ネームバッジ、針金細工、マクドナルド、銀座千疋屋、テキヤ商売、広島カープ優勝、POPEYE、クィーン

私家版「記憶の残像」⑧~路上アクセサリー

真上の2階には、日本舞踊のお師匠さんが住んでいた。30代後半くらいか、このお師匠さんが、毎晩“何”してうるさいのだ。叫び声だけでなく、竹刀とか鞭とかで叩く音、ガラスの割れる音、水が撒かれる音、飛び跳ねる音、いろいろな音がした。

そんなある日、1階の右隣りの人と初めて顔を合わせた。ぼくは「あれーっ」 と彼を指差した。向こうもぼくを見て「あれーっ、どうしてここにいるのよ」と指差した。隣人は、ぼくたちの映画とよく比較されていた『バイバイ・ラブ』の 監督、藤沢勇夫だった。ぼくは藤沢くんと奥さんとすぐに仲良くなり、毎晩酒や夕飯を御馳走してもらうようになった。

こうして、ぼくはもうしばらくここに住んでいようか、と思うようになった。

ある日、あまりにも暇そうにしていたぼくに、アクセサリー屋の社長が話かけてきた。昔、俳優座で芝居をやっていたという社長は、上原さんといい、坊主頭に眼光鋭く、一見やくざもののように見えた。

アルバイトをやらないか、という話だった。ぼくは、翌日から銀座三越の5階のアクセサリー売り場で、会社の女の子とふたりで売り子として働くことになった。アクセサリーの売り場は、たまに混むだけで、かなり暇であったが、戻ってからの夜は、ラジオペンチと針金を与えられ、英字の大文字、小文字のAからZまでを作れるよう、特訓させられた。ネームバッジの練習だった。

この頃、若者たちによる路上アクセサリーが流行っていて、そのメイン商品がネームバッジだった。針金で、ローマ字の名前を型取るもので、飾り物をつけたりして、値段は400~500円で売っていた。ぼくは練習がてら、5階の売り場でおばさん相手にネームバッジを作って売っていたが、客層の違いか、さほど売れる ものではなかった。

アクセサリー屋で働くことになってから、しばらくして、5階の売り場から1階の外に店舗が移された。売上げが2倍も3倍も上がった。社長の上原さんは毎日、上機嫌だった。ところが、すぐにここを立ち退く出来事が起こった。三越1階の外に、日本初上陸、アメリカのハンバーガー・チェーン“マク ドナルド”が出店することになったからだ。

昼休み、上原さんに銀座千疋屋2階のパーラーに呼び出されたぼくは、フルー ツ・パフェを食べながら、「もう三越は終わりだから、今度はひとりで路上で売ってみないか」と上原さんの言葉を聞いていた。

ぼくの路上アクセサリー屋の生活が始まった。

路上アクセサリーは、晴海通りを銀座ソニービルから三愛に行く途中にあった第一勧業銀行(現みづほ銀行)前で始めた。入り口4段の階段の片側半分とウィンドウ下の平らなスペースに品物を並べた。もう半分には、同じ路上アクセ サリー屋の先輩格のベラさんが陣取っていた。そして、手相見のおばさんが真ん中に来たり、ぼくの端に来たり、その日によってお店の位置を変えていた。

銀行が閉店してからの商売なので、平日は夕方から店を出し、夏は夜10時頃、冬は8時くらいまでやっていた。

銀座の所場は、関東○○会の他、4つくらいのテキヤの連合が仕切っており、上原さんはそのひとつに属した。ぼくの所場代は月1万円で、決して高くはなかったが、寄合いとか会合とかが月に数回開催され、これが日本酒、ビールの他、食い物が乾き物のみで、数万円取られた。ぼくは直接の組合員ではないので、最初の1回出ただけで懲り、その後は出なかった。

きれいごとで言えば、テキヤの精神はお互いに助け合っていくことにあった。 テキヤの商売は、許可もなく路上や開いた場所に、屋台や店を出す、完全なる道交法違反にあたった。定期的な警察の見回りがくると、若い衆が「くるぞ」と声をかけて、次から次へと知らせる。すると、ぼくらは店をそのままにしてずらかる。警察は現行犯で逮捕しなければならず、店に手を触れられない。警官が通り過ぎたら、また何もなかったのように商売を始めればいいのだ。ぼくは、客が多過ぎて逃げられなかった時が1回あり、東銀座の交番へ連行され、罰金5千円と調書、指紋をとられた。

また、近くにはえらく商売繁盛の“よりどりみどり3枚500円”のスカーフ売りや 磯部餅の屋台などが出ていて、「兄ちゃん、ちょっと見ててや」と言って、食事や小便に行ってしまうのだ。客が寄ってくると対応しなくてはならない。結構、これがかけもちのため大変だった。 醤油が焦げる香ばしい匂いに負けて、磯部焼きをタダ食いした時があった。しば らくして、腹痛を起こした。この餅は、原価の安い粗悪品で、1回固くなると二度と柔らかくすることのできない餅だった。つまり、腹の中ですぐ固くなり、そのまま消化できないのであった。

商売をして間もなく、「お前、ここで何やってんのや」とふたりのチンピラが因縁をふっかけてきた。ぼくは「○○さんの許可をもらってますよ」と言った。 「うそ言うな、われ」といきなり胸倉を掴まれ、銀行と千疋屋のビルの、人一人入れるかの隙間に押し込まれ、ボコボコに蹴られた。1週間後、殴られて顔を腫らせたそのふたりが、この前はすまなかったと、謝りにきた。おそらく、テキヤのだれかが見てて、その一切を報告したのだろう。

売り物や商売道具はかなり量がかさむので、角を曲がった西五番街の中華料理屋の倉庫に置かせてもらった。その礼として1週間に1,2度、そこのまずい中華を食べなければならなかった。

路上でのアルバイト料は、売上げの3割だった。ぼくが始めた頃は、流行始めの頃だったので、夕方4~5時から夜9~10時までの平日でも、日に5~6 万円の売上げがあった。土日になると、昼から店を出し、夜7~8時までやって、10万は軽く越えた。

しばらくして、ぼくは隣のベラさんとふたりで独立することになるが、その時のぼくの最高売上げは、1日26万円にもなった。売れる商品のトップは、何といってもネームバッジで、最高売上げのこの日の夜には、作り続けのため、ぼく の右手は完全に何も握れない状態になっていた。小便にも行けず、食事は買ってきてもらったマクドナルドを頬張りながら、おそらく3百個近くは作っていた。

銀座には、隣りのベラさんの他、斜め向かいの富士銀行前にマキちゃん、近鉄 ビル前のボンちゃんが路上アクセサリーを売っていた。ボンちゃんは、ここで商売をする前に、ヨーロッパ中を回りながら、路上アクセサリーを売っていた先達的な人物で、小学生のような西ドイツ人の奥さんと店を開いていた。ボンちゃんは、この後ニューヨークに出掛け、チキテリ屋を始め、大成功を収めることになる。銚子に住むボンちゃんの兄さんが、「ニュー ヨークの近くの島に店を出したよ」・・・「繁盛しているから安心して、と言ってたよ」・・・「店を拡大するので、調理場の特注パーツを仕入れなくちゃならないんだ」・・・「2号店をマンハッタンで出すんだって」・・・逐一、ぼくやベラさんに報告に来ていた。

昭和50年の秋、広島カープが念願の初優勝をした。市営球団のため、巨人のような企業による優勝セールスはなく、東京ではしらけていた。

が、銀座はそうではなかった。広島出身の経営者たちが立ち上がり、かなりのお店が参加し、その店舗ごとのセールを行なった。飲食店では、昼間からビールや樽酒、やきとり、とん汁などを無料で配った。ひとりで何杯でも何本でも無銭飲食できた豪気な計らいであった。これを聞いた東京中の浮浪者たちが銀座に集結した。昼間から生き生きしていた彼らの姿は壮観であった。巨人や阪神の優勝とは違い、弱かった広島の優勝は、まさに弱き庶民たちへのためにあった。

ぼくが銀座で路上アクセサリー屋をやっていた昭和50年初め、原正孝が“ ニューシネマ・エクスプレス”という映画同人誌を作り、これを後藤和夫夫妻が手伝い、彼らはその中で批評や論文やシナリオを展開した。

その年の暮れには、渋谷区富ヶ谷にあった「胡流氓(こるぼ)工場」の代表であった大久保賢一(現映画評論家)や小林竜雄らが積極的に加わり、内容も高嶺剛、大森一樹インタビューの他、自主上映の具体的なマニュアル、つまり使用料金やキャパを載せた上映会場リスト、マスコミに対しての情報宣伝・売り込みの方法と新聞社・雑誌社の連絡担当などの関係者リストなどを掲載し、極めて戦略性に富んだ季刊第一号を登場させた。

 

ぼくはというと、相変わらずアクセサリーの商売に励んでいた。ぼくは、銀座だけでなく、上野にもよく出向いた。若者たちが集まる原宿などには見向きもしなかった。当然、メインの売り物は流行のネームバッジだったが、何が儲かるかというと、最高価格2400円の大きなペンダントだった。これは 若者向けというよりかは、セーターなどの上に付けるおばさん向けの商品だったので、お上りさんを相手に商売を考えたのだ。まとめ買いをするおばさんたちは、後を立たなかった。

そして、年末年始になると浅草に出向いた。年末の12月24、25日のクリスマスには銀座で商売した後、休みをとり、29日から仲見世通りと浅草寺の間にある寺の建物脇で商売をした。

近所の旅館を2週間予約したのだが、あまりの人の多さが続くので、休むタイ ミングが見えず全てキャンセルした。やはり正月の7日くらいまで客足は絶えず、客足のすく朝になると近所のサウナに行き、2~3時間仮眠する毎日だった。

この頃には、売れ筋の商品も増え、小さな金や銀の板金にアルファベットの ネームを刻印し、ブレスレットやプチペンダントに作り上げるものから、ベニヤで作ったスヌーピーの表札のようなものまで、コンスタントによく売れていた。

結局、年末年始約10日間で、売上げは優に300万円を超えた。すっかり味をしめたぼくは、祭事がある時は、よく浅草に出かけるようになった。もらった場所はオレンジ通りと新仲見世通りの交差する、舟和の斜め向かいの空き店舗の脇で、隣りには皮製品屋があった。商売道具は雷門の近所、仲見世通りの裏手にあった喫茶店“金龍”に置かせても らった。ここは、きっぷのいい3姉妹が経営していて、大変お世話になった所である。

浅草では、向かいの洋服屋の前で商売をしていたフーテンの寅さんのような一 匹狼のテキヤに出会った。その商売上手にぼくは本当に感心した。見事な売り方は、これぞテキヤの手本だと思った。口で吹くと巻いてあった棒状の風船がぴゅーっと伸びる“巻き取り笛”を売って いたこの男は、小さな子供を連れた母親を狙っていた。

子供が男の子の時には女の子として、女の子の時には男の子として声をかけるのだ。ピィーピィーと笛を鳴らしながら、「お嬢ちゃん、元気いいねぇ」「お嬢ちゃん、きょうはママに何か買ってもらったの?」。また母親には「お宅のお嬢ちゃん、ちょっと男の子と間違えられちゃうでしょ」……と近づいていく。だれが 見ても男であっても女という。こうすると、必ず母親が反論するのだ。「うちの子は男の子よ」と。「へぇ~、女の子だと思った」と言いながら、その笛を子供に渡してしまう。何も知らない子供は、おじさんがやっていたように、笛を吹いてしまう。母親は子供が口を付けてしまったので、買わざるを得ない。実に巧妙で、タイミングを心得た売り方だった。

浅草では、詐欺の詰め将棋屋が神出鬼没に出現していて、これをぼくは何回も見かけた。彼らは4,5人のグループで構成され、人込みの少ない所で商売をする。主役は将棋盤を首からぶらさげている。ひとりが相手客を装い、他の数人が通行人として、その回りを囲む。こうすると中を覗こうとする人間がひとりや ふたり必ずいるものなのだ。もう一歩で客が詰みそうになると、「もう金がないや」とか、覗いている人間に「あんた、続きやっていいよ」とか甘い言葉を巧みにかける。絶対に親が勝つ仕組みなのに。 中には、この通行人役がスリの時も状況によってはあった。彼らは、ひとつの仕事が終了すると、その場所からさっといなくなってしまう。

巧妙な手口なのだが、人間の心理をついた“さくら”の存在に関心を持った。露天商には、“さくら”の存在が実に大きく、不可欠のものだと悟るには時間はかからなかった。

銀座でもこの“さくら”に本当に助けられた。“さくら”と言っても金を出して雇う、詐欺まがいなものではなく、店によく来る女の子たちがその“さくら”の役目 を果たしてくれたのだ。ぼくがネームバッジのサンプルを作りながら、女の子と話していると、通行人には、彼女がお客さんに見え、次に作ってもらおうと並ぶ。彼女たちが、店の新しい商品を眺めていると、どんなものなのかと見る客がどんどんと増えてくる。面白い。人間って、潜在的に他人のすることに興味があるものだと理解できた。

 

昭和51年。銀座の店にひとりの若者が訪ねてきた。“POPEYE”というネー ムバッジを60個作ってくれと。それに金メッキをかけてくれと注文した。ぼくは 60個のネームバッジをもって、東池袋のメッキ屋に持って行った。

そして、指定された銀座松屋デパートの裏手にあった場所に納品をしに行っ た。そこは平凡出版という出版社であった。若者は「できてきたぞー」とみんなにバッジを配った。そして胸にネームバッジをつけた彼らは、一斉に「えいえいおー」と勝鬨をあげた。 それから数ヶ月後、「POPEYE」という雑誌が本屋に並んだ。

ある日、銀座の店に男が訪ねてきた。ぼくの作るネームバッジが気に入った と語るこの男は広告代理店の人間で、近く新宿伊勢丹会館で行なうチャリティ・ イベントに出店してくれないかと言った。品物はネームバッジのみで1個1円で売 り、ギャラは1日5万円だった。ぼくは即座にOKしたが、ぼくひとりでは作る数に 限度があったので、隣りのベラさんも同じ条件でと、誘った。ベラさんは、長身でガリガリにやせ、髪を腰まで伸ばした、まるでヨガの行者の風貌であった。普段、仲良くはしていたものの、商売敵という意識もあったので、積極的に話すことはなかった。しかし、これを機会に腹を割って話せるようになっていった。そして、ふたりで共同路上アクセサリー業をやるまで、時間はかからなかった。 ベラさんが作り、ぼくが売り子で、売上げを半々にした。  

この頃、住み家は六本木から下北沢に移っていた。 家路を急いでいたある夜、ふたりの若い警官に呼び止められた。空き巣が頻発していた時期で、不審尋問というやつだ。「カバンの中を見せろ」と言う。「勝手に見れば」とぼく。警官や刑事が自ら人のカバンを開け、中から物を取り出してはいけないことを知っていたからだ。

だが、なめてかかったのがいけなかった。この後、映画のような悪夢の世界がぼくを待ち受けていた。

この頃、皮細工の商品も売っていたのだが、カバンは自作のものであった。 「早く、見せなさい」ということで、中から物を取り出した。 まず、出したのが、ネームバッジ用のラジオペンチと針金だった。それとペンチの先やバッジのピンを作るために削る鉄製の大きな棒ヤスリ2本。「何に使うんだ?」と疑いの眼差し。ぼくは商売の話と道具をどのように使うかを説明した。次に取り出したのが、ぼくの貯金通帳とベラさんに渡す売上げの半金約20万円。通帳には、2,3日毎に売上げを入金していたから、どんどんとお金が貯まっていく様が見てとれた。そして、この20万円は共同でやっている男に渡すものだと話した。しかし、ぼくは池袋に住むベラさんの家には、2,3回しか行ったことがなく、しかも電話がなかった。だから、連絡の取りようがなく、彼に金を渡すのは、月に3,4度銀座の店に新しい商品をもってぶらりと来る彼を待つしかなかった。こんな話、誰にも信じてもらえないだろうけれども、本当のことだった。 「共同で商売をやっている人間と連絡が取れない?」とますます空き巣犯人モー ドにはまっていく。次に出したのが、アクセサリーやパーツをしまう透明なビニール袋の束と針金を拭く脱脂綿。「おっ、お前、シンナーやるのか?」ときた。

とうとう、ぼくは上北沢署に連れていかれた。  何度も何度も同じ質問と返事の繰り返しだった。ぼくは両親に迷惑をかけたくなかったので、親はもういないと嘘をついた。自分の住み家も知られたくないので、ごまかした。夜中を過ぎると、何人もの暇な警察官たちが何だ、どうしたと珍しがって見に来た。

話はシンナーや大麻から拡大し、シャブや麻薬の話になった。実はこの上北沢署は、1,2週間前、アメリカ人女性が麻薬所持の疑いで全裸にされたと、抗議か 訴訟を起こしたと新聞で知っていた。ぼくはまさかそんなことはないだろうと思っていたところ、「服を脱げ、(注 射)針の痕を見るから」。また、物珍しそうに関係のない警官がゾロゾロとやってきた。「これは何だ」「ホクロじゃないですか」…腕や指、足、舌などを隈無くチェックした。

ぼくは最後のパンツを脱いだ。6人の警官たちの目はぼくの粗チンに集中した。全員ギョッとしたり、ビックリして後ずさりをした。粗チンに何をビックリすることがあるんだと自分で見た。ワオォー、ぼくもビックリして後ずさりした。何だ、これは。 あそこが真緑色なのだ。

この時、ぼくは同棲していた。眠っている間に、女がマジックインクで塗ったものだった。警官たちは危ない病気だと勘違いし、ザワザワし始めた。結局、病気でも空き巣でもないことがわかり、身元がわかれば釈放するという ことになった。朝を待ち、実家に電話して、母に間違いのないことを話しても らった。署を出て帰途につく朝靄の中、かつて味わったことのない屈辱に涙が出てきた。ぼくにとって一生忘れない出来事であった。

 

ある夜、ふたりの外人がやってきて、ネームバッジを注文した。ぼくはこの時、彼らが何者であるか知らなかった。名前を聞いた。ひとりは“フレディ・ マーキュリィー”と名乗り、もうひとりは“ロジャー・テイラー”と名乗った。ぼ くは、長い文字のフレディをベラさんに頼み、ロジャーを作ることにした。通常は、間違えのないよう、紙にスペルを書いてもらうのだが、“ロジャー・テイラー”は問題ないだろうとすぐに作り始めた。というのも、晴海通りを隔てた店の正面、近鉄ビルの右横に“TAILOR××”と洋服屋の大きな看板ネオンが見えていた ので、安心しきっていたのだ。

ぼくの作ったネームバッジを見て、ふたりは腹を抱え、大笑いした。 結局、作り替えたものとふたつ上げたが、翌日からロックグループ“クイーン”のグルー ピーたちが次々とやってくるようになった。フレディーとロジャーのバッジを作った人に会いにきたのだ。そして、彼女たちは同じバッジを注文し、それから時々友達を連れては遊びにくるようになった。

昭和53年に入ると、銀座の街は第二次オイルショックのため、夜、街灯の明かりが全て消えた。そんな冬の夜の寒い闇の中、銀座の店で商売をしていたぼくは、一体いつまでこんなことをしなければならないのか、年をとってもやってられるのか…、どうしようもない不安に駆られた。このままではいけない、と思った。

そして、こんなやくざな商売、もうやめよう、と思った。


続く

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