である青森の高校の近くにいた駐在さん(交番にいる警察官)の、海岸に打ち上げられた水死体の調査報告という演題だった。とつとつと津軽弁で報告するその姿は、だれの目にも浮かぶほど絶品であった。

隣の席で、男と女が喧嘩していた。男はもう帰ろうと言うのだが、女はまだ帰りたくないらしい。ぼくらのひとりが、「帰りたいなら、さっさと帰れよ」と男に言った。喧嘩寸前にまでなったが、男はひとりで去っていった。残された女は、春子といい、仙台から家出をしてきた。ぼくらは春子とその後もよく新宿で飲み歩いた。
そのひとつにゴールデン街の“C”というお店があり、姐さん女房のママとマスターのふたりでやっていた。しばらくすると、春子とそのマスターが駆け落ちした。何年か後、マスターは帰ってきたが、ママとよりを戻すことはなかったと、だれかに聞いた。そして、いつしか“C”はなくなった。

さらに数年後、大阪からひとりの男が、ぼくたちグループ・ポジポジに会いたい、と上京してきた。大阪芸術大学を卒業したばかりの、その男は「巨人の星」 の左門を角刈りにしたような巨漢であった。男はぼくたちの映画を見て、是非一 緒にやりたい、そのために当てのない東京にやって来たのだ、と語った。
しかし、この時、ぼくたちには、映画を撮る余裕も企画もなかった。とりあえず、時期を待ってくれ、と男に頼んだ。
彼は、すぐさま新宿のストリップ劇場“モダンアート”( 新宿二丁目、現在の牛丼の神戸らんぷ亭の地下にあったストリップ劇場。ジョー ジ川上は、ここで土曜の夜に自主映画上映や前衛演劇などを催し、その企画等において、有名になる前身を築いていた)に住み込みで、切符切り兼呼び込み兼照明係兼アナウンス係、つまり何でも屋で働いた。彼は、のちに“ジョージ川上”と名乗り、仕掛け人として、“ストリップ界のつかこうへい” の異名をとり、マスコミを騒がすまでになるのだが、この時、ぼくと後藤は、劇場入口に彼を呼び出しては、ただで中に入っていた。

いつものように、ただでストリップを見ていたぼくは、自分の目を疑った。踊り子として登場してきた春子の姿に愕然とした。こんなところで再会するとは…、心は狼狽えて、目を会わすこともできず、下を向き、眠ったふりをしながら、昔のことを思い出していた。

“おみっちゃん”はある時、店を人にまかせ、貯金80万円をもって、単身スペインに行った。向こうでは何もせず、のんびりと暮らし、1年後、貯金を余らせて、日本に戻ってきた。暖かいところはいい、住むなら物価の安いところに限る、など目を輝かせて話す“おみっちゃん”はとても若く見えた。
そして、それから数年後、今度は店を閉め、また単身ブラジルでの永住を決意して、去っていった。
日本を去って2年後、彼女の記事が週刊ポストに載った。旧友である黒木和雄監督や原田芳雄たちが、彼女の経営するサンパウロ郊外の飲み屋で再会するものだった。彼女の元気な姿が載っていた。その後、若い旦那さんをもらい、大きな牧場を経営していると、人の話に聞いた。

この頃のことを思い出すと、必ず一緒についてくる映画があった。
いつものように、新宿で飲んだくれて朝帰ったぼくは、午後2時頃、目を覚まし、テレビを付けた。不思議なことに、土曜のこんな時間に映画が始まろうとしていた。題名は『バング・ザ・ドラム』(73年、アメリカ映画。監督ジョン・ハンコック。チーム監督役のビンセント・ガーディニアは、オスカー助演男優賞にノミネートされた)といった。
何の気なしに見ていたら、何ととっても若いロバート・デ・ニーロが出てきた。メジャー・リーグのピッチャーとキャッチャーとの友情物語で、白血病に冒されたキャッチャーをデ・ニーロが演じていた、淡々とした胸に染みる素晴らしい映画であった。内容は大分忘れてしまったが、見終わった後、涙が止まらなかったことだけはよく覚えている。昭和48年のTBSで放映されて以来、2度と見れないでいる作品である。

大学3年の頃、ぼくは、原宿・青山通りに面した高級スーパーマーケット“青山ユアーズ”(深夜営業は24時間ではなく、午前3時終了であったが、この頃多くの人が来店するため、実際の店終いは4,5時にまでなっていた)で夜、アルバイトをした。

“青山ユアーズ”は、24時間コンビニの元祖であり、当時日本でただ一軒の深夜営業のスーパーとして、東京ではかなり知れ渡っていた。以前、高校2年の時、 銀座のクラブが終わった後、高橋秀太の車で、店の女の子たちと一緒に買い出しに行ったことがあった。東京の人々は、夜中に、何かパーティのようなことをする時は、車に乗って、ここまで買い出しに出かけていた。
“青山ユアーズ”は、チャイニーズ・シアターを真似て通りに面した壁や通路に、芸能人たちの手形が貼られていて、道行く人たちは、自分の手を合わせたりしていた。1階が食料品と雑貨、2階が洋服の売り場になっていて、その品揃えは豊富だったが、価格が高めだった。 しかし、ここでしか買えない珍しい輸入品や果物が沢山あった。1階入り口には、コーヒーやハンバーガー、ホットドッグ、アイスクリーム、ケーキを売る5つくらいのスタンド付きのカウンターになっていた。アメリカ人たちはこうした形式に慣れていたようで、ママの買い物を待つガキたちがアイスクリームを舐めながらよくたむろしていた。
白のワイシャツとネクタイ、ズボンは自由で、足首まである黒の長いエプロンが支給され、それを着用したが、当時としては、かなりファッショナブルな制服であった。
最初の仕事は、食品の運搬と店頭商品の整理整頓だった。

ぼくはここで、いろいろ珍しい物を見たり、知ることになるが、その最高の品物は、高さ20センチ、直径15センチくらいの大きな缶詰であった。オーストラリ アから輸入したダチョウの卵の缶詰であった。パッケージには、大きな卵と小さなダチョウの絵が書かれてあったので、何かはすぐわかるのだが、だれがどのようにして食べるのか、しかも値段が1缶6千円もしたのだ。ぼくが働いた1年の間で、2個あった内の1個が売れていった。ぼくは、従業員みんなに、この缶詰を買った人は、どんな人だったのかを知らせてくれるよう頼んでいたが、それは不明に終わった。
ある時、中尊寺の住職で、作家の“エロ坊主”今東光が、若い女性2名に支えられながら、ぼくに、「シリなんとか」という食べ物を探してくれ、と言ってきた。どんな食べ物なのかを詳しく聞くが、心当たりがなかった。チーフに聞く と、これじゃないか、と持ってきたのは、輸入物のコーンフレークスであった。 「そうそう、これこれ」と言って喜んで買っていったが、当時、日本では、まだ コーンフレークスは普及していなく、ましてや「シリアル」と呼ばれるまでには、さらに時間がかかった。ユアーズはこんなものも置いてあった。
ユアーズの店内は、いつもパンパンパンパンというはじける音でうるさかった。これは、レジの後ろで袋詰めする店員のパフォーマンスが発する音であった。当時はまだ茶色の紙袋で、緑のユアーズのロゴが印刷されていて、この紙袋の片端を持ち、上に向けて勢いよく、ふりあげ、一気に下に引くと、パーンという威勢のよい音が出るのだ。袋詰めの店員は、皆が皆、これを行なっていたのだ。
万引きも多かった。きれいなモデルが化粧品を万引きしているのを見た時、ぼくの胸はドキドキしていた。ユアーズは、2階にモニター監視室があり、その防止対策を行なっていたが、ぼくら商品整理の担当は、万引き防止対策の一環として、ちょっと変わったやり方を指導された。ある程度、コーナーの整理が済むと、今度はおおまかに全体を見回り、おおまかな整頓をちょこちょこやり、再び次のコーナーの細かい整理をしていくものだった。つまり、しょっちゅう店員が、店内を見回っているように、見せるのだ。これは、万引きを捕まえるのではなく、万引きをさせないということだった。
夜中を過ぎると、いつも警察がやってきた。10台くらいの小さな駐車場に入れない車が、青山通りに何層にも連なり、渋滞が起こってしまうからだ。暴走族“ ブラックエンペラー”が来店すると、もう大変。警察と小競り合いがいつも起こっていた。

ここで、ぼくは、ひとりの男と知り合った。ぼくらの仕事のチーフをしていたこの男は、東映の大部屋俳優で、仕事がない時にユアーズで働いていたが、ほとんど毎日ユアーズにいた。高倉健さんの話をよくしてくれた。みんなから“サブちゃん”と呼ばれていたこの男の名は、石倉三郎といった。
ユアーズは、深夜の芸能人の逢い引きの場所でもあった。よく買い物デートをしていたのは、のちに結婚したショーケン(萩原健一)とモデルの小泉一三。堺正章や井上順とモデルたち。坂本九と柏木由紀子……。
石倉さんは、坂本九と柏木由紀子が来店すると必ず後ろについて、買い物の手伝いをしたり、おもしろい話を聞かせて、二人を楽しませていた。こんなことがあり、石倉さんは、のちに坂本九のステージの専属司会者として、引き抜かれて いった。
次に彼を見たのは、テレビのお笑い番組で、“コント・レオナルド”として、レオナルド熊の相方をやっていた。

松田政男からの雑誌「映画批評」の継続を断念した後藤和夫は、聖徳太子マークの天草運送で運転手として、引っ越し稼業に専念していた。その間、考えていた次回作のプランをぼくに話した。かなり観念的なことを聞かされたが、これまでとは違い、ストーリー性を持った、しかも大掛かりになりそうな気配であった。昇や岩城とも相談をし、製作プランを練った。シナリオを作っていく中で、 カンパ回りをしよう、ポスターやパンフレットを作ろう、広告費をとろう、有名人を使おう、カラーで撮ろうなど、これまでにはない新しい試みのアイデアが生まれた。  一丁の拳銃を手にしたことから、ハードボイルドの世界に魅せられる若きギャ ングたちの物語。
その映画の題名は『ハードボイルド・ハネムーン』といった。

昭和49年、ぼく たちは新しい映画『ハードボイルドハネムーン』の準備にとりかかった。この映画は、これまでやったことのない新しいアイディアが盛り沢山であった。
まず、16mm映画ながら、全編カラー作品にしようと張り切っていた。それも洋画っぽい原色がきれいに表現できるイーストマンコダックのフィルムにすることにした。おそらく自主制作映画では初の試みだった。
分担してシノプシスを持ち、カンパに出かけた。映画監督、映画関係者、映画配給会社、その他映画関連の協会や団体、映画人…ありとあらゆる人々に会いに出かけて行った。もちろん、時間もなかったので、アポなし、飛び入りで、だ。
ある日、ぼくと後藤は、表参道に面した場所に事務所を構えていた高倉健事務所を訪ねた。健さんは不在だったが、東映の脇役たちが大勢いた。みんな黒服であった。応対してくれたのは、ぼくの大好きな俳優、山本麟一だった。人気TVドラマ「前略おふくろ様」で、バスの運転手として1回登場し、ショーケンが運転中の山本の耳元で囁くシーンがあった。山本は、あの恐い顔で、「やめてよ。(耳は)感じるんだから」。最高に可笑しかった。彼のことを書いた本(倉本聡の本だったか、題名は忘れた)の中で、山本が語る目ヤニと性欲についてのエピソードもおもしろかった。そんな大好きな山本であったが、たかが若造に対しての応対は素っ気なかった。 多くの人々を訪ねたが、カンパは惨敗であった。協力してくれるだろうと思われていた人々もカンパする余裕がどうもなかったようだ。
そして、これでカンパは終了しようと、ダメ元で最後に行ったシナリオ作家協会では、新藤兼人監督が話を聞いてくれた。そして「頑張りなさい」と財布から 1万円をカンパしてくれた。うれしかった。
スタッフは、監督・脚本後藤和夫、製作岩城信行、撮影篠田昇・堀越一哉、録音サブロー、記録後藤妙子、美術・スチールには、岩城の友人橋戸が加わった。 出演は、後藤を中心にした若きギャングたちをぼくたちが。“ヘッケル&ジャッケル”のような老練ギャング役には、まず髭もじゃの詩人奥成達(是非ネット検索してください)が引き受けてくれた。次にその相棒に、当時フジオ・プロ(赤塚不二夫)の番頭役だった長谷邦夫が決定。この奥成さんの人脈は、いろいろな意味でぼくたちを助けてく れた。
音楽は、ハードボイルドな気分のオリジナルのジャズでいこうということになった。奥成さんの紹介で、当時新宿戸山ハイツに住んでいた中村誠一(サックス演奏の第一人者。山下洋輔トリオを経て、中村誠一カルテッ トを結成。いつも甲高い声で「いいとも~」と言っていたのが口癖で、後にタモ リが「笑っていいとも」の番組名に使用したことは有名)に後藤が交渉に行った。「いいとも~」と言ったかどうかはわからないが、快く引き受けてくれた。
さらに、奥成さんは、銀座にあったデザイン事務所TBデザインを紹介してくれ、そこでは、余っている紙があるからといって、タダでパンフレットのデザインから印刷までやってもらえることになった。
ポスターを作ろうということになった。ぼくは「まんがNO.1」で知っていた、「ぴあ」の表紙を描いている及川正通に頼みに行った。小田急線の中央林間に住んでいた及川さんを訪ねた。当時及川さんの家は広い木造平屋の米軍ハウスであった。玄関先の新聞入れからして、大きな銀色の半円筒型の、完全なアメリ カン・スタイルだった。
予算がないので、ギャラはなし。紙はB全の黄緑色の上質紙に、オレンジ特色1色刷りにし、蛍光感を出す話に、及川さんは快くOKをくれた。そして、タダの代わりの条件として「自分でも刷ってみたいので、原版をくれないか」と聞いてきた。ぼくは、そんなことぐらいはもちろん、と答えた。映画の話から、及川さんの大好きなカリフォルニア・サウンドの話で何時間も過ぎていった。
ぼくは、この時、及川さんが自ら「オー・マン・ゴー」というバンドを率いて、演奏活動していることを始めて聞かされた。レコードにもなっており、東京に戻ると即購入した。「大分遅くなったから、夕飯でも食べていきなさい」と奥さんの作ったカレーライスが出てきた。「質素だな」と内心思いながら食べたカレーは、子供用になのか辛くなく、かといって甘みが強いわけでもなく、絶妙な味わいがあった。とてつもなくうまかった。ひき肉中心の野菜カレーとでもいうこのカレーは、以降30年も経った現在も、ぼくの定番料理のひとつになっている。
映画が完成間近になってからのことではあるが、及川さんのポスターの試し刷りができた。この時、下の部分に、公開日時と場所を入れよう、ということになった。その両脇に広告スペースをとり、広告を入れようと岩城が提案した。どこでもいいよね、ということで、岩城が青山通りに面した靴屋と美容院から、各5万円をとってきた。
そして、重要な位置を占めるナレーションは、『東京戦争戦後秘話』で顔見知りになった佐藤慶に依頼した。録音スタジオを借りる金がないため、西荻窪の後藤の自宅で、回りの音を拾わないよう、夜中の1時から朝5時頃までに録音をする条件にも関わらず、家が近かったせいもあるが、これも快く引き受けてくれた。
そして、撮影は8月から、西荻窪、横田基地周辺、府中、国立、中野、東大、世田谷赤堤、三郷、熱川、千葉……と約2ヵ月に及んだ。

『ハードボイルド・ハネムー ン』の撮影は、西荻窪の後藤夫婦のマンションから始まった。殺されたイサオの恋人だった妙子と主人公後藤との住み家という設定だった。
当時の西荻窪は、南口駅前には菅原文太の奥さんが経営する喫茶店、ガード下には高級フレンチのこけし屋、路地裏には安くてうまいキッチンなどが立ち並ぶ 商店街と、そこを少しはずれると閑静な住宅街とくっきりと区分けされていた。
その境目あたりには、3本立てのさびれたピンク映画館があった。

ぼくらの演じる若きギャングたちの乗る車は、後藤のボロナと昇のスバル360で十分だったが、奥成達さんと長谷邦夫さん扮する老練ギャングたちの車は、そうはいかなかった。ぼくと同じく高級スーパーマーケット“青山ユアーズ”でバイ トしていた岩城が、何かと面倒を見てくれたチーフ・マネージャーの佐藤さんに相談をした。奥さんの所有していた真っ赤なアルファ・ロメオ1750の新車を無償で貸してくれることになった。だが、このアルファ・ロメオは車高が極端に低いため、舗装されていない道では、腹を思いっきり擦ってしまい、かなり心臓によ くなかった。
若きギャングたちの拠点は中野の昇のアパート、イサオの住み家は入間の米軍ハウス、銃弾一発で勝負を決めた世田谷の土手、逃亡先の熱川の別荘、幻想のラストシーンは渋谷のNHKと、撮影はおよそ2ヵ月に渡った。

中村誠一のサウンドトラック収録は、大学の録音スタジオを使用した。当日、10数名のメンバーを連れてきた中村さんは、ぼくたちスタッフにリハ(ーサル)はないから、すぐに録音してくれ、と指示を出した。音合わせが済むと即テーマ 曲が演奏された。ドラムから始まり、軽快で美しいメロディーが流れた。ぼくたちは大満足であった。

後藤のマンションにて、夜中、佐藤慶さんのナレーション録りを行なった。外の音を拾わないように目張りした部屋に慶さんを入れ、お互い顔の見えない状態での録音が開始された。始めのナレーションは、劇途中に使用する「ハードボイ ルド・ハネムーン」という一言から開始することになった。緊張していたぼくたちをときほぐすかのように、慶さんの第一声は「ハードボイルドだど」という内藤陳のギャグだった。
こうして、好意的な人々の協力を得て、約100万円足らずの資金でオールカ ラー90分の作品が出来上がっていった。

この頃、グループポジポジの面々は、吉祥寺は五日市街道近くにあった“なまず屋”によく通っていた。“なまず屋”は∟字のカウンターだけの小さなブルースの店で、プロやセミプロの演奏者がよく来ていた。高田渡もよく見かけた。
ある時、西荻窪の後藤の家に友人が○ッ○をもってきた。みんなでハイになった状態で、なまず屋へ行こうということになり、ボロナに6人が乗り込んだ。普通、なまず屋まで7,8分で着くところが、この時は何と1時間もかかっていた。なまず屋の前で、何でだろう、とまた皆の大笑いが始まった。多分、時速5キロかそこらで五日市街道を走ってきたのだ。
当時の吉祥寺は、ライブハウスのメッカであった。ウエストロード、ハーヴ妹尾、レイジー・キムなんか、よく聞きに行った。

相変わらず、新宿でも飲んでいた。花園神社のすぐ横に居酒屋“もっさん”という店があった。ゴールデン街にあった同じ名前の店の2号店で、カウンターの中にいた篤ちゃんという若者が仕切っていた。その篤ちゃんが「堀越さん、今度自分で店、出そうと思っているんですよ」と話しかけてきた。「すごいじゃない」 とぼく。が、困ったことが起きているという。"もっさん"で働く若者たちが篤ちゃんの店で働きたいと言っているのだ。それを経営者と相談しなければならな いのだという。“もっさん”の経営者は、ゴールデン街の先達的存在であることは知っていたから、どうなるのか少し心配ではあった。
が、しばらくして、篤ちゃんは少し離れた新宿三丁目に、“池林房”という店を出した。今では、“浪漫房”“陶玄房”“犀門”などのオーナー太田篤哉として、新宿の有名人となっている。
撮影中に、奥成さんや長谷さんに連れていってもらったのが、歌舞伎町コマ劇場裏の路地にあったスナック“ジャックと豆の木”だった。ここは、奥成さん、長谷さんの他、山下洋輔、高信太郎、岡崎英生、上村一夫、三上寛、坂田明らが集う、通称“遊び人”たちの溜まり場だった。
A子さんというママがいて、毎夜おもしろい遊びに興じていた。
この頃だったと思ったが、博多からとんでもなく、おもしろい男がやってきて、みんなを笑わしていた。デビュー前のタモリがよくここに来ていたのだ。
この2軒並びにカウンターだけのラーメン屋があった。客がいなくなると中の3人の店員もいなくなるという不思議なラーメン屋だった。常連客はその理由を 知っているから、店員がいなくても、大声で「ラーメンひとつね」と中に向かって声をかける。「はい」と返事がし、店員がすくっと立ち上がり、仕事にとりかかる。
客がいなくなると、店員みんな、しゃがんで、シンナーをやっていた、とんでもないラーメン屋だったのだ。

昭和49年、完成した映画『ハードボイルド・ハネムーン』は、新宿の安田生命ホールを皮切りに、都内各地や大阪で自主上映をした。ぼくたちグループ・ポ ジポジの面々は、特にぼくと後藤は、これを機に自主制作と自主上映で生計を立てて行こうと甘い野心で燃えていた。
映画『ハードボイルド・ハネムーン』のラスト・シーン。若きギャングたちの勇ましい姿がコンクリートの壁にくっきりと影で映るストップモーションの映像に、佐藤慶のナレーションがかぶさる。
《だが、こうした卑しい街を一人の男が歩いていかねばならない。物語はこの男が隠された真実を探索する冒険譚だが、それは冒険にふさわしい男の身に起こるのでなければ、冒険とは言えないであろう。 彼のような男が大勢いれば、この世はきわめて安全で、しかも生きがいがなくなるほど退屈でもないといった、そんな世界になることであろう》

まさに、この映画のメッセージを地で行こうと考えていた。

この頃、自主制作映画といえば、地域に密着した地味なドキュメンタリーか、非常に難解な思想や観念的な私的映画であった。
ところが、ぼくたちの映画だけでなく、東京では、「カレンダー・レクイエム  黄色い銃声」(伴睦人監督)、「バイバイ・ラブ」(藤沢勇夫監督)、“あのねのね”の「冒険者たち」(臼井高瀬監督)、「御巫(みかむなぎ)の頭のスー プ」(小林竜雄監督)などが、大阪では「暗くなるまで待てない!」(大森一樹監督)が、この頃ほぼ同時期に出現した。これらはプロの俳優やオリジナル音楽を使用したり、長編カラー作品であったり、ギャングやおかまの美女が登場したり、ストーリーのわかりやすい、よりエンターテイメント性を持った映画という ことで、“新人たちによる新しい映画の流れ”として多くのマスコミに取り上げられた。
とりわけ、エンターテイメント性の高かった藤沢勇夫監督の『バイバイ・ラブ』と『ハードボイルド・ハネムーン』は、対で各新聞や雑誌で紹介されることが多かった。

自主制作・上映で食っていこうとしたぼくは、両親の了解を取って家を出た。 事務所兼住み家として借りたのは、六本木ロア・ビル向かいにある墓場の坂下角に位置した、2階建ての蔦が絡まる木造の白い建物だった。1階2階それぞれ2世帯ずつ、そこの1階の左側の部屋を借りた。
もともとここは、奥成達さんや西脇英夫、及川正通、横尾忠則らが共同事務所にしていた所で、最後に残った奥成さんが引き払うので、ぼくに借りないか、と切り出した話に乗ったのであった。引き続き借りるので、敷金や礼金はいらなかった。6畳と4畳半で風呂付き、月4万円くらいだったので、即借りることにした。住んでみるとこれがとんでもない所であった。
住み始めてすぐトラブルが発生した。
奥成さんが、ぼくの他にも又貸し交渉をしていたのだ。ここを借りる約束を奥成さんと交わしたという男が現れた。ぼくは、奥成さんに電話をしたが、「そう いうことだから、堀越くん、よく話合ってね」とつれない返事。ぼくはこのアクセサリーを商う会社の社長と話し合うことになった。ぼくは夜のプライベートな時間を気にしたが、彼らは住むつもりはなく工場兼事務所として使うのでということで、4畳半を貸すことにした。家賃は折半にしてもらった。
入り口(玄関)は、ぼくが住む6畳にあった。暇だったぼくは、10時11時まで寝ていたが、彼らは朝の9時に来て仕事を開始した。夜は夜で、彼らのひとり、松田という若者が、酔っ払っては夜中の2時3時に4畳半に泊りにくる。話が違う じゃねえか、とぼくは社長に掛け合った。松田はしばらくは来なくなったが、また酔っ払いながら「ごめんね」と来るようになっていった。
こうした悪条件に加えて、住み心地も最悪であった。寝ていると、屋根裏や台所の下から、ゴトゴトと音がする。ねずみである。しかも大量である。そして、昼間は風を通しているせいか、気付かなかったが、異常なる湿気なのだ。夜、その湿気のせいで寝つけないこともしばしばだった。 家賃を納めにいく近所の不動産屋に聞いて、その理由がわかった。この家の真下に大きな下水道が流れていたのだった。そう言えば、臭くもあるなぁ、と今更な がら思い出した。
夜、テレビを見ているとドアをドンドンと叩く音がする。開けると、若い白人の女が立っている。「なーに?」と聞くと、「トイレ、貸してください」と平然と言った。この時、貸してやったのが大間違いだった。それから、毎晩のように、いろいろな白人たちがドアもたたかず、ぼくの家のトイレを借りにくるようになってしまった。

続く

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