「アニマル・ハウス」、ビデオ、ハワイ、バリ島、マジックマッシュルーム、海亀

私家版「記憶の残像」⑩~フリーランス

ぼくが手掛けた仕事の中で、一番印象に残ったというか、想い出に残っているのは、「ナショナル・ランプーンズ・アニマルハウス」の一冊和訳本であった。

映画「アニマル・ハウス」のノベライズで、漫画やイラスト、映画の写真をちらした雑誌形式のものであった。体裁は英字の左開きから日本語用の縦組みの右開きにし、束を出すための用紙などを決めていった。オール4色は価格的にまずいということになり、4色と1色を折りにより、散らすやり方をとった。

作業の途中で映画の試写を見た。大傑作であった。興奮した。大分前、同様な筋であった「アメリカン・グラフィティ」に感動していたぼくは、有無を言わさず、こちらに軍配を上げた。ジョン・ベルーシを筆頭にいい加減なやつらの集合体である彼らの生き方に同感した。ぼくにとってとても身近に感じられた。

中学校の頃、友達に優等生であったが、(先生への)ちくり屋がいた。当時のぼくは彼を心の底から許せなかった。そんなことを思い出させてくれた映画であった。

映画の公開に合わせたスケジュールで進行していたが、問題が起こった。当初は「アニマルハウス」だったが、「アニマル」と「ハウス」の間に「・」(中黒)を入れるか入れないか、会社での検討が始まったという。“んな、ばかな”と ぼくは思った。他の刷り物もあることだし、入るわけがないと勝手に考えていた。が、いつまでたっても決まらないでいた。時間がなくなり、見切り発車で中黒なしで印刷を開始してしまった。公開直前、正式タイトルは「アニマル・ハウス」となった。こんなつまらないトラブルのせいではないだろうが、動物映画と間違われたのか映画は見事な大コケであった。当然、本もコケた。昭和55年、ぼくが29歳の時であった。

この頃、ぼくは日本テレビで、あるドキュメンタリー番組を見た。富山に住む筋ジストロフィーにかかった少女の話だった。どんどんと病魔が進行していく様を描いていた。番組はこれから死を迎える彼女の明るい笑顔で終了した。彼女の生き様に胸を打たれたぼくは、翌日日本テレビに電話をして、彼女の住所を聞きだし、手紙を書いた。あなたに会いたい、と。あなたの生きて来たこれまでを本にしたい、と。しかし、返事はなかなか来なかった。身体の具合が悪いのか、いろいろ事情があるのだろうと、ぼくは待つ事にした。

数ヶ月経って、1枚のはがきがぼくの元に届いた。彼女からだった。しっかりとした文字で書かれていた内容は、うれしい話だけれど、とても戸惑っている、とあった。年に何回かの手紙のやりとりをしていたが、彼女の自伝を作る話は自然消滅していった。なぜそうなったのか、都合のいい事に全く思い出せないでいる。実現化したかった。今となってはとても後悔をしている出来事であった。

“ノヴァ”にいたぼくたちは、会社組織ではないため、それぞれ勝手に仕事をこなしていた。新しい仕事が入ったら、手が開いている人間たちで分担するという状況も多かった。そして、ぼくらの仕事は飲み屋でもらえることが多かった。やはり、新宿が中心であったが、当時はまだ青山や六本木にも気楽に通える安い飲み屋もあり、夜中からでも映画会社の宣伝マンや大小出版社の編集者連中が集まり、バカ話に明け暮れていた。そんなバカ話に、「ちょっとそれ、おもしろいから書いてよ」とか「企画書にしてよ」とか、結構仕事に結びつくことが多かった。ぼくらの話を立ち聞きしていた見知らぬ関係者からも、その話もっと聞かせてくれ、と割り込まれるケースも多多あった。そう、夜中の飲み屋がぼくたちの営業場所でもあったのだ。その中心にいたのは、話術の天才であり、リーダー的存在の清水俊雄であった。

最愛のジョン・ベルーシが死んだ時も、新宿の行きつけの飲み屋“酔胡”に映画関係者や評論家を集めて、追悼パーティを開き、大騒ぎしたのも清水くんの発案であった。

また彼は、東スポ、サンケイスポーツ、報知新聞等の記者や大陸書房ら出版編集者を集めて、GS中心のバンド“シルバーシート・バンド”を結成し、六本木あたりの店を貸し切り、精力的に演奏会を開いたりもしていた。この時、特別ボーカ リストとして、中村雅俊も参加していた。

 

営業といえば、ぼくたちフリーランスにとって、年賀状や暑中見舞いのような季節の挨拶も大切であった。というのも、自分の存在を忘れられていることがほとんどなので、「あっ、そういえばこういうやつ、いたなぁ」と思い出してもらえるからだ。こういう時に、呼び出されて頼まれる仕事は、デカいことが多かった。

“ノヴァ”のメンバーだったFが、東京ニュース通信社に就職した。ぼくは彼から 「週刊TVガイド」の仕事をもらった。それは、音楽番組紹介のタイアップもので、月1回白黒グラビアの1頁であった。番組のチョイスと原稿、それとデザインであった。毎月取材している中、TVガイドのNHK番の担当者から電話が入った。 ぼくは民放にはよく足を運んでいたが、NHKにはあまり行かなかった。彼は、「顔を出したほうがいいよ。ぼくが紹介するから」と言ってくれた。NHKに出向いた。若い彼は何人かの音楽番組担当者やプロデューサーを紹介してくれた。ぼくは帰り際、礼を言い、名刺交換をした。名刺には、朝井泉と書かれていた。後の泉麻人である。彼とはその後、新雑誌で一緒に仕事をすることになる。

しばらくすると、「週刊TVガイド」の編集スタッフ数名が同時に辞めていくという事件が起こった。内部では大騒動になっていた。彼らはのちに対抗誌となる 「週刊ザテレビジョン」(角川書店)の創刊メンバーとなっていた。

 

ぼくはこの頃、軽い悩みを抱いていた。好きな音楽の記事を書くのは楽しいけれど、ぼくなんかより、もっと詳しい音楽ライターは山ほどいる。映画だってそうだ。だから、いつか仕事はなくなるだ ろう、と。ぼくはフリーランスで生き抜いていくために、需要があるけれど書き手がいないジャンルを模索していた。

そんな時、TVガイドの臨時増刊「ビデオコレクション」の編集スタッフに加わることになった。そこでの担当は、ビデオのハード(機械)だった。この中には、映画の撮影経験を活かせるビデオカメラも入っていた。当時、世間ではビデオが普及し始めていた。まだアダルトビデオが主体であったものの、8mm(カメラ)に代わり、ビデオカメラも高価ではあったが、出回り始めていた。撮影テクニック自体は、8mmであろうが、16mmであろうが、それほど変わることはない。あとはビデオの特性を把握すれば、なんとか仕事に結び付けられるだろうと考えた。ぼくはビデオ・デッキやカメラを始めとする“ハード”について勉強することにした。

清水俊雄の結婚 を機に、“ノヴァ”は解体した。ぼくは、神保町にオフィスを構えていた編集プロダクションに間借りし、徹夜仕事に専念していた。朝の7時から10時まで、近くにあったサウナがぼくの寝場所になっていた。Fが東京ニュース通信社を辞め、新宿御苑の向かいに編集プロダクション有限会社“ジャックポット”を設立した。ぼくはFに誘われ、家賃の一部を払い、フ リーランスとして席をおいた。この時、FM東京の深夜ラジオ番組「気まぐれ飛行船」で片岡義男のお相手をしていた女性パーソナリティーも同様に在籍することになった。

TVガイドの臨時増刊として出した「ビデオコレクション」が好評で、ビデオ情報誌の一番手となる月刊化が決まった。ビデオのソフト・カタログ部を翔ブラザースが、ソフトの特集記事部をジャックポットが、ぼくはハード関連を、それぞれ担当することになった。この雑誌に泉麻人もデスクとして加わることになった。

「月刊ビデオコレクション」には、ビデオカメラの特集頁があり、ぼくはコーディネイト兼ライター担当になり、企画編集として当時マガジンハウスの雑誌 「ダ・カーポ」のライターをやっていた高橋という人物が参加することになった。コアラをおじさん顔にしたような風体の禿げたこの男は、ぼくよりもかなり若かった。が、彼の企画は的はずれのものもあったが、とても奇抜で面白かった。しかも、彼との仕事は遊びながらやったような気分にさせてくれた。

創刊号では、「山本益博、築地を撮る」と題して、早朝の築地場内をビデオカメラを回して、その蘊蓄を語ってもらうものだった。林真理子とラブ・ホテルを覗いたり、蛯子能収と白塗りの大駱駝艦の若者たち と下町路地を徘徊したり、藤原新也と田原総一郎に東京風景とジャーナリズムについて語ってもらったり、気球に乗ったり、カーレースを見たり、毎月のロケが楽しみでならなかった。

この時、一緒に仕事をしたカメラマンの佐藤ヒデキと3人でよく酒を飲んだ。まだ、築地場外の丁度朝日新聞社の向かいに、テント(飲み屋)が出されていた頃だ。徹夜作業を終える朝方、ここで酒を飲んで帰るのが、日課になっていた。

疲れ果てた高橋くんと2人で店に入ると、3人の男のテーブルの上に飲んだビール瓶5,60本がずらりと並べられていた。高橋くんは「ひぇー、すげぇ」とつぶやきながら、隣りの席に座った。3人は高橋くんの背中の位置になり、彼は見ることができないでいたが、ぼくの席からは3人がよく見てとれた。3人の様子がおかしい。2人は怒りに満ちた顔付きだ。相対する1人はニヤニヤと薄笑いを浮かべていた。沈黙が続いていた。回りの客たちも彼らの様子が気になっているらしく、会話をするものがいなかった。突然、2人組の1人が立ち上がり、ビール瓶を掴み、ニヤニヤ男の頭を思いっきり殴った。ゴンという鈍い音がし、瓶が跳ね返った。ドラマのようにビール瓶は割れなかった。すかさず、再度更に思いっき りビール瓶で殴った。これも割れなかったが、ニヤニヤ男は左右に身体をゆすり始めた。目が白くなっていた。頭からドクドクと血が流れ出てきた。2人組は逃げた。店主が警察に通報。その間、店主がここにいろ、と言うにも関わらず、ニヤニヤ男はあいつらを捕まえると、方便を使い、テントから逃げ出してしまった。パトカーのサイレンが近づいてきた。警察官が来た。店主による事情説明によると、2人組とニヤニヤ男は他人同士で、意気投合し飲み始めたが、大量にビールを飲んだところで、どちらが払うかでもめた。ニヤニヤ男が金はないと言った。そこで、先の状態になっていった次第。

テントの隙間から見える空はもう白くなっていた。高橋くんにもう帰ろうか、と問うた。高橋くんは、「そうしましょうか。それにしても騒がしいですね。一体何があったんですかね。」と答えた。ぼくは疲れていたので、今日のところは説明を省くことにした。

昭和58年秋。新宿御苑から南風に乗って、ジャックポットの新オフィスに銀杏の木の香りが大量に漂ってきた。21歳になったばかりの電話番の女の子が、御苑を向き、大きく深呼吸しながら、「うーむ、男の匂い」とつぶやいていた。

仕事が順調になりだした頃、ぼくは初めて海外へ行った。きっかけは母だった。母の体調が悪く、今の内にでも親孝行しておこうと考え、母方の親戚とハワイに出かけて行った。日程や行動は母と親戚に一切を任せておいた。出発当日の夕方、母と箱崎ジャンクションで待ち合わせた。そこからバスで成田に向かい、親戚と待ち合わせる予定であった。箱崎で母と合ったとたん、アナ ウンスが流れた。「大満足の堀越様、大満足の堀越様、第○カウンターまでお越 しください」。ぼくは母にきつい口調で訊ねた。「何だよ、大満足って。まだ満足なんか、してないじゃないかよ」。母は笑って、「ツアーの名前なの」と平然と言ってのけた。大満足ツアー、ああ、なんというネーミング、お先真っ暗な気分になった。

憧れのハワイに到着した。完璧なくらいの晴天であった。レイとキスで出迎えてくれた女の子とアロハがお揃いであったのに気をよくしたぼくは、一緒に写真を撮ってもらった。まるで、新婚旅行みたいだな、とひとりでほくそえんでいた。

初の海外旅行では、日本人ならではのはずかしい失敗を経験した。○夜中、廊下にあるアイス・ボックスにアイス・キューブをとりに出かけ、部屋の中からロックがかかってしまい、寝ている母を起こすことができず、パンツ一 枚でフロントに行くはめになってしまった。○チップをあげる時、手の平いっぱいになった小銭をかかげ、どれでも取っていいよ、と言った時、女メイドに「それはあなたの気持ちなのだから、あなたが決めて払いなさい」と諭されてしまった。○外からホテルにいる母に連絡をとろうと、電話の交換台と話をしたが、へたな英語が通じず、「アー・ユー・クレイジー?」と電話を切られてしまった。○アラモアナ・ショッピングセンターで、Sサイズのブリーフを購入したが、日本にはない子供用サイズのSだったため、パンツは片足すら通らなかった。

3日目、ハワイ島に渡った。ハワイ島には母方の親戚の女性が大きな牧場主に嫁いでおり、母と親戚はそこを訪ねた。ぼくは、他の日本人観光客たちとオプ ショナル・ツアーでのハワイ島巡りを楽しむことにした。

マウイ島に戻った夜、映画を見に行くことにした。普通の映画だったら、英語がわからず見ても無駄かもしれないと思ったが、公開中の映画は「E.T.」だった。夜10時を過ぎた映画館の入口周辺には、”ウォリァーズ”のような不良グルー プがたむろしており、ラジカセをガンガンと鳴らしていた。映画館の中は、親子で一杯だった。こんな夜遅くまで、アメリカン・ファミリーはよく遊ぶものだと思った。が、12時を回ると、上映途中にも関わらず、この親子たちが帰り始めた。館内はガラガラになってしまった。

見終わった帰りの大通りで、キャデラックのオープンに乗った高級娼婦に「ヘイ、ボーイ!」と声をかけられたが、目を合わせずホテルへと急いだ。

母は食事療法が必要な病気にかかっていた。あまり食べてはいけなかった。ところが、朝のバイキングでは大皿山盛りに食べていた。バイキングで多くの食べ物を取り過ぎ、結局残すという日本人特有の嫌な面を見ていたぼくは、母に、食べ終わってからまた取ればいいじゃないか、と諭した。母は、「平気よ」と言って、ペロッと平らげていた。小食であると聞いていたぼくは目を疑った。こうして、気分転換が効を奏してか、母にとって大変元気な旅行となり、その後、日本に帰ってからも旅行に目覚め、現在もなお家族や友人たちと旅行を楽しんでいる。

次に、写真雑誌に入った高橋くんと彼の同僚とバリ島に遊びに行った。珍道中であった。夜中にバリ・デンパサール空港に着いたぼくたちは、ホテルの用意したおんぼろマイクロバスに乗り、クタ・ビーチにあるホテルに入るや、再びデンパサールの町に繰り出すことにした。その途中、バスは来る時と違う暗闇へと左折した。ぼくは、どうして真っ直ぐ行かないのか、運転手に大声を上げた。そして、高橋くんらに「こいつら強盗かもしれないから、気をつけろ」 と叫んだ。かなり興奮状態だったので、高橋くんが「堀越さん、落ち着いてくださいよ」と後ろから声をかけてきた。運転手がぼくに話すのだが、よく分からないでいた。やがて、暗闇の中から明るいデンパサールの市場が大きくなってきた。後で分かったのだが、暗闇方向に左折したのは、一方通行のせいであった。

マジックマッシュルームをオムレツにしてもらい、ロッジ風のホテルの部屋に戻った。ビールを飲みながら、みんなで食べた。ものの数分で「来た、来た、来た」とぼくは興奮した。天井の木の目が虫のようにうじゃうじゃと這い出してき た。「こりゃ、すごいわ」とばかりに、ぼくは籐の長椅子をもって外に出た。満天の星たちが、まるでUFOのように変則的に飛び交い、近付いてきては様子をうかがってはまた遠ざかっていく。その繰り返しが果てしなく続いた。何千というカエルの鳴き声がぼくに話し掛けてきた。カエルは「気をつけろ、人が来るぞ」という警戒の言葉もくれた。ぼくが我に帰ると、そばを通り過ぎるホテルの客や警備員がいて、ぼくは軽く会釈をした(これは人が近寄ってくる と、カエルの鳴き声が止むのでそう聞こえたのか)。はるか遠くの木の葉一枚一 枚が月の光に反射して、はっきりとその形がわかった。木々を揺らす風の音が、「海に行ってはいけない」と忠告する。ぼくはその一秒が的確に一秒と身体で感じられるこの至福の時を、明け方まで楽しんでいた。

翌日、早朝からパタンバイにダイビングに出かけた彼らをよそに、ぼくはひとりレギャンの町を散策することにした。画廊に入り、絵を眺めた後、説明をしてくれた店の若者に、バイクでサヌールまで連れていってくれないか、と交渉した。「○ドルで行く」という。彼の運転するバイクの後ろに乗り、広大な塩田地帯といくつかの町を横切った。途中、収穫の終わったばかりの田畑の中に、わら葺の大きなドーム状の家があり、道路の脇にバイクを止めた彼がぼくに、「行って、見てこい」という。そこまで100メートルくらいはあった。回りには、だれひとりとしていない。ぼくはその家の入口から、そっと入ろうとした。外の日差しが強烈だったためか、真っ暗な中が全く見えてこない。外の土は乾いていたのに、この中は非常にぬかるんでいた。そして、人の気配を感じた。目が慣れてきた。大きな亀の腹が見え、そ れを持っている人間も見えてきた。ひとりではない。大勢の人間が皆同じように、大きな海亀を抱え、ぼくのほうにじわりじわりと寄ってくる。恐くなったぼくは、何なんだ、と思いながら、後ずさりをする。彼らはぼくに海亀を見せているのだ、はわかる。だから何なんだ、と自問する。辺りがよく見えてきた。上半身裸の彼らの姿がおかしい。みんな目や鼻や口などのどれかが欠けている。彼らは今度、手を出した。わかってきた。「金をくれ」だ。「海亀を見せてやるから 金をくれ」だ。ぼくは予想だにしなかったこの状況に対応できず、一目散にその場から逃げ去った。慌てて逃げてくるぼくの姿を見ながら、バイクの若者は腹を抱えて笑っていた。ここは、秘密に海亀を養殖(? 獲ってきているのか)している、とて もヤバイ所らしかった。

サヌールに着いたぼくは若者に礼を言い、ホテルのビーチから海岸線に沿って歩いた。所々ビーチを仕切る柵があったが、別に楽に通れるので気にもしなかったが、ぼくの歩いているこのビーチは、実はフランス人たちのプライベート・ ビーチなのだと途中で気付いた。フランス人の別荘の庭を抜け、通りに出たぼくは飲み物を買おうと、小さな店に入った。そこでは、おばさん3人が話しをしていた。ぼくはビールを頼んだ。ぼくを珍しがってか、話し掛けてくる。ちょっと話している間に、子供たちや若 者たちが10人くらい集まってきた。車座になり、日本人とバリの人たちとの質疑応答が始まった。「何しにきたのか。サーフィンか、フィッシンか」。ぼくは 「ウォーキン」と答えた。みんな口々に「ウォーキン」「ウォーキン」と繰り返 しながらの大爆笑となった。10代の若者が、「この近所にバリ大学があり、日本 人の女の子がふたりいる。そのうちの伊達さんという女の子が剣道の達人で、バリでも有名なのだが、大好きなので紹介してくれないか」と言う。今度はぼくが大笑いした。

ぼくは、バリ島の感想を話した。「日本ではバリ島はサーフィンなど海がとても有名だ。ぼくはバリの海や美術を見にきたのだけれど、山の中にある美術館に行った時、バリの山の素晴らしさに驚いた。バリは山がとても美しい。今度来る時は、是非キンタマーニに行きたい」と。そうすると、おばさんのひとりがこう言った。「バリには神様がふたりいる。海の神様は悪い神様。山の神様はいい神様。あなたは、いい神様からお呼びがかかっているのだ。またバリにいらっしゃい」と。

その夜、高橋くんらと海鮮レストランで夕食。飲めや食えやの大騒ぎをしているのは、ぼくらを含め、日本人の観光客だけ。回りのオーストラリア人たちは 2~3ヶ月の休暇で来ているので、普通通りの質素な夕食である。金はあるけど時間のないぼくたち日本人。一体日本人って何なんだろう、と漠然と考えながら、マジックマッシュルームを求めて、レギャンの街中に消えていくぼくであった。

続く

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